17
◆
走って花梨がたどり着いた先は「ラ・トレーガ」だ。
重たいドアを開けて中に入ると、花梨はほっと息をついた。
「いらっしゃい、花梨ちゃん。さ、座って。」
サリナさんがにこりと笑って言った。機嫌がとてもよさそうだ。
「サリナさん…」
「ふふ。そんな泣きそうな顔しないの。さ、温かいおしぼりで手を拭いて。お酒の前に何かお腹に入れた方がいいわ。」
しばらくして、花梨の目の前に置かれたのはほかほかの肉まんと餡まんだ。意外さに花梨はプッと笑った。
「サリナさん、これどうしたんですか?」
「どうしても肉まんの気分だったから本場まで買いに行ってきたのよ〜」
「本場って中国ですか?サリナさんったら冗談。」
ふふふとサリナさんは笑った。
花梨はハフハフしながら肉まんを頬張った。熱々の中から、じゅわっと肉汁が溢れてくる。
「おいしい!」
「でしょう。ここのはラードがいいやつを使ってるのよ。豚肉もひき肉とぶつ切りの二種類を使ってるの。薬草とか買いに行ったついでについつい買ってきちゃったわ。」
「薬草?ああ、漢方ですか。中華街に行ったんですね。いいなー。」
中華街なんてしばらく行ってないな。花粉が治ったら、康太とも行こうと思ってて——
ズキンと胸が痛んだ。
「…サリナさん、私、別れてきました。」
「あら!おめでとう。よかったわね。」
え。おめでとう…?
花梨のショックな顔を見て、サリナさんは苦笑いした。
「だって花梨ちゃん、苦しそうだったもの。もっといい人がいるわ。」
「そう…でしょうか。」
花梨は俯いた。
恋が、恋じゃなかった。
だから、お別れした。
それだけの話だ。
康太だってきっとすぐに吹っ切れる。
…そうは思うのだけど。
花梨は康太の悲しそうな顔を思い出した。
—— カランカラン
レトロな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい。陸君。」
「こんばんは、サリナさん。花梨さんも。」
高坂さんはいつもの席に座った。
「サリナさん、ずいぶんとご機嫌だね。何かいいことでもあった?」
「花梨ちゃんがフリーになったのよ!」
「サリナさん!」
花梨が慌ててサリナさんの名前を呼んだ。
「ふふ、ごめんなさいね。嬉しくて。さ、いっぱい食べて次の恋に備えないとね。」
「そんな…たしかに別れましたけど、好きじゃない、わけでもなくて…」
何をぐずぐず言ってるんだろ。別れたのに。恋じゃないのに。
でも…
花梨はまた泣きそうになって下を向いた。
「花梨さん。前に僕に恋はいつか冷めるのかって聞いたの覚えてる?なかったことになるのか、日常の一部になるのかって。」
「はい。」
高坂さんが穏やかな声で花梨に話しかけた。
「人それぞれだとは思うけど…ね、花梨さんは、もしロミオとジュリエットが死ななかったら二人の恋は続いたと思う?」
「ロミオとジュリエット…敵対している家同士の子供が恋に落ちる話ですよね?確かお互いに、相手が死んだと思って命を断つのがラストだったような。」
「そう。もし、例えば現代の医学で、二人の命が助かったら。二人はその後も恋人でいるかな。」
「うーん、私としてはそのままハッピーエンドになって欲しいですけど。劇的に恋に落ちると、冷めるのも早いのかなあ。」
あ、今すごい自分に刺さった。自爆。
「僕はね、花梨さん。たとえ恋が冷めたとしても、花火のような一瞬の煌めきから、育む愛に変わることもあるんじゃないかなと思っているよ。」
「育む愛…」
「そう。ゆっくり育つ愛。僕は杏さんとそんな愛を育てていきたいと思ってるよ。」
「…素敵ですね。」
花梨は微笑んだ。
◆
—— カランカラン
花梨が去った後。
「ちょっと陸くん!なんであんなこと言うのよ!せっかく花梨ちゃん諦めモードだったのに!」
「はは。ごめん、ごめん。僕だってアイツらの悪さは許せないけど。でも、花梨さんの泣いたり笑ったり、その気持ちは本物だと僕は思うよ。」
「それはそうだけど…」
「これもきっかけの一つってことでいいんじゃないかな。もしかしたら花梨さんは本当に運命の人に出会ったのかもしれないよ。」
「そうだったらいいなって私も思うわよ!でも!恋する乙女の気持ちを悪用しようなんて許せないわ。花梨ちゃんのお相手がたまたま悪人じゃなかったからよかったものの。変な人に捕まっていたらと思うとゾッとするわ。」
はあーとサリナさんはため息をついた。
「花梨さんたちだけじゃなくて、今年は全体的にふわふわした春だったからね。被害はたしかに大きかったな。」
「あの妖、恋成分が低い大人の方が重症なのよ。子供なんてケロッとしてるわ。」
ピクっとサリナさんの眉が動いた。
「あの魔族、私の縄張りに入ってくるとはいい度胸ね。飛んで火に入る夏の虫。八つ裂きにしてやる。」
「どうどう。僕も一緒に行くよ。」
「陸くんは家に帰りなさい。魔女の獲物に手出しは無用よ。」
サリナさんがピシャリと告げた。
「分かったよ。あんまり無理しないでね。」
高坂さんは両手を挙げて降参した。
「ふふ。それは約束できないわね。」
サリナさんは酷薄な笑みを浮かべた。