第1章 空白の部屋
「自分とは、誰か?」
この問いはシンプルでありながら、答えは常に不安定です。名前、記憶、人格、他者の認識――そのどれか一つがずれただけで、人間は簡単に「自分でなくなる」。
この物語『名前のない遺書』は、そうした“自己”に対する信頼を少しずつ崩していく構造になっています。
読み手が「語り手」を信じていたはずなのに、最終章で裏返る。
最後の一行で「今まで読んできた“私”は誰だったのか?」と立ち返る。
そんな、“騙されたくて読むミステリー”を目指して執筆しました。
どうぞ、あなた自身の中に眠る「もうひとりの自分」と静かに向き合いながら、お読みください。
その部屋には、彼女の気配だけが残っていた。
テーブルの上には、まだ開けられていない紅茶のティーバッグ。壁にはカレンダー。彼女が赤い丸をつけていた日付が、今日だった。
なのに、彼女はいなかった。
「……なんで、こんなことになったんだろうな」
私は独りごちる。部屋の中を歩き回りながら、彼女の影を探すように視線を彷徨わせる。
警察には連絡していない。まだ、したくない。
彼女がどこかで冷静になって帰ってくるかもしれないから。
でも、そんな希望はただの逃避だってことくらい、わかっていた。
彼女の失踪は、突然だった。
昨日の夜までは、普通だった。会話も交わした。夕食も一緒に食べた。
なのに――今日、彼女の姿は消えていた。遺書もメモも、何も残さずに。
ベッドの下には、彼女のスリッパが片方だけ転がっていた。
まるで、立ち去るつもりなんてなかったみたいに。
「なぁ、本当に、あの夜、あれが最後だったのか……?」
問いかけに答える者はいない。
彼女の名前を、私は口にしなかった。
それが、自分でも奇妙に感じられた。