22
「その、なんだ、俺のことはどうでもいい!君は無事か?きちんと家まで送るから安心しろ。」
男はソファーに座り込んだままだった花梨に手を差し伸べた。
花梨はその手を取っていいものか迷った。
「あー、その。くそっ」
男は手を引っ込めると頭をガシガシ掻いた。
初めて目線が合った。縋るような目で花梨を見ている。『お願いだから聞かないでくれ』という心の声が聞こえてきそうだ。
…悪い人ではないのかも。
「ああ!」
急に男が大声を出したので、花梨はビクッとした。
「忘れてた。少しかがんでろ。」
男はそう言うと、ウェストホルダーから拳銃を引き抜いた。
「えっ!ちょっと!ええ!」
「おい!壁の向こうのお前!お前もかがめ!」
男はそう叫ぶと、なんの躊躇いもなく引き金を引いた。
バンッ!
壁に大きな穴が開いた。
「花梨!花梨!」
康太の声が穴の空いた壁の向こう側から聞こえてくる。
パリ、パリパリパリ
壁は見る見る崩れていった。
「花梨!」
壁の向こうから康太が駆けてきて、ソファーに飛び乗った。
「大丈夫か!?」
康太はギュッと花梨を抱きしめた。
「…康太?」
花梨は震える声で聞いた。
「うん。」
「康太、な、何で…?」
「アイツに連れ去られる花梨を追ってきたんだ。」
「康太、康太!うそ、怪我してる。どうしたの!?」
「大丈夫。掠っただけだから。」
康太は頭から血を流している。花梨が康太の顔を触ろうとすると、康太は痛さに顔を顰めた。
「止血しないと!」
カバンにティッシュが入ってるはず!花粉症の時にお世話になった柔らかい高級ティッシュ。
康太の腕から出ていこうとする花梨を康太は抱きしめた。
「大丈夫だから。深くないし、血も止まってる。」
「でも!」
「顔は血が出やすいんだよ、大丈夫。それより花梨、大丈夫か?」
康太は花梨を落ち着かせようと穏やかに語りかけた。
「康太、こうた…こうっうっううっ」
「遅くなってごめん。守れなくてごめん。もう大丈夫だから。」
康太は花梨の背中を優しくポンポン叩いた。
「こうたぁ!」
花梨は康太の胸に顔を埋めて泣き出した。
「うっ、わーん!怖かったよお。」
「ごめん、ごめんな。大丈夫だから」
康太はホッと息を吐いた。間に合ってよかった。
◆
「花梨!花梨!」
男が花梨の腰を抱いて歩き出したのを見た康太は、走って花梨たちを追いかけた。ニヤリと嘲り笑った男の顔が頭から離れない。
「花梨!花梨!」
どんなに大声で呼んでも花梨は振り向かない。いくら走っても花梨達との距離が全く縮まらないことを疑問に思う余裕は康太にはなかった。
くそっなんだ、ここ!
康太は息を乱しながら悪態をついた。
街中にいたはずなのに、気づけば人工的な建物はなくなっていた。高層ビルは姿を消し、代わりにポツポツと背の低い木が生えている他は何もない平地だ。通行人にはまったくすれ違わない。それどころか、生き物の気配が全くしない。無風で、空気がまとわりつくように重い。聞こえるのは康太自身の上がった息の音と衣擦れの音だけだ。
花梨たちはうねる道をゆったりと歩いている。時々霞がかったように辺りが白くなって、離されそうになるのを康太は必死で追った。
「花梨!あっ!」
白い雲のようなところに頭から突っ込んで方向感覚がおかしくなった康太は、足がもつれて派手に転んだ。
「くそっ!」
なんとか両手を付いて堪えようとしたが、手に砂利が刺さった弾みで右にバランスを崩した。打ちどころが悪かったのか、右腕に激痛が走った。
「いってぇ。」
這いつくばっていた体を左手で持ち上げて前を見ると、遠くで花梨を連れた男がピタと止まり、康太の方を振り向いてニヤリと笑った。
アイツ!殴る!
康太が勢いをつけて起き上がったと同時に、花梨と男は一軒の家に入った。
まずい!
康太はダッシュで家まで追いかけた。時間の感覚はすでに怪しいが、それほど時間はかかっていないだろう。康太は間に合ってくれと祈りながら家のドアを勢いよく開けると、
「花梨!」
と叫んだ。だがあたりを見渡しても花梨はおらず、白と黒がまばらに混ざり合ったような空間に、男が浮いていた。