プロローグ
「十和子さん」
「何?」
「男に付きまとわれたことって、ありますか?」
姫華との帰り道、そう切り出された。
新卒の彼女の指導係になったことで、二人は仲良くなった。歳は一回り以上離れている。
偶然住まいも近く、こうして肩を並べよく帰ったりもする。
ただこんな話題になったのは初めてだ。
「警察には?」
「してません」
姫華は事務員で入ったが、大学では学校の先生を目指して学んでいたらしい。
どういう経緯でここに入社したのかは聞いていない。仕事も人あしらいもそつがない。
ただ一人のとき、時折表情に暗い影が差すのが気になっていた。
今の彼女はその顔をしている。
「私としてもこれ以上事を大きくしたくないんです」
その話しぶりからおそらく元カレか何かだろうと十和子は思った。
「どんなことしてくる?」
「電話とメール。よりを戻すのを断ったら、アパートの前で待つようになって」
「年上?」
姫華はかすかにうなづく。
「一つ上です。大学の先輩だったんです。小学校の先生になって、でも問題起こして辞めたんです。半年で。フリーターやってるっていう話ですけど、何にもしてないんだと思います」
「危ない感じ?」
「また私と一緒に暮らしたいみたいで。昨日部屋に入られそうになって、大声上げたら逃げていきました」
それは怖いだろう。
「なら今日うちくる?」
「いえ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったわけじゃなくて」
「でも、もうどうしようもないんでしょ。友達もだめってことよね」
「……はい。でも、迷惑かかりますし」
「有給とりなさい。私も会社に言ってあげるから。その間に彼とはっきりさせる。止めないようなら警察。引っ越しも考えよう」
そこまで言うと、姫華は小さく息を吸い込んで顔を上げた。心なし吹っ切れた顔をしている。
「そうですね。わかりました。お願いします。ご迷惑おかけします」
姫華はその日のうちに元カレにメールを入れ、これ以上すると警察に対応してもらうことになると警告した。
男からは分かったと返事が返ってきたようだ。
話し合う気はないらしい。
もちろんまだ警戒は解かない方がいい。
その日姫華は、十和子の家に泊った。荷物は取りに行ける距離だったが、着替えや諸々の生活用品は途中で買うことにした。
貴重品なんかは出勤の前に取ってくればいい。
翌日会社に窮状を訴え、緊急ということで有給をねじ込んでもらえた。
どういう身の振り方にするかは、この数日で決めることにしたようだ。
「彼、どんな人なの?」
次の日も姫華は自宅アパートに戻らなかった。
部屋で一緒に夕食を取りながらそう尋ねる。
どういう男なのか知っておいた方がいいと思ったし、話を聞いてガス抜きしてやるつもりもあった。
「大学の学童ボランティアで知り合って。同じ先生を目指してる優しい先輩って感じだったんです最初は。話も合って。それで付き合い始めて」
総菜屋のサバの味噌煮をつつこうとしていた箸を止めてそう答える。
「でも小学校の先生になってから、……最初はよかったんですけど、」
そこで彼女は言葉を濁す。
「生徒の子供がSNSに無断で彼の写真を上げて、それが癇に障ったみたいで、呼び出して暴力ふるったらしくて。
それで休職して、でも結局辞めてって感じで。私もそういうの見てたから、先生になるのやめにしたところもあるんです」
「それで、なんでうちの会社?」
話を変えるつもりでそう尋ねる。
「私、文房具が好きだったんです。気分に合わせて使うペンなんかを変えたり、ペンケースなんかも色々あるでしょ」
二人は文房具の卸売りの会社に勤めている。
確かに姫華が使うペンケースは、大工道具みたいな本革の巻物で、そこに収められたペンは、研がれた刃物のような怪しい光を放っている。
文房具の話になったところで、少しだけ彼女の顔に明るさが戻った。
姫華は二、三日この生活を続け、男が来ない確信がついたら戻る気でいるようだ。
翌朝、十和子がマンションを出るとすぐ、知らない長身の若い男に声をかけられた。
「姫華はいますか?」
男の口からそんな名前が出る。
首まで閉じたモッズコート。両手はポケット。ジーンズに黒いスニーカー。
暑くないのだろうかと彼女は思う。春先だが、外着がいらないような日が続いていたから。
だが顔を見て警戒が強まる。彼女に焦点が合っていない。
「どちらさまですか?」
「友人です。昨日見かけたもので」
返事はすぐ返ってくる。口だけで喋っているような、起伏のない声だ。
「いえ、いないですが」
姫華など知らないと言えばよかったかと思ったがもう遅い。
「すいませんが、もういいでしょうか。私、仕事があるので」
姫華は今部屋にいる。今日も部屋でのんびりする予定でいるようだ。
十和子はそのまま男の横を抜けようとする。
「いえ、見てるんで。あなたと一緒にいるの」
そう言って突然男が自分に突っ込んできたのを目の端がとらえた。
「いっ!!」
右の脇腹に激痛が走った。声が出る。
腹にナイフが刺さっている。
それを見たとたん身体の力が抜け、彼女はその場にへたり込んだ。
男は何かぶつぶつ言いながら、マンションに向かっていった。
ただロックつきなので入口に立ってもドアは開かない。
ちっと舌打ちをし、ドアに蹴りを入れ戻ってくる。
その間十和子はハンドバッグから電話を取り出し、姫華が出るのを待っていた。
近づいてきた男が傍らに落ちている彼女のバッグを取って中を漁り始めた。
それを知ってはいたが、傷が広がりそうで抵抗できない。
やがて目当ての部屋鍵を見つけ、男は再びドアに向かった。
早く出て。
十和子はしがみつくように耳元に電話を強く押し付ける。
すでに下半身は自分の物ではないみたいに感覚がない。
男は鍵でドアのロックを解除し、建物の中に入って行った。