5.パン……とは?
もう少しで厨房だと思ったとき、背後からエリカの声が響いた。
「ダン! ハヴ! 止まりなさいっ! わたくしたちが突然現れたら厨房のみんなを困らせるわよっ!」
叫ぶようなエリカのことばが耳に届いたジュリアンは、なるほどもっともな意見だと思い足を止めた。
双子も立ち止まると気まずそうな顔で姉が追いつくのを待っている。
エリカの言っていた『厨房のみんなを困らせる』ということばは間違ってはいない。
厨房などのバックヤード部分は使用人たちが働くエリアだからだ。
使用人たちのいる場所へ、その家の主人が大挙して押し寄せればなんの騒ぎかと驚かれるのは間違いない。
叱責のために来たのではないか、自分たちの仕事に不備があったのか、などといたずらに怯えさせる虞もある。
無意味な不安を彼らへ与える雇用主は、はっきり言えば下品で低脳。上に立つ人間の器ではないのだ。
「作戦を練りましょう」
走ってきたせいで息が切れたらしいエリカがそんなことを言った。
曰く、裏庭とは違い、厨房は料理人を始めとする使用人たちが多く働く場所である。
そこに自分たちが長居して彼らを動揺させてはいけない。そのためには最短で次のメッセージカードを探し出さなければならない。
それなりに広いカレイジャス公爵家の厨房をただ闇雲に探し回るのではなく、メッセージカードに提示されている【パン】の見当をつけてから該当箇所を探す方が良いだろうと。
合理的で効率的。いい意見だとジュリアンは頷いた。
ジュリアンにしても、厨房など生まれて初めて足を踏み入れることになるのだ。どこになにがあるのかさっぱり見当がつかない。無意味に時間を費やすことは避けるべきだ。
「厨房のパンって、なにを意味すると思う?」
エリカはそう言って双子と父の顔を順番に見つめる。
「フライパンのパンだろ? 調理器具の間に隠されていると俺は思う」
とダミアンが答えると、
「食料品貯蔵室のパンじゃない? 物を隠しやすいと思うよ」
とハーヴェイも答えた。
ジュリアンは首を傾げた。
どちらも該当すると思いつつ、彼はもしかしたらと閃いた考えを口にする。
「セイハンガ語でいうところのブレッドの意味ではないか?」
「あぁ! セイハンガではブレッドを“パン”と言いますね」
ダミアンが笑顔でそれに応えた。
先月結婚したばかりのダミアンの妻は、セイハンガ公国の公女である。そのせいもあり、ダミアンは妻の母国の言語も能く話せる。
もっとも、長男であるダミアンは次期カレイジャス公爵として、いずれ元老院議員になる人間である。ジュリアンや彼の父と同じく、外務省に関わる人間になることを周囲から期待されているはずだ。周辺諸国の言語をきちんと修めていなければ文字どおり話にならない。
ダミアンの学園での成績は、外国語修得率も成績も良かったと記憶している。
実際に使っている姿をジュリアンは見たことないのだが。
「該当箇所の候補は、調理器具置き場に食料品貯蔵室。すぐに食べるブレッドを指すなら配膳室というわけね。……昔はどこだったかしら……よく覚えてないわ。手分けして探す?」
「僕らがバラバラに行動したら、使用人たちが余計に混乱しそうだね」
冷静に確認するエリカに、ハーヴェイが苦笑して応える。そこへダミアンが明るい声で話し始めた。
「あぁ思い出したぞ。昔もこうやって俺たち三人が厨房に突撃してあちこち引っかき回したせいでジェロームたちがすっごく困ってたなぁ。俺たちそれぞれの従者も引き連れてたから」
ダミアンのことばを聞いたエリカも、懐かしいとばかりに頬を綻ばせる。
「あぁ……。そうだったわね。いま思うと悪いことをしたわ。子どもがおおぜい厨房へ突撃したのだもの、料理人たちにしたら迷惑このうえないわ」
彼らは生まれたときから公爵家の人間なのだ。幼い頃から単独で行動できるほど軽い身分ではない。必ず従者が付き、彼らを守ってきた。
たとえ公爵領で敵のいない場所であろうとそれは変わらない。ジュリアンの子どもたちも、みなそれぞれ五歳から十歳ほど年上の従者を複数人つけていた。
……クリスティアナが心を砕いて行った人選である。間違いはなかろう。
だが。
「ジェローム? 誰だ?」
記憶にない名前を聞き、ジュリアンは思わず疑問を口にしていた。
「領地の本邸宅にいる料理長です……懐かしいな……」
彼の疑問に答えたのはハーヴェイだった。
親しげに名をあげるからだれかと思えば料理人か。
ジュリアンはそう思ったが口には出さなかった。子どもたちは領地にいた頃、使用人とも近しい生活をしていた証拠である。
公爵家の人間として、使用人との距離が近いことはあまり歓迎できる話ではない。けれど、そう目くじら立てる話でもないだろうとジュリアンは言及しなかった。ジュリアンの子どもたちはもう成人したおとななのだ。なんの考えもなく厨房へ突撃するようなバカではないのだから。
「我々が分散して混乱を招くより、厨房にいる人間に案内させるがよい」
「案内?」
「居丈高に命令するようなのは、ちょっと……」
ジュリアンの提案に対し、双子は眉間に皺を寄せ難色を示した。これは自分たちのゲームであり、関係ない使用人たちを介入させるなと言いたいのであろう。
ジュリアンはそれに気づかぬフリを貫いた。
「私が彼らに聞こう。その際、おまえたちは厨房の人間が咄嗟に見る視線のさきを観察しなさい」
「視線のさき?」
ジュリアンは彼の子どもたちに説明した。
このような場所に公爵夫人が軽々しく来たとはとうてい思えない。おそらくはジャスミンあたりがこっそり仕込んだと推測する。その姿を使用人のだれかが見ているはずだ。
人間は、視線で思考を物語る。
やましいことがあれば視線を逸らす。
過去の記憶を辿ろうとすれば、左上部へ視線を流す。
あぁあれのことかと心当たりのある使用人は、無意識に該当箇所の方向を視線で示すだろう。
「なるほど」
「勉強になります」
「さすが、ですね」
子どもたちが三者三様に呟いた。
果たして。
堂々と厨房の入り口に姿を現した公爵閣下と次期公爵とその弟の公子、そして嫁いだはずのドレイク侯爵夫人の姿を見た厨房の使用人たちに緊張が走った。
このような場所に、皆さまお揃いで……と二の句が継げない状態の年配の男(コックコート姿をみるに彼が料理長であろう)がジュリアンの前に立った。
彼は怪訝な顔で公爵閣下を見つめた。
周囲にいた使用人たちがその後ろに慌てて並ぶと頭を下げる。
ジュリアンは全員の頭を上げさせ、自分を見ろと指示を出した。
そして、つい最近公爵夫人の専属侍女にして侍女頭のジャスミンがここになにかを置きに来なかったかと尋ねた。
大多数の者が不思議そうな顔で首を傾げるか、知らないと言いたげに首を振った。
数名があっと言いたげに口を開け、一瞬、同じ方向へ視線を向けた。
エリカたちはジュリアンの後ろに立ち、使用人たちの動作を観察していた。
「あちらにあるのは調理器具置き場? それとも食料品貯蔵室? もしかしたら配膳室?」
ジュリアンの後ろから前に出たエリカが閉じた扇で指し示しながら尋ねたのは、視線を動かした若いフットマンだ。もちろん、彼女が指し示した方向は数名の使用人が視線を飛ばしたさきである。
彼は美貌の侯爵夫人に話しかけられ直立不動になると、あちらの方向は食料品貯蔵室でございますと答えた。
「ありがとう。食料品貯蔵室を開けてくれ。――ほんのしばらくだ。入室を許せ」
次期公爵が堂々とフットマンに命じた。後半のことばは厨房の責任者であるはずの料理長へ向けて。料理長はどうやらジャスミンの一件を知らなかったようだが、否とは答えなかった。
フットマンは恭しく一礼すると、ジュリアンたちを案内した。
今回この世界の基本言語は英語っぽいもの……と、想定しています。つまり『ブレッド』は、われわれ日本人が思うところの『食パン』を指します。
パンという言葉はもともとは戦国時代のポルトガル人が伝えた「パオン(pãn)」が由来なんだとか。スペイン語なら「パン(pan)」です。