『 月の向こうの物語』
『 月の向こうの物語』
春香は静かに切符を握りしめていた。東海道線の窓から見える風景が、故郷・千葉から離れるにつれて変わっていく。スマートフォンの画面には、彼女の壁紙が輝いていた——キム・ミンジュンの笑顔。韓国の人気グループ「STARLIGHT」のメインボーカル。
「まもなく、東京駅に到着します。東京駅、Tokyo Station」
アナウンスが響き、春香の胸は高鳴った。イヤホンからはSTARLIGHTの最新曲が流れている。
「やっと来れた…ミンジュンに近づける場所に」
1. 上総の少女
春香がSTARLIGHTに出会ったのは、中学二年生の時だった。クラスメイトの美咲がスマホで見せてくれた音楽番組。最初は興味がなかったが、センターのキム・ミンジュンの笑顔と歌声に魅せられ、気がつけば毎日動画を漁るようになっていた。
「ハマってるね、韓流」
担任の佐藤先生は、春香の熱中ぶりを微笑ましく見守っていた。休み時間も給食の時間も、春香はイヤホンを片耳に差し込み、スマホを手放さなかった。
「今まで音楽とかあんまり興味なかったんですけど、STARLIGHTの曲は何か心に響くんです。特にミンジュンさんの声が完璧すぎて…」
「完璧?」
「はい。声が優しくて、ダンスも上手で、メンバーからも愛されていて…」
佐藤先生は少し考え込むように言った。
「春香さん、『更級日記』って古典、知ってる? 千年前に、あなたとそっくりな少女がいたんだよ。憧れを追いかけた女の子の物語」
放課後、春香は図書室で『更級日記』の現代語訳を手に取った。菅原孝標女が、上総(現在の千葉)から京へ上り、そこで『源氏物語』に夢中になる物語。心に響く一節を見つけるたび、春香はノートに書き写した。
特に心を奪われたのは、作者が光源氏の像を彫ろうとする場面だった。
「夢の中に、源氏の君の御かたちを見て、これは何とかして、手に取りて見たきものかな…」
春香の部屋は、今やSTARLIGHTのポスターで埋め尽くされていた。特に大きな等身大ポスターがベッドの横に貼られ、キム・ミンジュンが微笑みかけている。部屋の棚には、彼らのCD全種類のコレクションが並び、限定版グッズも大切に飾られていた。スマホの中には3000枚を超えるミンジュンの画像コレクション。パソコンのフォルダには、彼の出演したバラエティ番組や舞台映像が整理されていた。
「今日もお疲れ様、ミンジュン」
春香は毎晩、ポスターに向かって話しかけるのが日課だった。シリコン粘土で作った小さなミンジュンの人形が机の上に置かれていて、時々プラバンで作ったキーホルダーなども制作していた。
「春香、いい加減にしなさい」
母は娘の部屋に入るたび、ため息をついた。壁一面のポスター、棚に並ぶグッズ、床に積まれたK-POP雑誌。
「あなた、この前の誕生日プレゼントもライブチケットだったでしょ。もうお小遣いの大半をそのグループに使ってるじゃない」
「ママは分からないよ。STARLIGHT、特にミンジュンは私の希望なの」
「普通の高校生活も大事にしなさい。友達とカフェにでも行ったら?」
春香は窓の外を見た。月が出ていた。スマホでシンガポールに向かう飛行機の値段を調べていた。STARLIGHTのアジアツアーが始まる。
「東京のコンサートまであと2ヶ月…」
春香は洗濯バイトのお金を貯めていた。大学は絶対に東京の学校に行くと決めていた。ソウルへの留学も視野に入れて韓国語の勉強も始めていた。月の向こうの韓国、そこへ行けば、ミンジュンに会えるかもしれない。そう信じていた。
2. 東京への憧れ
高校三年生の春、春香は東京の大学に合格した。外国語学部、韓国語専攻。頑張って勉強した甲斐があった。
「よかったね、合格して」友人の美咲が言った。「でも東京って家賃高いよ」
「でも、そこに私の『推し』がいるの」
東京なら、STARLIGHTのライブに毎回参加できる。ファンサイン会にも行ける。もしかしたら、空港で彼らを見送ることだってできるかもしれない。春香の中では、それだけで十分な理由だった。
美咲は春香の夢見がちな表情を見て、少し心配そうだった。
「推しじゃなくて、未来のこと考えなよ」
「ミンジュンは私の未来だよ」
春香はただ微笑んだ。理想の未来は、ミンジュンの隣にあると信じていた。
入学式の前の日、春香は荷物をまとめていた。ポスターを丁寧に剥がし、筒に入れる。等身大のミンジュンポスターは特に慎重に。フォトカードは透明ファイルに整理し、限定グッズは専用のケースに。そしてスマホで最新のSTARLIGHTのスケジュールをチェックする。東京での活動予定、テレビ出演情報。本棚から『更級日記』も取り出し、大切にカバンに入れた。推しとの物語が、今まさに始まろうとしていた。
「あの子、本当に韓国のアイドルを追いかけて上京するつもりなのよ」
遠くから見ている母の言葉に、父は少し困った顔で答えた。
「まあ、若いうちの熱中だよ。韓流だってそのうち冷めるだろ。大学で色々経験して、現実を知るさ」
春香の部屋からは、STARLIGHTの曲が流れていた。特に好きな曲、「Moon Light」のサビの部分。ミンジュンのソロパートが心に染みる。
♪
月の向こうで君を待つ 星が輝く夜に
言葉にできない想いだけ 届けたいから
♪
春香は何度も聴き返していた。窓から見える月を眺めながら、東京での新生活に思いを馳せる。千葉から東京。遠い道のりのようでいて、近い。でも、千葉から韓国は遠すぎる。まずは東京から。一歩ずつ、ミンジュンに近づくために。
3. 都の光と影
東京での生活は、思っていたより慌ただしかった。
大学の授業、アルバイト、満員電車。春香が夢見ていた「推しの都」は、忙しい現代人であふれていた。韓国語の授業は思っていたより難しく、周りのクラスメイトは様々な理由で韓国語を学んでいた。就職のため、K-POP好きだから、韓国ドラマが好きで…。でも、春香ほど一人のアイドルに熱中している人はいないようだった。
「発音難しいですね」隣の席の清水という男子学生が話しかけてきた。
「うん…でも、好きだから頑張れるよ」
「春香さんって、本当にSTARLIGHT好きなんだね」
彼は春香のノートを見て驚いていた。春香のノートには、授業の内容だけでなく、欄外にSTARLIGHTのメンバー、特にミンジュンの似顔絵や、彼の言葉の韓国語とその日本語訳が細かく描かれていた。
「僕もK-POP好きだけど、君ほどじゃないなぁ。ねえ、今度の韓国文化研究会に来ない? 君みたいに熱心な人、歓迎するよ」
その誘いが、春香の大学生活を変えることになった。
研究会では、同じように韓国文化を愛する学生たちが集まっていた。K-POP、ドラマ、映画、伝統文化、社会問題まで、様々なテーマで議論が交わされる。春香はそこで、「K-POPアイドルと古典文学の共通性」というテーマで発表する機会を得た。
「私が見つけた面白い共通点があります。平安時代の『更級日記』の作者・菅原孝標女は、理想の人物像『光源氏』に夢中になり過ぎたことで、現実との乖離に苦しみました。これは現代のアイドル文化、特に韓流アイドルへの熱狂と似ていると思います」
春香はスライドを見せながら続けた。
「菅原孝標女は光源氏の像を彫りました。今で言えば、推しのフィギュアやアクスタを作るようなものです。彼女は物語に救いを求めましたが、最終的に別の道を見つけます。これは現代のファン文化とアイデンティティの関係にも通じるのではないでしょうか」
発表後、山本教授が春香に声をかけた。
「興味深い視点だね。古典と現代を結びつける観点は新鮮だ。特に『更級日記』が憧れだけでなく、その幻滅も描いていることは重要なポイントだ。特に晩年の仏道への帰依は、現代で言えば何に相当するだろうね?」
「はい…でも私は、まだその幻滅の部分が理解できていないと思います。私は今、ミンジュンさんへの気持ちが強すぎて…」
「それは時間が教えてくれるよ」教授は微笑んだ。「君はまだ、推し活の入り口に立ったばかりだから」
研究会の後、春香は清水と一緒に帰ることになった。
「春香さんって、本当に熱心だね。STARLIGHTのコンサートには行くの?」
「もちろん! チケット取るために、3つのアルバイトを掛け持ちしてるんだ」
春香はスマホを見せた。貯金額と目標額が記されたアプリ。コンサートチケット、ハイタッチ会券、ファンクラブ会費、グッズ代…すべてが細かく計算されていた。
「韓国語も勉強して、いつかミンジュンさんと話せるようになりたいの」
「すごいな…でも、そんなに夢中になって大丈夫?」
「どういう意味?」
「いや、ただの心配で…。アイドルって、実際会ったらイメージと違うこともあるって言うし」
春香は少し不機嫌そうに黙った。清水はあわてて話題を変えた。
「あ、でも春香さんが好きなSTARLIGHTの曲、僕も聴いてみたよ。いい曲だね、特にあの『Moon Light』が」
春香の表情が明るくなる。
「そうでしょ! ミンジュンのソロパートが特に素敵で…」
二人は駅まで、STARLIGHTの魅力について語り合った。清水はそこまで詳しくなかったが、春香の話を熱心に聞いていた。別れ際、彼は言った。
「ところで、今度のSTARLIGHTの来日公演、もう一枚チケット取れたんだ。よかったら一緒に行かない?」
春香は驚いた。そして少し迷った。一人で行けば、ミンジュンだけに集中できる。でも、誰かと感動を共有するのも悪くないかもしれない。
「…ありがとう。行く、行きたい」
4. 現実という名の壁
大学二年生の秋、春香は念願のSTARLIGHTの東京公演に清水と参加した。Aブロック20列、ステージからは遠いが、大型スクリーンでメンバーの表情は見える。特に、ミンジュンのソロパフォーマンスでは会場が静まり返り、春香も息をのんだ。
公演後、春香と清水は運よくハイタッチ会に参加できることになった。長い列に並び、一人一人が数秒だけメンバーと触れ合える。
春香の番が来た。
「こんにちは! 千葉から来ました!」
春香は丁寧に練習した韓国語で挨拶した。ミンジュンは微笑み、「ありがとう」と日本語で答えた。その手はほんの一瞬触れただけで、すぐに次のファンへ。春香の目に映ったミンジュンは、疲れた表情で、機械的に笑顔を作っているように見えた。汗でメイクが少し崩れ、生身の人間の姿がそこにあった。
「ねえ、すごかったね!」イベント後、興奮する清水に春香は小さく頷いた。
「うん…でも、なんだか想像と違った」
「そりゃそうだよ」清水は笑った。「彼らも人間だもん。一日に何百人とハイタッチして、それを何日も続けるんだ。疲れるよね」
その日から、春香は少しずつ変わり始めた。授業やアルバイトに追われる日々の中で、SNSをチェックする時間は減り、ポスターを見つめる時間も短くなっていった。
「ミンジュンさんも、きっと大変なんだろうな…」
ある日、STARLIGHTのミンジュンがスキャンダルに巻き込まれた。あるファンとの不適切なDMのやり取りが流出したのだ。真偽は不明だったが、SNSは炎上し、事務所は沈黙を続けた。春香のLINEグループには、擁護派と批判派が入り乱れて議論が止まらなかった。
春香は何も書き込めなかった。彼女の部屋の壁に貼られたミンジュンの笑顔が、今は少し別の表情に見えた。誰かのために作られた、完璧な笑顔。その裏には何があるのだろう。
ある夜、小さなアパートの窓から月を見ながら、春香は『更級日記』を開いた。
「あやしうこそ、物はかなきさまに思ひなされけれ」
(あれほど心を奪われた憧れも、今思えば、なんと儚く空しいことだったのだろう)
その言葉が、初めて心に刺さった。
スマホのギャラリーには3000枚を超えるミンジュンの写真。毎日のように保存していたスクショ、合成写真、動画。それらを眺めていると、少し胸が痛んだ。あんなに夢中になっていたのに、今はなんだか虚しささえ感じる。
しばらくして、スキャンダルは沈静化した。事務所の発表によれば、DMは偽造されたものだという。メンバーたちは通常活動に戻り、ミンジュンも変わらない笑顔でステージに立った。しかし、春香の心の中で何かが変わってしまっていた。
清水からLINEが来た。
「次の来日公演、行く? チケット取れそうだけど」
春香は返信に迷った。指先がスマホの画面をさまよう。
「行くよ。でも…今度は冷静に見たいな」
標女が最後に悟ったこと」
「それは?」
「物語は美しい。でも、物語だけでは生きていけない。でも…」
「でも?」
「でも、物語があったから、私たちは今ここにいる。『更級日記』という物語があったから、千年後の私がここにいる」
教授は静かに頷いた。
論文を書き終えた夜、春香は自分の部屋で、中学生の頃に作りかけた光源氏の粘土像を見つけた。未完成のまま、箱の中にしまってあったものだ。
「懐かしい…」
粘土はすでに硬くなっていて、もう形を変えることはできない。でも、それでいいと思った。あの頃の自分の情熱の証だから。
スマホを取り出し、美咲に連絡した。
「ねえ、卒業旅行、京都に行かない?」
「えっ、急に? いいけど…なんで?」
「平安京を見てみたいんだ。『更級日記』の作者が生きた場所」
「また物語の世界?」
「違うよ」春香は微笑んだ。「今度は、自分の物語を作りに行くの」
エピローグ
京都、嵐山。春香と美咲は渡月橋の上に立っていた。春の風が桜の花びらを運んでくる。
「きれいだね」美咲が言った。
「うん」
「で、『更級日記』の作者は、最後にどうなったの?」
春香は少し考えてから答えた。
「彼女は晩年、仏道に入った。物語ではなく、現実的な救いを求めて」
「それって悲しい終わり?」
「悲しくないよ」春香は空を見上げた。「彼女は物語を愛し、物語に傷つき、でも最後には自分の物語を書いた。それが『更級日記』だから」
美咲はよく分からない顔だったが、春香の表情が晴れやかなことに気づいた。
「春香は卒業後、どうするの?」
「大学院で『更級日記』の研究を続けるよ。それから…」
「それから?」
春香は橋の下を流れる川を見ながら言った。
「自分の物語も書いてみようと思う」
千年前、菅原孝標女が月を見て都を思った。そして千年後、春香もまた月を見上げている。物語は続く。終わるのではなく、新しい物語として生まれ変わっていく。
「もしかしたら、千年後の誰かが、私の物語を読んでくれるかもしれないね」
春香の言葉に、美咲は笑った。
「自信満々だね」
「そうでもないよ」春香も笑った。「ただ、物語って不思議なもので…終わりが、また誰かの始まりになることがあるんだよ」
渡月橋の上で、二人は静かに佇んでいた。桜の花びらが風に舞い、川面に落ちていく。物語のように、儚く、でも美しく。