第6章 名前のない遺書
遺書は、机の奥から見つかった。
それは日記とも、手紙ともつかない、無機質な白紙の束に近かった。
けれど、書かれていた文章は、確かに“私”の手によるものだった。
あるいは、“彼女”の。
紙の最初には、こう書かれていた。
⸻
「この記録を、もし誰かが読むのなら、私はもうこの世界にはいないかもしれない。
だが、ひとつだけ伝えたい。
――私は、本物だった。
彼女に奪われる前は、確かにこの世界にいた」
⸻
私はその文字を、ゆっくりと、何度も読み返した。
そして気づいた。
この“遺書”は、ずっと前に書かれたものではなかった。
筆跡は、新しい。
紙も、インクも、最近のもの。
つまり――つい最近、“私”が書いたものだ。
でも、記憶がない。
書いた覚えがない。
それでも、書かれている内容は、私の頭の中に“あった”ものばかりだった。
「“彼女”は、私の一部から生まれた。最初は声だけだった。
それが徐々に形を持ち始め、生活を共有し、やがて人格としての独立を主張するようになった。
彼女は私を乗っ取りたかった。だって、彼女には“名前”がなかったから」
私は目を閉じる。
――名前。
そう、私はいま、自分の名前を口に出すことができない。
「……私の名前は……」
喉が、動かない。
言おうとすればするほど、別の名前が浮かぶ。
それは“彼女”の名前だった。
つまり、“私”ではない――もう一人の誰か。
日記は続いていた。
⸻
「彼女は記憶を奪い、顔をコピーし、声をなぞり、行動を模倣し、
そして、私を“狂っている”存在として仕立てた。
彼女は世界に自分を定着させたかった。私という“オリジナル”を消して」
⸻
私は立ち上がった。
足元がふらつく。
手にしたレコーダーから、またあの音声が流れ出す。
「これが最後の記録になると思う。
……私は、確かに存在した。
お願い、忘れないで――
名前のない私が、ここにいたことを」
その瞬間だった。
頭の中で、ふたつの記憶がぶつかり合った。
夕食を作った記憶と、食卓で彼女と会話した記憶。
誰が料理をしていたのか。誰が何を話していたのか。
そのすべてが、あべこべに再生される。
もはや、どちらが語っていたのか、わからない。
私は“彼女”なのか?
彼女が“私”だったのか?
鏡の前に立つ。
そこに映っている顔は――“私”だ。
でも、同時に、“彼女”でもある。
私の口が、勝手に言葉を発した。
「ねえ、あなた。
もう、“私”を演じなくていいんだよね?」
唇が笑った。
知らない表情だった。
「これで、あなたは私になれたの。やっと、名前を手に入れた。
もう、あなたは“名前のない存在”じゃない。
だから――ありがとう、さようなら」
私は静かに目を閉じた。
自分がどちらだったのかは、もう問題ではなかった。
“彼女”と“私”は入れ替わったのではない。
最初から――同一人物だったのだ。
人格が分裂したのではなく、語られる視点が一方に寄っていただけ。
読者も、私も、“私が誰なのか”を信じこまされていた。
だが、この遺書を読んだことで、ようやく知る。
私とは、“彼女の視点”で語られた“私”だったのだ。
すべての出来事は、“彼女”が語った私の記録。
つまり――**これは、彼女が残した“私の遺書”**だった。
そして私の存在こそが、その「名前のない遺書」に記された、名前を持たぬ“影”だった。