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繁華街を通り抜け、細い道に入っていく。賑やかだった周囲の音はどんどん小さくなり、花梨のヒールの音だけが響く。花梨はこの道を歩くのが好きだ。神社の中に入ったような、心穏やかな気持ちになれるからだ。花梨は俯いていた顔を上げた。店の前につくと、花梨はほっと息を吐いた。
路地裏の突き当たりにあるバー「ラ・ストレーガ」を見つけたのは偶然だった。
なんとなく、この細い道を通り抜けたら近道になるんじゃないかと思って入ったはいいけれど、見事に迷子になったことがあるのだ。
その時、バーのオーナーのサリナさんがちょうど店の『OPEN』の札をひっくり返しに外に出ていた。
花梨と目が合うと、サリナさんは『どうぞ、ゆっくりしていって』とドアを開けたのだ。
「こんばんはー。」
花梨はバーの重厚な木のドアを開けた。
「いらっしゃい、花梨ちゃん。」
サリナさんは今日も安定の美人だ。エクステじゃない本物のまつ毛は長く、綺麗に引かれたアイライナーがサリナさんの目をさらに大きく見せている。口紅はこの春の新色だろうか。あとでどこで買ったか聞かないと。サリナさんとは美容情報を交換する仲だ。
花梨はL字型のカウンターの長い方の真ん中に座った。まだ早い時間だからかお客さんはいない。
…というかオープンと同時に来た花梨が一番乗りだ。どうしてもサリナさんとゆっくりお話がしたかったのだ。
「久しぶりね。」
サリナさんが花梨の前に暖かいおしぼりとナッツを置いた。
家が美容院の花梨は、この暖かい布のおしぼりとは馴染みが深い。シャンプーの時に首元に暖かいおしぼりを乗せてくれるのは気持ちいい。よく美容師さんごっこをしては、びしょびしょに濡れたタオルをお兄ちゃんの首元に当てて怒られてたっけなあ。
「ご無沙汰してます。」
花梨は少し気まずそうに返した。前はちょくちょく通っていたが、彼と出会ってからはすっかり足が遠のいていた。…というか、プライベートの時間はずっと彼といた気がする。
花梨の顔をじっと見たサリナさんは、
「うーん、少し顔色がよくないわね。冷えは体に良くないわよ。」
と言った。
「ちょっと外で考え事をしていて…」
「彼となにかあったのかしら?」
「えっ!私、彼氏のこと言いましたっけ?」
彼と出会ってからは一度もここには来ていないはず。
「ふふふ。メッセージくれたじゃない。すごいハンサムで、キラキラしてて、優しい彼氏が出来ました、って。」
「えええええ。」
そんな惚気をしていたなんて。恋のテンション恐るべし。
頬を赤く染めた花梨は目をキョロキョロさせた。
「うーん、なんか、そうね。なんと言うか…とりあえず何か飲む?話はそれからね。」
「はい。ええと…」
そういえばお昼は食べていないんだった。最近めっきり食欲が減っている。
「温かいスープはいかがかしら?春野菜で作ったのよ。」
「ありがとうございます。」
サリナさんが鍋に火をつけた。しばらくすると、スープの優しい匂いがふわりと香ってきた。
「さあどうぞ。召し上がれ。」
「わあ!美味しそう!」
食べ物を見て美味しそうと感じたのは久しぶりだった。
花梨はスプーンでスープをすくうと、一口飲んだ。
「美味しい!」
「でしょう。採れたてのアスパラをいただいたのよ。あと春キャベツとにんじんね。」
スープの温かさが喉を伝わって全身に広がる。
「おーいーしーいー。」
花梨はスープ皿を両手で包むとほうとため息をついた。
「顔色が少しよくなったわね。おかわりもあるからたんとお食べなさい。」
「ふふ。サリナさんお母さんみたい。」
「私はみんなのお母さんで恋人よ。」
サリナさんはウィンクした。
サリナさんのこういうところがモテる秘訣なんだろうな。彼氏とうまくいっていないでうじうじしている私とは大違いだ。
—— カランカラン
レトロな鈴の音が聞こえた。
「いらっしゃい。陸君。」
入ってきたのは常連の高坂さんだ。最近やっと長年の片思いが成就したらしい。常連さんはみんな知っている。というか高坂さんは特に隠してもいなかった。気づかなかったのは当の本人の杏さんだけだ。
「こんばんは、サリナさん。花梨さんも。」
「こんばんは、高坂さん。今日は杏さんは?」
「杏さんは今日は来れないかな。昨日無理させちゃったから、ね。」
高坂さんは目を細めて微笑んだ。途端にクラクラするくらいの色気が漂ってくる。
…うん。高坂さんはあれね、怒らせたり敵に回しちゃダメなタイプね。普段優しげなのに底が知れないというか。杏さん観念するしかないわね。
「おっ美味しそうなスープだね。僕ももらおうかな。」
花梨が引いたことを感じた高坂は、ことさら明るく言った。
「いいなあ。ラブラブで。」
ぽつりと言った独り言は案外大きく響いたらしい。二人が同時に花梨の方を見た。
「花梨ちゃんは悩めるお年頃なのよ。」
「そうか。僕でよければ話を聞くけど。」
「…ありがとうございます。その、なんというか、倦怠期?飽きられた?そう言ってしまえばそれまでの話なんですが…」