第4章 沈黙の録音データ
「これを、聞いていただけますか?」
警察署の静かな一室で、捜査官はノート型のレコーダーを机に置いた。
「何ですか、それ」
「あなたの部屋にあったICレコーダーの音声です。おそらく、本人が意図して録音したものと思われます」
「……私が?」
「あるいは、“彼女”が」
私の心臓がドクンと鳴った。
“彼女”という言葉が、もはや別人のようであり、自分自身の影のようでもあった。
「再生します」
捜査官がボタンを押すと、スピーカーから微かなノイズとともに音声が流れ始めた。
「……これが最後の記録になると思う」
女性の声だった。
よく知っている声――私の中に深く刻まれた声。けれど、それが“私自身”の声かどうかは、すぐには判断できなかった。
「ずっと、私は誰かの影だった。名前も、記憶も、ぜんぶ借り物のように思えた。
でも、本当は――私のほうが、最初に存在していたんだと思う」
ノイズが一瞬入り、また静寂。そして、
「彼女が私を“作った”。それに気づいたとき、私はもう“わたし”ではいられなかった。
ねえ、あなた。お願い。これを聞いていたら、思い出して。
私は、確かにいたんだよ」
録音は、そこで終わった。
「……」
私は言葉が出なかった。
自分の声に似ている、けれど、どこか違う。
「この音声の日時は、四日前の夜。あなたが“彼女と夕食を取った”とされる日と一致しています」
「……でも、彼女の声なんです。私じゃない。私は聞いていない。そんなこと、言っていない」
捜査官はうなずいた。
「そうですか。では、もう一つ。あなたの部屋にあったノートから、一部抜粋した日記を」
彼は紙を差し出した。私は手に取り、読み始めた。
⸻
《日記:×月×日》
「彼女とまた喧嘩した。自分の存在がどこにあるのか、わからなくなりそう。
ときどき、鏡を見ると“私”じゃない誰かが映ってる。
……あれが“本物”なのか? 本物って、何?
私が消えてしまうなら、それは仕方ない。だって私は“作られた側”なのだから」
⸻
「これ、誰が書いたものだと思いますか?」
捜査官の問いかけに、私は答えられなかった。
紙に書かれた文字は、見覚えのある筆跡だった。
私が普段使っている手帳に、時折書いていた走り書きと同じ――私の字だった。
「記憶が、混乱してきていませんか?」
「……してます」
「では、あなたにとって、“彼女”とは何だったと思いますか?」
「……」
その問いは、まるで鏡を突きつけられたようだった。
彼女は本当に、隣人だったのか?
それとも、私の中に生まれたもう一人の自分――**“人格”**だったのか。
いや、それとも、私こそが“彼女”だったのか?
自分の名前すら曖昧なまま、私は次第に“わたし”という輪郭を失い始めていた。
⸻
その夜、私は自室に戻った。
電気を消し、カーテンを閉じて、部屋の中央に座った。
録音データを再生する。
あの声を、繰り返し、繰り返し聞く。
「私は、確かにいたんだよ……」
ふいに、あの声が“誰のものか”を思い出しかけた瞬間、喉元が締め付けられるような感覚に襲われた。
息ができない。
視界がぐにゃりと歪む。
そして、頭の中に、もう一つの声が響く。
「ねえ、“あなた”は、誰?」
その声は、確かに――私のものだった。