きっかけ
彼女が仕事を辞めてから、もう随分と経つ。
同棲を始めたのもお互いに相談し合って、予定して居た訳ではなく、若干なし崩し的な部分があった。
『とても仕事は出来ないし、家賃も払えない』
そんな相談を受けた頃、事実として抜き差しならない状態と言えるほどに彼女は切迫していた。
以前から疲れている様子は伺えた、大学を卒業して慣れない仕事でがらりと変わる生活に皆、最初は戸惑うだろう。
そういった想像もあったが、彼女がそこまで危うい状態に陥ってしまっていた事に俺は驚いた。
連絡は取り合っていたが、お互い仕事が忙しいと二ヶ月は会っていなかっただろうか。
話がある、話があると言いながら、やっぱり大丈夫という調子が続き、何か考えあぐねいていたと思ってはいたが、予想の範疇外の出来事だった。
けれども相談内容と声色が全く合ってない。
これは強がりの彼女の危険信号だと想い、俺は相談を受けたその日の仕事帰りに家を訪ねた。
インターホンを押すと、暗がりから彼女が小声で『いらっしゃい』と言う。
彼女は蝋燭を手にしている。
俺はどう言う演出なのかと冗談めいたその様子に半笑いで相対した。
これも俺の不謹慎な感覚ではなく彼女が敢えてお化け屋敷っぽく振る舞っていたのだ。
部屋に入ると、ひっくり返した段ボールにお盆が置かれテーブルの様相だ。
スマホの充電器がひとつ刺さっているだけのコンセント。
ロフトには少しのゴミが投げられているだけで、そこに寝床はない。
畳まれた敷布団がソファーの代わりとなっている。
彼女の部屋には本当に、本当に何もなかった。
そして、すこぶる明るい彼女がいた。
「いやーもう仕事いきたくなくてさ!」
「家賃払えなくていっぱい売っちゃった!」
彼女が手にしていた謎の蝋燭も、いつぞやの誕生日ケーキに刺していたソレだった。
火はガスコンロで付けたらしいから、ガスは止まっていない。
電気も実は止まってないそうだ。
けれども電化製品、仕事道具のノートパソコンも、衣料品もほとんど売ってようやく先月の家賃を払ったという。
責任感が強く、誰にも頼れずにここまでやっちまうのは流石というか……彼女の長所であり短所である部分だと思う。
電気を点けないのは、明るいと本当に何も無くなっている様子がバレバレだったからだそうで……。
「お前、大丈夫かぁ……」
大丈夫でない事を分かっていてもそう聞いてしまうもんだ。
「どうでしょう、大丈夫でしょうか?」
まだ彼女は冗談めいた風に答えている。
「……」
「俺んとこ来ないか……」
少しの沈黙の後、俺はこの言葉がついて出た。
そしてダムが決壊したように……というのは正にこの事。
彼女は子供のように泣きじゃくりつつ、笑いつつ俺の肩に拳を打ち付けていた。
「よしよし、だいじょぶよぉ〜」
「あと蝋燭は危ねぇからやめろ」
暫く、むせ返ったりトイレットペーパーで鼻をかんだり、忙しい彼女だったが最後にポツリと『ごめんなさい』と呟いたのだ。
これが彼女との同棲の経緯。
それから仕事をせずにいるがきっと、彼女には踏み出したい一歩がある。
俺の世話にかまけて、ろくに就活も出来ないんだろう。
俺のせいで彼女らしく、やりたい事が出来ないのは不本意だ。
自分のやりたかった仕事をまた……そのきっかけになるかもしれないと、そう、勝手に俺は思っていた。