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第2章 彼女が消えた日

彼女と最初に出会ったのは、今のアパートに越してきて間もない頃だった。


鍵がうまく回らなくて、ドアの前で手間取っていた私に声をかけてきたのが、彼女だった。


「あの、回し方にちょっとコツいるんですよ。そこ、少し下に押しながら回すとスムーズに開きます」


笑いながらそう言って、彼女は私の手から鍵を取り、実演してみせた。確かに、驚くほどスッとドアが開いた。


「ほらね」


「あ……ありがとう」


そのとき彼女は、「隣に住んでる〇〇です」と名乗った。けれど、なぜだろう。いくら思い出そうとしても、その名前だけが、頭から抜け落ちているような感覚がある。


顔は思い出せる。声も、話した内容も。

けれど、名前だけが――まるで意図的に塗りつぶされたように記憶から抜けていた。


彼女は物静かで、感情を大きく出すタイプではなかった。

けれど、その分、言葉に重みがあった。人と接するのが苦手な私にも、自然と距離を縮めてくれた。


週末になると、どちらかの部屋で食事をするようになり、いつの間にか、私たちは家族のような関係になっていた。


いや、“家族”という言葉に違和感があるとすれば、それはどちらも血の繋がりを持たないからだろう。


「ねぇ、あなたって、昔のこと、どれくらい覚えてる?」


ある日、彼女がふいに聞いてきた。

私は少し戸惑ってから、首を傾げた。


「昔って、どのくらい?」


「……十年前とか。もっと前」


「子どもの頃の記憶って、あんまり残ってないんだよな。断片的にしか」


「そっか」


彼女は、それきり黙った。

そのとき私は深く考えなかった。ただ、彼女がときどき、何かを隠しているように見えることが気になってはいた。


たとえば、彼女の部屋には鏡がひとつもなかった。


姿見はおろか、小さな手鏡すら見当たらなかったのだ。

不思議に思って尋ねたとき、彼女は笑ってこう言った。


「自分の顔、見るの好きじゃないから」


その言葉が妙に印象に残っている。

なぜなら、彼女の顔はとても整っていたし、どこか見覚えのある――私の顔に似ていると、密かに思っていたからだ。


そう、彼女と私の顔は、他人にしては少し似すぎていた。


でもその理由を深く掘り下げようとは思わなかった。


なぜなら――もし、踏み込んだら、戻れなくなる気がしたから。



彼女が姿を消す前日。

私は冷蔵庫にあった残り物で夕食を作り、彼女とテーブルを挟んで向かい合った。


「明日、話したいことがあるの」


そう言ったときの彼女の表情を、私は思い出す。

少し寂しげで、でも決意のようなものがあった。


「なんとなく、今まで言えなかったこと。でも、ずっと、言おうって思ってた。あなたにだけは」


彼女の言葉は、どこか「別れの準備」のようにも感じられた。


「……それって、重い話?」


私がそう訊くと、彼女はゆっくりと首を横に振った。


「ううん。たぶん、軽い。軽いけど……重くなるかもしれない。あなたにとっては」


そのときは意味がわからなかった。

そして、彼女は姿を消した。話すことなく。


まるで、消えるために私の前から去ったように。



彼女がいなくなって数日。私は警察に相談した。

捜索願を出すには時間が足りないが、「念のため記録はしておきましょう」と言われ、手続きをした。


警察官は、彼女の写真を求めた。

私はスマホを開き、アルバムを見た。だが――そこに、彼女と写っている写真は一枚もなかった。


日常的に一緒にいたのに、食事をしていたのに、話していたのに、記録がない。


「不思議だな……」


独り言のように呟いたとき、まるで頭の奥から声が聞こえた気がした。


「それは当然。記録は、残せないんだよ」


誰の声だったのか、わからない。


それでも、私は少しずつ、彼女の“存在”そのものが曖昧になっていくような感覚にとらわれていた。


まるで――最初から、存在しなかった人間のように。

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