1.突然の妻の死
カレイジャス公爵家当主ジュリアンは、いま、生まれて初めて直面した絶望とともに深い悲しみの泉の底に沈みこんだ心地でいる。
彼の最愛の妻クリスティアナが四十という若さで突然死したのだ。
長男ダミアンに少しずつ領地経営や元老院議員の仕事を引き継がせている矢先の訃報。
ダミアンも結婚したし、そう遠くない未来に爵位を継承させようとしていた。そのあとは議員生活も引退し、領地で愛する妻とふたり穏やかな生活を送ろうと考えていたのに。
妻はいま、棺の中で静かに眠っている。
……眠っているように、見える。
うつくしい寝顔。
いつも見ていた寝顔と同じ、緩く口角のあがったこぶりの唇。
結婚した当時とほとんど変わらない滑らかな頬。
長い睫毛。
顔の周りをさまざまな花が彩る。いや、花の海に全身が沈んでいるようだ。
ほんとうに、眠っているようにしか見えない……のに。
指を伸ばして触れれば冷たい。
もうこの身体に彼女の魂は、ない。
なぜ、死んでしまったのだ。
どうして、きゅうに、こんなにもとつぜんに、あっけなく
頭の中をぐるぐると駆け巡るのは突然の訃報に戸惑うことばばかり。
妻に苦労させ続けていたのは承知していた。
格下である伯爵家から嫁いでくれた彼女には、公爵夫人という地位は苦労の連続だっただろう。
だがジュリアンは女を見る目があった。クリスティアナはうつくしいだけではなく聡明で穏やかな気質で、見事に公爵夫人として社交界に君臨し、多忙を極める彼を補助しつつ黙ってついて来てくれた。
そんな妻クリスティアナにいつも感謝していた。
忙しいのも現役のあいだだけだ。引退すれば、またふたりだけでゆっくりと語らう時間もとれるだろう。そう信じて疑っていなかった。
それなのに。
伸ばした手に触れる妻の頬の冷たさに絶望する。
髪の質感は変わらないのに、温かみがないだけでこんなにも絶望を感じるのはなぜなのか。
棺の中に眠る妻の頬に、ぼたぼたと雫が落ちる。
ジュリアンの涙だ。
こんなにも人は泣けるのかと思うほど、後から後から涙が溢れた。
四十を半ばも過ぎこどものように泣けるとは思わなかったが、妻の死なのだから仕方がないと脳の片隅でちらりと思った。
なのに。
ジュリアンは不思議でならない。
彼がこんなにも悲しみの泉に沈みこんでいるのに、彼の子どもたちは泣いていないのだ。
ジュリアンの子どもは三人。みな成人した。
長女エリカは既に嫁ぎ、現在はドレイク侯爵家の若奥さまである。
長男ダミアンも先月結婚したばかり。妻は隣国の公国から来た公女。この縁談も交友関係の広いクリスティアナの手腕と尽力の賜物である。お陰で公国との通商条約は円滑に結ばれた。
ダミアンと双子のハーヴェイはまだ婚約者もいないが、クリスティアナは『次男だからゆっくりと決めればいい』と言っていた。
クリスティアナが生み、彼女が手塩にかけて慈しみ育てた子どもたち。
その子らが、涙のひとつも見せずに淡々と葬儀の手配をしていた。
カレイジャス公爵家の敷地内にある広い礼拝堂に押し寄せた弔問客らに対応している姿に愕然とする。
あのちいさかった子どもたちがここまで大きく育ったのかという感慨とともに、育ててもらっておいて冷淡すぎるのではないかという憤りが押し寄せる。
なぜだれもクリスティアナに寄り添おうとしないのだ?
おまえたちのたったひとりの母に対して、あまりにも冷たいのではないか?
なぜ、涙のひとつも溢さないのだ?
この子たちは、こんなにも「ひとでなし」になってしまったのか……?
自分があまり子育てに関わってこなかったことは自覚していた。
だから、子どもたちはこんなにも冷血漢になってしまったのだろうかと、さらなる絶望に見舞われる。
たったひとりの母親が亡くなっても平気でいられるほどの……。
しかも、クリスティアナは死後大学病院へ搬送され、その臓器を研究の名目で奪われてしまったと聞き、ジュリアンは己の耳を疑った。
子どもたちは妻の側にいたはずなのに、なぜそんな暴挙を許したのだ。
大学病院などという狂信者の集まりの場に、やすやすと妻の遺体を連れ去られるという失態。
遺体を傷つけられたクリスティアナは、神の御許へ安らかに旅立てるのだろうか。
いいや、苦しんでいるはずだ。
そんなことも子どもたちには慮ることができなかったのか。
妻の棺に縋り付きながら、ジュリアンはなおも泣いた。
自分が不甲斐ないせいで、子どもたちの情操に多大な影響を与えてしまったことに。
妻に詫びなければならない。けれど、その妻はもういない。
絶望しかない。
弔問客たちがなにかを言いながらクリスティアナへ献花している。
クリスティアナがさらなる花に埋もれる。
ジュリアンの肩を叩きながら去る者もいた。悲しみに沈むジュリアンにはそれらを個別認識できなかった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
どうしていいのか分からない悲しみと絶望の中、ジュリアンの肩にそっと触れる手があった。
「お父さま……」
おそるおそる振り返れば、長女エリカが眉間に皺を寄せながら彼に話しかけてきた。
「人払いは済ませました。ここにはお父さまとわたくしたちだけです」
そのことばに辺りを見渡すと、礼拝堂の中はがらんとしていた。
先ほどまで葬儀をしていた司教も、たくさんいたはずの弔問客もいない。
いるのはジュリアンと、エリカとダミアンとハーヴェイ。
エリカの夫も、ダミアンの妻も葬儀には参列していたはずだが席をはずしているようだ。
「お父さまの取り乱しように埋葬は延期になりました。弔問客たちにはそう説明して帰っていただきましたわ」
エリカが妻そっくりの美貌でそっけなく言う。
続いてダミアンも黒のネクタイを緩めながら言った。
「弔問にみえた方々は、泣き崩れる父上を見て、よりいっそう涙を誘われているようでした。さすがですね」
なにが『さすが』なのだろうかと訝し気に思うジュリアンに、次男ハーヴェイも兄と同じようにネクタイを緩めながら言った。
「父上。ここには僕たちだけなので、もう演技はいりませんよ。楽にしてください」
ジュリアンは後頭部を殴られたようなショックを受けた。
彼の悲しみを、子どもたちは演技だと思っていたことに。