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軽く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた後、アナベル嬢の白く細い指は泳ぐように鍵盤の上を滑り始めた。


聴いたことのない旋律は強く、弱く、部屋を満たし、僕の意識を問答無用で音の世界に引き摺り込んでいく。

目を閉じると音が映像を伴って押し寄せてきた。


山頂に雪を頂いた荘厳な山脈が聳え立ち、足元には一面に広がるクローバーが風に揺れて白い花を揺らす。

小鳥が囀り、蝶が舞う世界に灰色の雲が立ち込め優しい雨を降らせる。

雨が小川となり流れる頃には太陽が雲の切れ間から再び世界を照らし、雨の雫が宝石のように煌めく中をまた小鳥達が飛び回り始めたところでピアノの音が止んだ。


「お耳汚し失礼いたしました。」


僕はアナベル嬢の声にハッとしてようやく現実の世界に引き戻された。


シェリル嬢やデュランが賞賛の言葉を口にしながら拍手をしているのに一呼吸遅れて手を叩く。

心の中で暴れ回る感情はとても言葉に表すことができるような物ではなくて、喉の奥に熱い塊がつかえて息をするのも難しい。


僕の世界は絵を描かなくなってからずっと色を失っていた。赤や青や緑を認識することができても薄い膜に覆われたように霞んで、子供の頃のように鮮やかに心に突き刺さる事がなくなっていた。 

しかしアナベル嬢のピアノの音色で造られた風景は昔のように色鮮やかで生命力に溢れ僕の全てを揺さぶってきたのだ。


現実と幻想の間に漂っているような気分のまま拍手を送っていると、アナベル嬢が驚いたように目を見開きながらこちらに向かってきて僕の顔を覗き込んだ。


「アルフレッド様?」


「…アナベル嬢?」


お互いがお互いの瞳を覗き込む形になり、その距離に戸惑いながら僕はアナベル嬢の瞳から目が離せなかった。

表情を無くしたアナベル嬢の黒真珠の瞳の奥には赤いオーロラのような揺らめきが幻想的に光を放ち、その光を見ていると、恐ろしいような安心するような嬉しいような悲しいような色んな感情を一つにまとめて潰したような感覚になるのだ。

どのくらい見つめ合っていたのか、アナベル嬢がゆっくりと瞬きをして目を開けると、オーロラのような光は消えて、そこにはただ静かな黒真珠の瞳が残されていた。


「やっぱり…」


アナベル嬢は小さく呟いて僕からスッと離れた。

訳もわからず目を瞬かせると、先程とは打って変わって明るい笑顔を浮かべたアナベル嬢が戯けたように首を傾げた。


「楽しんで頂けましたか?」


「素晴らしかったです。音楽の女神が舞い降りたのかと思いましたよ。まさか今日このような経験ができるとは夢にも思っていませんでした。素敵な演奏をありがとうございます。」


僕も気を取り直して笑顔を浮かべ賞賛の言葉を送った。

なんとなく上辺を取り繕ったような言葉になってしまい自分自身に違和感を感じるが、今は仕方がないような気がする。

おそらく心がまだ戻って来れていないのだ。


少しふわふわした気持ちのままアナベル嬢とシェリル嬢を馬車まで送り、踵を返した瞬間にデュランが僕の首に手を回してきた。


「アル〜!!なんか、なんか、なんかなんじゃないのー?」


「デュラン、何を言ってるのかさっぱりわからん。なんかとはなんだ。」


「なんかはなんかだよ。アナベル嬢の演奏を泣きそうな顔で聴いてると思ったら今度は見つめ合ったりしてさぁ。いつものアルじゃないみたいだったって。」


「アナベル嬢のピアノの音色があまりにも素晴らしくて…たぶん、格好悪いんだけど、少し、我を忘れたんだ。ちょっと懐かしい感覚を思い出してしまって…」


「…そっか。アルはいっつもすげー頑張って自分を律してるからさ、そんな事もあっていいと思うぜ?そういうアルも俺は好きだからさ。」


「デュラン、ありがとう…」


俯いて礼を言うとデュランは首に回した手を解き僕の背中をパンっと一回強く叩いた。


「痛いだろう。加減を覚えろ。」


お返しに僕もデュランの背中を強く叩くと、「いってぇ」と言いながらデュランがまた叩き返してくる。

「くっ」

「ふっ」

「あははははっ」

「はははっ」

お互いにバンバン背中を叩き合っているうちになんだか可笑しくなってきてしまい、馬鹿みたいに大声で笑いながら僕たちは家の中へ戻った。


玄関に着くころにようやく笑いは収まり、「マリーにも演奏を聞かせてあげたかったな。」というとデュランは「そっちのアルは好きじゃない。」と眉間に皺を寄せて僕の踵を靴で蹴った。


「僕はどんなマリーもデュランも好きだけどな。」


「もー。恥ずかしいから真顔でそういうこと言うのマジでやめて!」


アナベル嬢の演奏のせいか今日の僕はいつもより素直で幼くなっているようなきがした。


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