21
「やめてください。警察呼びますよ。」
「ははっ。ここにケイサツは来ないぞ。お前の世界と他の世界との狭間だからな。」
「そんなこと!」
そうだ、スマホはどこ?カバンの中に入ってるはず!
花梨は目線だけ動かしてカバンを探した。
あそこ!
花梨はソファの横に置きっぱなしになっていたカバンのところまで素早く動くと、カバンからスマホを取り出した。
110番だっけ?119番?なんでややこしい番号にするのよ!
苛立ちながらスマホのロックを外そうとして、はたと気づく。
あっ『緊急』ってのがあるわ。
『緊急』の画面をタップしようとしたところに、
「なあ、見てみろよ。ケンガイ。分かる?」
しゃがみ込んでいた花梨を男は後ろから覗き込んだ。
「!!!」
花梨は慌てて振り向いた。すぐそばに男の整った顔がある。
「俺も最近すまほ?ってやつを持ってみたんだよ。ニンゲンはほんとおもしろいもの作るよなー。」
警戒している花梨をよそに、妖魔はのほほんとしている。
「な、これ。ここじゃ掛からないの。デンパなんて飛んでないの。ほら、置いて。ソファーに座りなよ。足、痺れるぞ。」
妖魔は花梨からスマホを取り上げると、テーブルに放り投げた。少しでも妖魔と距離を取りたかった花梨は、ソファーの上に飛び乗った。が、すぐにそれは間違いだったと気づく。
「そうそう。そうやって大人しくしてればいいんだよ。全部は食わねーよ。ちょっと味見だけな。痛くはしないから。」
妖魔は花梨を囲うように壁に両手をついた。両足もソファーに乗り上げて、花梨の脚を挟んでいる。
「は、離して…離してよ!」
「大丈夫だ。体を食うわけじゃない。少し魂を齧るだけだ。結構気持ちいいらしいぞ?クセになるやつはなー、食ってくれってあっちからせがんでくるくらいだ。」
「や、やめて…」
歯がガタガタと鳴る。喉が張り付いて声が上手く出てこない。
「うーん、恐怖もいいけど。もうちょい甘めでもいいんだけどな。まあいっか。」
妖魔はにこりと笑うと、花梨の首筋に口を近づけてくる。
「いただきまーす。」
ドン!!!!
壁が大きく揺れた。
「ちっうぜえ。」
妖魔は体勢はそのままで、右手をひらっと払い除けた。
ガタン!
壁の後ろで大きな音がした。
「何!?」
「あー、あんまり力出ねーな。魔女が呪いやがるから。」
妖魔はそう言って右腕の袖を引き上げた。右手は手首から肘にかけて、真っ黒に変色していた。
「ちっ。まあいいか。食えば回復するだろう。なんでもねーよ。ささ。気を取り直して。」
魔族は再び花梨の顔の横に両手を置くと、首筋に口を近づけていく。咄嗟に花梨は目を閉じた。
ドォン!
ガシャン!
パリンパリン!
花梨は押さえつけられていた体がふっと軽くなるのを感じた。驚いて目を開けると、目の前の妖魔はいなくなっていた。あたりを見渡すと、妖魔は部屋の端のガラス製の棚に激突していた。
「な、なに…?」
「そこまでだ、クソ魔族が。」
壊れた窓枠から、すらりと背の高い男がひらりと部屋の中に入ってきた。男はチラリと花梨を見ると、妖魔から目を逸らずに
「大丈夫か?」
と花梨に聞いた。
驚きすぎて声の出ない花梨は、コクコクと頷いた。
「ちょっと待ってろ、先にこのクズを処分するから。」
「いってーな!いきなり何すんだよ!クソはてめーだ!」
割れたガラスまみれになっていても傷一つついていない妖魔が尻餅をついたまま叫んだ。
男はそれを無視すると、
「5月19日深夜12時、世界の狭間で自称妖魔と名乗る魔族を捕獲。これから移送する。」
と時計に向かって呟くと、ポケットから卵のようなものを取り出して妖魔にぶつけた。
グシャ
ブワッ
「ギェっ!」
割れた卵から無数の白い糸が一瞬にして広がって、妖魔を蚕のように覆い隠した。
「いてーよ、ちょっと緩めろよ。」
妖魔の声がくぐもって聞こえた。左右に白い塊が揺れ動くが、それ以上移動できないようだ。糸は強力らしく、破れることもない。
「送ろう。立てるか?」
ようやく男は花梨の方を向いた。目線が微妙に合わない。花梨の頭のてっぺんあたりを見ている。
「は、はい…あ、あの、あなたは?」
花梨は震える声で聞いた。変な人についてきて酷い目にあったのだ。また同じことを繰り返すわけにはいかない。
「俺は通りすがりの一般人だ。」
「………」
え。それはなくない?
男は警察官のような制服を着ている。ウエストには拳銃のようなものを下げているし、さっき捕獲って言っていた。
「あー…怪しいものではない。」
「………」
じっと見つめた花梨の視線に耐えかねたように、男は目線をウロウロさせた。帽子をかぶっていて顔はよく見えないが、黒髪のようだ。切長の目は鋭そうなのに、目が泳ぐと途端に鋭さが和らぐ。すっと伸びた鼻筋、きゅっと閉じられた薄い唇は端正な顔立ちと言っていいのだが、今はいたずらが見つかった子供のようだ。