椚誠の苦悩1
「シャノ、おはよう」
俺がリビングのドアを開けるとギャーと鳴き、出迎えてくれる。
「猫はニャーだろ、飯はちょっと待てな」
朝起きたら、猫のトイレ掃除をする。
多分このタイミングが一番いい。
俺も余力があるし、檜の砂を足すとコーヒーを飲んだ後のような爽快感がある。
ーーなんか、キモいこと考えてね、俺。
トイレを掃除してる最中も、俺の周りをくるくる回るこいつの顔を見ると笑えてくるよ。
こういうのが、所謂『ペット』の良さなんだろう。
まぁ、俺には過ぎたもの、命を背負ったり出来ない。仕方なしに一緒に居るだけで望んだものじゃないからな。
ただ居るからにはちゃんとお世話してやるっていうか、一緒に暮らしていかないといけないよな。
でもさ、いまのひと時はたぶん悪いものじゃないよ。
「そんなぐいぐい来なくても、飯はお前のだぞ」
相変わらず、餌皿を戻す時に頭が割り込んでくる。
その度に手に触れてしまうシャノの頭。
この柔らかさに慣れてしまう日が来るんだろうか。
なんとなく、俺はシャノの頭が掠めた手の甲を見て想いに耽ってしまった。
「……こんな場合じゃねぇ!」
俺はそそくさと電子レンジに昨日買った弁当をかけて、ポットのお湯を沸かす。ブレーカーが落ちない事を祈りながら。
カップにインスタントコーヒーを入れて、ワイシャツだけ着る。
ワイシャツには案外毛がつかないというか、ついても見えない感じだ。
ひとつ、朝のルーチンが早まった。
シャノは飯をソッコーで食べ終えて、こちらを見て鳴いた。
「ごちそうさまか?まだ食いたいか?一日の分量はちゃんとやってるからな、我慢しろ」
時計を見てもそう時間は経っていない。巻けばなんでも早いもんだ。
朝の時間を持て余す事に恐怖のようなものを感じる俺は、シャツと共に持ってきたネクタイに無意識に手を伸ばしていた。
首にかけ、輪っかに通そうとした瞬間だ。
ネクタイに飛びかかってきた獣が出たのは。
シャノの爪にささり、俺のネクタイは首周りから落ちそうで、落ちない。激しく糸地が引っ張られてソファーから身動きが出来ない。
「てめっ!!この!……」
このヤローまで出かかって俺は言葉をしまった。
大きな声を出したって、恐いだけなんだコイツは。
俺が力無くそのまま停止していると、ネクタイは爪に刺さったままシャノに持っていかれる。
途中でシャノの本能を刺激したのか、唐突にまたしばかれるネクタイ。
「あ!!あぁ……ぁ、あっ!やめて!!」
何を喘いでいるんだ、俺は。
シャノによって蛇のように舞う俺のネクタイは完全に獲物に見えているのだろう。
我に帰り取り上げようと勢いよく参戦すると、シャノはまたムササビのように襲いかかってきた。
ピー……ピー……
レンジが出来上がりを知らせている。
いつかの日と同じだ。
シャノの手が届かない位置までネクタイを引き上げた状態で俺は完全に停止していた。
**********
「はよっす」
「おはようございます」
「椚先輩、早いですね!!」
「たまには朝のお掃除にも参加しないといけないかなーって」
「いやいや、そんな!俺、コーヒー淹れてきますよ!」
「まじ?じゃぁ、俺にその専用コロコロ貸して」
「……専用……?ああ、富海先輩の!」
「給湯室行くんなら、お前のと二人分入れて来いよ」
「わかりましたー!!」
あの神経質がちょいちょい使うからな……。カートリッジだけ家から持ってこさせたろーか。
俺は朝早くから賃金も付かない清掃に勤しむ新人からカーペットクリーナーを引き受けて、床のあるんだかないんだか見えない埃を取り始める。
まぁ、オフィス内飲食禁止じゃないからな、ポテチのカスやらは落ちてたりするんよ。
「ったく、当番制にしてちゃんと給与加算しろよなー誰がアイツに掃除しろって言ったんだよ……」
俺は定時退勤マンかつ、サビ残、無賃早出を許さんマンなんだぞ。
そんな事を考えながら、友隆のデスクの下も掃除し始めた。
普段こいつの神経質を見てるからか、なんか周りとカーペットの色が違うように見えるぜ……。
椅子を引いて、クリーナーをかけようとしたところ、丸っこい何かがひとつ。
指で摘み上げると、猫の形をした手作り風のキーホルダーだ。
作られた猫の目と俺の目が合う。
ちょっと不気味なやつ。
昨晩の緑ちゃんの話を聞いていなかったらデスク下とはいえ、これを友隆の物だとは思わなかっただろう。
しかも、緑ちゃんは彼女が渡した物であろう推測もしてて俺も今はそのように見えている。
「……」
「椚先輩、コーヒーお持ちしました!!」
後輩の声を聞き、俺は何故だかそれが見られてはいけない物のような気がして、パッとポケットに入れてしまった。
「ありがとう、頂くよ」
「俺、掃除がひと段落したら飲みますね!」
「あーお前さ、その掃除って誰かからやれって?」
「いえいえ!新人は先輩方より早く出社しないといけませんから!やることがなくて!」
屈託のない笑顔を向けて、この状態を理不尽とも思ってない。
悪しき風習……そんなん結婚した嫁さんにまずやってやれよな。
そう思った瞬間俺は言っていた。
「お前、就職と同時に結婚したんだろ?早く起きたら家の掃除してから来いよ、明日からは止めろ」
きょとんとした顔。
「えっと……それは?」
「そんなんやるなら、嫁さんの手伝いしてからやれって。その後職場の掃除すんのは止めねぇよ、お前の選択だ」
「はぁ、えっと……でも、それじゃ最初に来れなくなるんで……」
言ってることが伝わってない。そこじゃないぞ、お前みたいなのを放置しとくと緑ちゃんのようなブラックに染まる子が生まれるんだよ。
俺は目を線にして、コイツに法令遵守について説明するのか迷った。
多少はおせっかいを焼くけどな、別にコイツの事どーでもいいし。
「他部署でもっと早く出勤している先輩方もいる。なんなら、社長は五時に来てたりするぞ」
「え?!まじっすか??始発でもそれは無理です!」
だから、そーゆーことじゃねぇんだよ。
「とにかく、だ……お前のやってる事はあんま意味ねぇよ」
「…………ハイ」
まだ何か言いたげだ、そら言ってる意味分かってねぇもんな。
「いつもありがとな、大変だったろ」
「いえいえ!そんな事は!!」
「掃除は必要だからな、皆んなでやろうぜ」
あー仕事が増える、こんなん根回しゲームだからな。一人一人捕まえて話すのクソ怠ィな。
そんな俺の内心とは裏腹に、なにやら嬉しそうにニヤついてやがる。
「椚先輩って、なんか男に優しいですよね、女性には敢えてこう……嫌われにかかってるような、なんでしょう……」
えー、俺がバカ発動すんのって女性限定って言ってる?こいつは友隆2号になれそうだ。なかなか鋭いぞ。
「そういうのは感じても言葉にすんなよ」
「あーハイ、なんか言われますソレ……」




