第5章 境界線の彼方へ
自分の部屋に戻ると、妙に空気が軽かった。
家具も、窓も、ベッドも変わらずそこにあるのに、何かが違っている。
私の部屋じゃない。けれど、私の部屋でもある。
そんな感覚。
音も匂いも、すべてが――どこか、遠い。
レコーダーの音声を再生し続けるうちに、私は次第に“彼女の声”と“自分の声”の区別がつかなくなっていた。
同じ記憶が、二重写しになって、交互に流れ込んでくる。
そして私はようやく、ひとつの可能性にたどり着いた。
「彼女は――私だったのかもしれない」
つまり、あの失踪した“彼女”は、現実の人物ではなく、私の中にいた“もう一人の人格”だったのではないか?
でも、それなら、警察の証言や録音、第三者の目撃情報は何だったのか。
作られた記憶?
でっち上げた自分?
混乱の中、私はふと思い立ち、かつて“彼女”が使っていたはずの部屋に足を踏み入れた。
ベッド、机、クローゼット――何もない空っぽの部屋。
ただ、一枚の紙切れが落ちていた。
拾い上げると、そこには短く一文があった。
「あなたが“彼女”になったのではなく、彼女が“あなた”だったのよ」
目の前が真っ白になった。
それはまるで――私は彼女のコピーだったとでも言いたげな言葉だった。
鏡のない部屋。思い出せない名前。記憶の不一致。
もしかして私は、“彼女の記憶”をもとに造られた――もう一つの“人格”だったのか?
それなら、元の彼女はどこへ消えた?
死んだ?
いなくなった?
あるいは――今、私として生きている?
⸻
その夜、警察から再度の連絡が入った。
「別の証拠が出ました」
「……どんな?」
「公園の防犯カメラ。映っていたのは、あなた“ではない”人物でした」
「え?」
「身長や髪型は酷似していますが、顔は別人。現在、身元を照会中です」
私は言葉を失った。
つまり――あの夜、“私”がゴミ袋を持っていたわけではなかった?
「それと、もう一つ」
捜査官が告げた。
「彼女の部屋から、新しい日記が見つかりました。そこにはこう書かれていた」
「“彼女”が、私になりたがっている。
でも、私を消すことはできない。
私は私だ。だから――先に、わたしが彼女になってやる」
そのとき、私はすべてを理解した。
“私”はずっと、“彼女になろうとした私”を語っていたのではない。
“彼女”が私を語っていたのだ。
つまり――この物語の語り手は、彼女だったのだ。
“私”が“彼女”を見ていたのではない。
“彼女”が“私”を乗っ取り、“彼女”として生きるために――この物語を語っていた。
語り手が“彼女”自身だということを、読者も、本人さえも気づかないように仕掛けられていた。
最後の最後に、“私”が読者に問いかける。
⸻
「ねえ、あなた。
最初から語っていた“私”は、誰だと思ってた?」