猫の様子
俺は変わらずステルスモードでリビングへと入って行った。
少し覗いたところでソファーから猫が飛び降りていくのを目にする。
俺に席を譲ってくれたようでなによりだ。
ソファーに付いた毛のお土産を手でなぞり、そっとゴミ箱へと落とした。
「まだご飯できてないわ〜」
「いいよ、ゆっくりで」
「そういや、今日晩飯まだ食べてないん?」
「んーん、軽くパスタ食べたから……パスタは一緒に作ってレンチンじゃ悪いもんね〜」
「おー連絡くれたら俺なんか買って帰るからさ」
顔をあげて彼女の方を見ると、彼女と視線は交わらない。
彼女は油の音を派手に立たせて言葉も返ってこなかった。
表情が読めない事は少し不安であったが、日常の音が聞こえ、お互いいつも通りの装いで、明日になれば元通りだろうと楽観的にもなれる。
なにより俺の足元でうごめくウニ坊主のような赤茶色の猫が普通に見えた。
特段触りたいとも思わず様子を視線で追っているがソファーの周りをくるくると周回しているだけなのだ。
時折コテンと倒れて自分の足をしゃぶっている。
不思議な生き物だ。
俺が彼女半分、猫半分、自分のスマホを見てるふりでいたところ食事が運ばれてきた。
「美味しそう」
「お茶?お酒持ってくる?」
「あら〜お酒にしようかしら」
何故だか俺はお姉さんのような口調で返答していた。
それに対して彼女の横顔はにこやかだった。
俺が箸を持ったところ、猫がソファーに上がってきて鼻をフンフンとさせている。
……と思えば俺の膝の隙間に嵌まって野菜炒めの皿に手をにゅっと伸ばしてきた。
俺は皿を持ち上げて猫に触らせないようにしつつ彼女に聞いてみる。
「これあげてもいいのか?」
「ダメだよ!!」
俺がその言葉で止めるでもなく、間髪入れずに飛んできた彼女の声に猫はビクッとして逃げていった。
俺の心臓もドキリとしたのは言うまでもない。
そして下はパンツ一枚だった俺の太ももには猫の爪痕がくっきりと残る。
俺はその様子を見て、内心『おぉ……』と痛みよりも赤く引かれた線に驚いて言葉も出なかった。
彼女は缶ビールとグラスを俺の横に置いて、猫の元へと駆け寄る。
猫は少し後退りしながら口を真横に開いてシャーと言う声を発した。
「全然恐くないわ、お腹すいたの?」
おそらく威嚇しているであろう猫を構う事なく抱き寄せて、餌場へとそっと降ろす。
するとカリッカリッと小気味いい音が聞こえてきた。
「凄いもんだね」
「何が?」
「いや、なんか、分かんないけど」
「……ご飯食べちゃって」
こう言う時、彼女はなんだか母親のような表情をするんだ。
本人に伝えたらマザコンだのと言われそうで伝えた事はないが、飯を食わそうとするのが母親っぽいとも思っているから。
「いつもありがとね」
俺は素直にそう口にした。
彼女はふふん、と得意げな様子で台所へまた戻っていった。
テレビを見て、食事をしつつお酒を飲む。
足を組み替えようとした時に太ももに痒みを感じて視線を落とすと、赤い線がみみず腫れになっていた。
「バイ菌入ったりするかね?」
「えー?」
「さっき猫の爪が当たったんだよ」
「うそ?!」
彼女は俺の想像の何倍もの驚きを見せて駆け寄ってきた。
「わっ…‥痛い?」
「いや、痒い」
テーブルの下から除菌用のウエットティッシュを取り出すと、俺の太ももを彼女が拭ってくれる。
「冷たーい」
「ホントに痛くない?」
「痒いよ」
「そっか……」
そんな彼女の頭に手を伸ばし、ぽんぽんとすると何故だか目を赤くしてジワリと涙を滲ませた。
はっきりと視線が交わる。
俺はポンポンから、わしゃわしゃに手の動きを変えて彼女の頭をボサボサにする。
「やめてぇ」
「朝ごめんね」
「ーーーーあたしが、ごめん」
「……」
クゥー……
彼女のお腹が鳴ったようだ。
「お前もお腹すいちゃったの?」
「ご飯食べてない……」
「そっかぁ」
「パスタでいい?」
「……作ってくれるの?」
「おー」
俺は彼女への愛しさをまた取り戻して、台所へ立つ。
台所から見える彼女は口を半開きにして、変な顔で俺の方を見ていた。
「その野菜炒めはダメだよ、食べないでね」
「あたし猫違う〜」
鼻水を垂らしながら、俺が飲んでいたグラスのビールを泣き笑いで彼女はすする。
足元にはどこからともなくやってきた猫が居て俺の顔を見上げていた。