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【So far,so near】


 パイロット姿の父はとても勇ましかった。

 テスト飛行用の機体は長い年月を経て今にも壊れそうに見えたけど、実際は部品の一つ一つを見た目以上に大切に、丁寧に整備されていた。

 空を飛ぶために必要な物は全てそろっていた。

 父のかたわらに一歳年上の姉が寄り添う。

 十一歳にして飛行技術の天才的才能を認められ、姉は父からテストパイロットとしての英才教育を受け、その座を引き継ぐ事になる。

 今日はその初フライトの日だった。

 才色兼備、空の大和撫子とのちにうたわれる幼いながらも美貌の姉は、その聡明で無垢な瞳をテスト飛行用の機体に向けていた。

 父がコクピットに乗り込むと、それに続いて姉がコクピットに乗り込み父の膝の上にチョコンと座る。

 普段は無口で無表情な姉も今日は機嫌が良さそうで誇らしげにその小さな胸をはる。

 キャノピー越しに見える愛らしい口元からは普段滅多に見ることの出来ない自然な笑みがこぼれていた。

 やがてエンジンに火が入り、プロペラが高速に回転。

 強力な風を生み出す。

 骨董品じみたレシプロ機はヨタヨタと老犬のように滑走路を這いながら、ゆっくりと機首を上げる。

 フワリと浮かんだ機体は雲一つない大空へ飛翔する。

 飛んだ瞬間から老犬は翼を得た鳥へと変貌し、澄んだ青空を縦横無尽に飛び交う。

 空においては機体性能以上に操縦する腕が問われる。

 父の飛行技術はエースクラスだった。

 数十分のフライトを終え、地上へ戻った姉はフラフラしながら手足を膝につくと滑走路の上にゲーゲー胃の内容物を嘔吐した。

 そんな姉の小さな背中を父は優しく撫でていた。

 今となっては良い思い出である。

 すでに赤紙の届いていた父は日本軍、空挺飛行団、第三十七部隊へ翌日づけで配属され一週間後に戦地で亡くなった。

 軍部からは一通の電報が届いただけである。

 いわく、


 アカツキ コウクウヘイ

 センチニテ コグンフントウ

 ミカタタイロヲ カクホゴ

 ネンリョウギレニテ

 ジキゴト テキニトッコウ

 ミゴトサンゲス

 マサシク ヤマトダマシイココニ アリ

 ソノタマシイハ ヤスクニニテ

 テイチョウニ トムラウコトトス 


 サンゲスとは散華す、華々しく散るという意味で、つまり父は戦死したのである。


【秘密】


 姉は父のあとを継いでテストパイロットとなった。

 まるで父の事を忘れるために、それとも父の後を追うようにか? とにかくガムシャラに飛んでいた。

 それも、つい最近までの話で、開戦から三年が経過した今日となっては、徐々に日本軍は米軍に押され始め、大東亜から撤退を余儀なくされていた。

 戦況は日々悪化の一途をたどっていた。

 日本軍から要請される飛行機の部品の需要は高まる一方で、試験工程などしている猶予はなかった。

 故障や不具合など根性で乗り切る。

 それが大日本帝国軍人である。

 とのお達しによりテスト飛行は中止になった。

 この街で作っているのはエンジンまわりの部品と、その他の精密な部品だったが、それらの部品をろくな点検もしないで出荷せざるをえない状況に追い込まれた。

 工場長いわく、

「ろくな点検も済んでない部品が、まともに動くわけがねえんだ。そんな飛行機で飛ばなきゃいけないパイロットは死にに行くようなもんだ。もっとも、学徒出陣だ何だ、と、軍上層部は死にに行く若者を美化しているぐらいだからな、この日本自体が壊れかけてるんだろうな」

 ぼくは唇に人差し指を当て、

「工場長、どこで誰が聞いているかわかりませんよ。特高警察が目を光らせている可能性があります。気を付けないと危険ですよ。敵はアメリカだけじゃありません」

「やつらなんぞクソくらえだ。同じ日本人同士で殺しあってどうする? 同じ民族で殺しあう国が自由と平等の国、アメリカに勝てるもんか! こんな国はさっさと負けちまえばいいんだ!」

 吐き捨てるように怒鳴った工場長は三日後、非国民の名目で特高警察に逮捕された。

 工場長は特高警察による激しい拷問のすえ獄死した。


【夕暮れの帰り道】


 風華姉さんは空ばかりを眺めていた。

 教室のスミで空気のようにたたずんでいる。

 長い艶やかな黒髪、真珠のように白い肌、切れ長の瞳、夕焼けが眩しいくらいに美しい横顔を照らす。

 まるで欧米の荘厳な絵画のようだ。

「日が暮れるよ風華姉さん。まだ帰らないの?」

 ぼくを振り返る事なく風華姉さんが長いまつ毛をふせる。

「もう少し、もう少しだけ、空を見ていたいの」

 ぼくも空を見上げる。

 燃えるようなオレンジ色の空、黄金色に輝く雲、なだらかな山の稜線に沈み込もうとする太陽。

 すべてが神々しい。

 まるで神が描いた荘厳な絵画のようだ。

 風華姉さんの瞳が潤む。

「私がこの空を飛ぶ事はもうないのかしら」

 ぼくは途方にくれながら何度も口にしたお決まりのセリフをつぶやく。

「テスト用の機体も軍に接収されたからね。多分、もう無理だろうね」

 風華姉さんが苛々とした口調で反発する。

「そうかもしれないわね破刀。でも、私は諦めないわ。決して諦めない」

 大和撫子と呼ばれながらも、風華姉さんは見た目以上に内心以外と頑固だ。

「風華姉さんの考えている事を当ててみようか?」

 風華姉さんがキョトンとした顔つきをする。

 年相応の少女らしい表情になった。

「今、日本軍はインパール作戦みたいな無謀な作戦をしたせいで、大人の兵士が無駄に、たくさん死んでいる。不足した兵士を補うために軍は学徒動員といって少年少女を戦地に送り始めた。しょせんは大人の兵士が育つまでの一時しのぎに過ぎない捨て齣だけどね。風華姉さんはそれに志願する気じゃないの?」

 風華姉さんが瞳をそらし、

「それで、私がもう一度空を飛べるなら、それでも構わないわ」

 風華姉さんが早口でまくしたてる。

 ぼくは忠告した。

「その前に、風華姉さんは兵士として戦う必要があるんだよ」

 風華姉さんがぼくを振り返り、

「お父様も戦地で敵と戦って立派な最後をとげたわ」

 風華姉さんは何かと言うと父の話をする。

「ぼくが言いたいのは、戦争をするという事は、敵と戦って殺す、という現実の事だよ。ぼくは風華姉さんを人殺しにはしたくない」

 風華姉さんが瞳を伏せ、

「だけど他に方法が思いつかないわ。それに、アメリカ軍はお父様を殺した仇よ。破刀はアメリカ軍が憎くないの?」

 ぼくは歯を食いしばる。

「憎いよ。憎いけど、憎み続けたらキリがない。アメリカ兵をみんな殺すのかい? 日本軍はそうしたいんだろうけど、ぼくは軍人じゃない」

 風華姉さんが叫ぶ、

「臆病者!」

「ぼくは臆病だよ。それは否定しないよ。だけど、風華姉さんは嘘つきだ」

 風華姉さんがぼくをにらみつけ、

「私は嘘なんかついてないわ! 帝国軍人として敵をやっつけるのよ! アメリカの戦闘機を撃墜するのよ!」

 ぼくは冷めた瞳で風華姉さんを見据え、

「いや、そうじゃないね。風華姉さんは死に場所を求めているだけだよ。死んで父さんの元に行こうとしているだけなんだ」

 風華姉さんの瞳に動揺が走る。

 全身をわななかせながら、

「違う! 違う違う。私は、私は……」

 語尾が震える。

 気まずくなったぼくは風華姉さんを残して先に家に帰った。

「先に帰るよ」


【ひばり】


 白い飛行機が丘のほうから飛んできた。

 最初、紙飛行機かと思ったけど、より大きく、形もはるかに飛行機に近かった。

 恐らく、一メートル以上はあるだろう、その飛行機が、ぼくの頭上を飛び越えて海に向かって飛んで行き、悠々と着水した。

 飛行機が波に押し戻されて砂浜の波打ち際を漂う。

 ぼくはその飛行機を拾い上げ、つぶさに観察した。

 オモチャの飛行機かと思ったが、実際はもっと本格的な物だった。

 胴体よりも長い、細い翼、真っ白いグライダーだった。

 誰がこんな物を作ったんだろうと思いながら、目線の高さまであげ、しげしげと観察していると、

「あ~~~っ! それっ! あたしの! あたしのグライダーだよ! 返してよ!」

 ひったくるようにグライダーを奪う少女。

 ぼくはその少女に少しだけ興味を持った。

「そのグライダー、市販の物じゃないよね。誰かの手作りなのかな? それにしても、凄く良く出来ているね。まるで本物のグライダーだ」

 それまで毛虫を見るような目付きでぼくを見ていた少女の瞳が突然輝き、満面の笑みを浮かべる。

 やがて腰に手を当てると、誇らしげにその小さな胸を反らした。

「フフン! あんた! なかなか見る目があるじゃない! そうよ! このグライダーはあたしが作ったお手製なのよ! 凄いでしょ! 本物のグライダーみたいでしょ! 驚いた? 感動した? 涙がチョチョ切れた?」

 少女の変貌ぶりに驚きながらも、

「君がかい? 信じられないな。いったい誰に、どこで習ったんだい?」

 少女は小さな胸をさらに反らし、

「うちの父は飛行機の設計をしていたのよ。だからうちには設計の資料や道具がどこにでも、たっくさん、ゴロゴロ転がっているの。グライダーの設計図も三十ぐらいあったわ。あたしはオモチャがわりに、そういう設計図を元に飛行機の模型を使っては一人で遊んでいたの。父はあたしの事を天才だってほめていたわ。その後、本格的に父から飛行機の設計を教わったわ。父はこの戦争でなくなったけど」

 ぼくは出過ぎた真似を詫びる。

「ゴメン、余計な事を聞いちゃって」

 少女がさらに小さな胸を反らし、

「フフン! あたしには父の血が流れているのよ。つまり、あたしの中で父は生きているのよ。いいえ! 生き続けるのよ! それに、これもね!」

 言うなり少女が海に向かってグライダーを投げた。

 夕暮れ時の海風に乗って、グライダーはグングン上昇する。

 真紅の夕焼けに真っ白なグライダーがオレンジ色に染まりながらゆっくりと滑空する。

 戦時である事を忘れてしまうぐらい、優しい、心震える光景だった。

 少女が微笑みながら、

「あたしは青空ひばり! あんたは?」

「ぼくは、赤月破刀」

「へ~、ハト君か。名前は知らなかったけど、本当はあたし、ハト君のこと前から知ってたよ」

「君は……青空さんは、もしかして白銀学園の生徒なの?」

 青空ひばりが、

「その通り! ハト君は赤月風華さんの弟って事で有名なんだよね。お姉さんは才色兼備で、しかもテストパイロットだったもんね。学園のアイドルだよ」

 ぼくは苦笑し、

「テストパイロットは失業中だけどね」

 青空ひばりが遠い目をし、

「それでも羨ましい。いつかあたしの作った飛行機に乗ってくれないかな~」

 ぼくは希望的観測をのべる。

「戦争が終わって、平和になれば、きっと青空さんの作った飛行機に乗ると思うよ」

 青空ひばりがぼくをにらみつけ、

「ひばりでいいよ同い年なんだから。クラスは違うけどさ」

 ぼくは素直に、

「うん。わかった、ひばり」

「フフン! それでよし。そいじゃまた明日ね~」

 着水して海に浮かんだグライダーをつかむと、そのまま来た時と同じようにひばりは走り去った。


【同じ空の下】


 暗いリビングで風華姉さんと二人きりの食事をとる。

 部屋が暗いのは灯火制限の影響だ。

 となり街に三日前の夜、敵の偵察機が飛んで来たそうだ。

 二機編隊のうち一機は地上からの機関砲によって運よく撃墜したが、一機は逃げ帰ったそうだ。

 撃墜した機体のパイロットは偶然、命は取り止め捕虜の身となったが、その後とある事情で死亡している。

 それはともかく、

「東京はひどい事になっているそうだね」 

 風華姉さんがナイフを持つ手を止め、ぼくをにらむ。

「疎開してきた生徒がみんな言ってるんだ。あと数日、疎開するのが遅れたら焼夷弾を落とされて、きっと焼け死んでいただろうって」

 風華姉さんの瞳が揺れる。

「私たちは戦争をしているのよ、破刀。超大国アメリカと、空襲されて命を落とすのも覚悟の上よ」

 ぼくは吐き気を覚えながらも、

「あの東京大空襲は、戦争とはいえないよ。最初に円を描くようにして焼夷弾を落として逃げ道をふさぐ。その上で今度は十字に焼夷弾を落としたんだから。一方的な虐殺。それも大虐殺だよ。同じ敵国でもドイツやイタリアでは出来るだけ民間人は巻き込まないようにしているのに」

 風華姉さんが眉をひそめ、

「日本軍も中国で南京大虐殺をしているわ。ドイツではヒットラーがユダヤ人を大虐殺している。戦争になればどの国も同じ、五十歩百歩よ。破刀は戦争反対派なのね。それとも、私が戦争に参加するのが嫌?」

 ぼくはそれには答えず、

「こんな話もあるんだ。日本軍のインパール作戦といってね。インドのインパールにあるイギリスの基地を奪ってインドの豊富な物質を得ると同時に中国ににらみを効かせるという一石二鳥の作戦なんだけど、ビルマからインパールまでの距離が、だいたい新潟から東京まであるうえに、標高二千メートルのアラカン山系が横たわっているんだ。陸軍が陸路で補給も無しに踏破するのは不可能といわれている無謀な作戦だ。でも、帝国陸軍は作戦を実行した。八個師団、八万人いた将兵はインパールに着く頃には、その半数の四万人が死んだんだ。みんな餓え死にだよ。それを見かねたイギリス首相のチャーチルは食料を空から落下傘で落としてくれたけど、帝国陸軍は兵士がそれを食べる事を絶対許さなかったという。結局、インパール作戦は失敗、牟田口大将はさっさと飛行機で日本へ逃げ帰ったそうだ」

 風華姉さんが反論する。

「どんな作戦も必ず勝てるとは限らないわ」

「牟田口大将はインパール作戦が失敗したのは兵士の根性が足りないせいだと言っていたそうだよ」

 風華姉さんが唇をふるわせ、

「すべての大将が頭脳明晰で優秀な部下を持つうえ幸運にも恵まれているとは限らないのよ、破刀」

「ぼくが言いたいのは、つまり、敵は外だけじゃなく内にも、味方の中にもいるって事だよ。ましてや、軍上層部の人間が兵士を見捨てたら、目もあてられない地獄が待ち受けているって事さ」

 風華姉さんが不機嫌に、

「もうやめましょう、こんな話。ごはんが冷めちゃうわ」

 ぼくはしつこく追及した。

「戦争は人を狂わせるんだよ、風華姉さん。となり街に落ちた偵察機のアメリカ人捕虜がどうなったか知ってるかい?」

 風華姉さんが首を振り、

「もうやめてと言ってるのよ破刀」

「いや、これだけは風華姉さんにも知ってもらいたいんだ。捕虜になった米軍パイロットはね人体実験の犠牲になって死んだんだよ。帝国陸軍731部隊と同じ人体実験がとなり街で行われたんだ。それも実験の内容がひどい。海水が血液のかわりになるかを捕虜で試したんだよ。その捕虜は血を抜かれたあと、体内に海水を注射されて死んだんだ」

「もう止めなさい!」

 風華姉さんの絶叫が室内に響く。

「それに、もう遅いのよ破刀。私はもう……」

 その続きの言葉は遠くから、かすかに響く、花火のような爆発音によってさえぎられた。

 ぼくにとっては、その続きの言葉のほうが何倍も何十倍も大切な事だと、あとで後悔する事になるのに。


【Starry Night】


 風華姉さんが外を見ようと窓に近づく。

 ぼくはそれを制し、

「先にロウソクの火を消そう。敵がいたらマトになる」

 風華姉さんがうなずき、ぼくと一緒に室内のロウソクを消していく。

 室内が真っ暗になってから、ようやく二人そろって窓ぎわに寄る。

 カーテンを開いて窓を開ける。

 他の民家からも暗い室内から外の様子をうかがう姿が見える。

「あれを見て!」

 風華姉さんが指差す方を向くと、西の空が真っ赤に燃えていた。

 となり街が空襲を受けているのだ。

 窓の外だと爆音だけでなく機銃掃射の、

 タタタ、

 という音も小刻みに、かすかに聞こえる。

 みんな息を潜めてその様子をうかがっていた。

 風華姉さんが怒りに駈られ、

「テスト飛行用の機体でやっつけてやる!」

 とヒステリックにわめくのを、ぼくはなんとか押しとどめる。

 殺されに行くようなものだ。

「風華姉さん一人の力でどうにかなる相手じゃないよ。まして武装もないテスト飛行用の機体じゃね」

「破刀の弱虫! 毛虫! それでも日本男児なの? 敵を目の前にして何もしないの? 大和魂はどこへ行ったの!?」

 ぼくは悲し気に、

「竹ヤリで勝てる相手じゃないよ。根性や気合いで敵は倒せない」

 風華姉さんがぼくを冷めきった瞳で見つめ、

「破刀相手にこんな事を言っても無駄よよね。あなたは……。でも、いいわ、いずれ私が鬼畜米英をやっつけてみせる。お父様の仇を討ってみせるわ」

 ぼくは黙って風華姉さんの燃えるような美しい瞳を見つめるほかなかった。


【White Land】


「もし、また敵の空襲があったら、その時は私が破刀を守ってあげるわ」

 風華姉さんが制服のスカートをひるがえしそう言う。

 今日は珍しくぼくと一緒に登校する気だ。

 ぼくは空を見上げながらつぶやく、

「風華姉さんがいれば百人力だね」

 まぶしいぐらいの青空が広がっている。

 昨夜の空襲を忘れるぐらいだ。

 丘の上に学校が見えてくる。

 白銀学園だ。

 三階建ての白塗りされた木造の校舎。

 ホテルを改装して作られた豪奢な造りだ。

 白銀市の財政はいつでも潤っている。

 戦闘機の部品を作っている以外にも、製鉄、造船、製紙、と製造業が盛んだ。

 これは今に始まった事じゃない。

 ずっと昔、丘の向こうの白銀連峰に鉄の大鉱脈が眠っていると気付いた時からだ。

 およそ今から二千五百年前、日本の歴史上はまだ青銅器しかない時代に白銀近辺では高度な鉄の文明が存在したという。

 無論それを証明する証拠は何もない。

 ただ、地元の一部の考古学者たちが熱心にその説を唱えていた。

 論拠に乏しい憶測に過ぎないが。

 それでも白銀市民の大多数はその憶測を信じていた。

 余談になるけど、その高度な文明には数多くの伝説も存在し、その一つは白銀の翼と呼ばれる銀色の飛翔体である。

 今風に言えばUFOなのか? とにかく、その飛翔体が大昔に何度も街を襲った災いを退けた、神々の聖なる乗り物だと伝えられている。

 キントウンみたいな物か? まあ、そんな話はどうでもいい事だけど。 

 とにかく豊かな自然と発達した産業のおかげで白銀市は都市部に負けない隆盛を誇っている。

 そのせいか都市部からの疎開先として選ばれる事が多い。

 それも政財官の子息、息女の疎開先に選ばれる事が多い。

 そんな関係なのか白銀市は戦時にも関わらず戦前のような空気をいまだに保っている。

 風華姉さんがスカートをはいているのもそれが理由だ。

 子息、息女がモンペや丸坊主ではイカンと上からのお達しがあったとかなかったとか。

 ともかく、ぼくも坊主をまぬがれて良かった事だけは確かだ。


【芋虫】


「破刀あれを見て、学校の様子が何か変よ」

 風華姉さんに言われるまでもなかった。

 校舎の反対側の坂から続々と列をなして登って来る人々の群れ。

 その誰もが憔悴しきっていた。

 ぼくはそれを見ながら、

「昨日の空爆で被害を受けた市民がとなり街から、ぼくたちのいる白銀市まで避難して来たんだね」

 風華姉さんがせかすように、

「とにかく何でもいいから手助けしましょう。空爆の被害者が山のようにいるわ」

 半分は死傷者だろうけど、ぼくは口をつぐんで負傷者と死傷者の山となっている校舎へ走った。

 校庭はゴザやムシロがたくさん敷いてあった。

 その上に寝転んだ空爆の被害者がうめき声や叫び声をあげている。

 被害者の中には手足を吹き飛ばされて芋虫のようになっている人や、顔面を半ば吹き飛ばされて崩れた真っ赤なトマトみたいになっている人や、爆風で吹き飛んだガラスの破片を全身に受けて不気味なウロコを光らせるいびつな人魚みたいな人や、飛び出そうとする内臓を必死に押さえる人や、頭に包帯をグルグル巻いた少女などがいた。

 ただ、この少女は白銀学園の制服を着ている。

 最近、東京から疎開してきた少女だ。

 東京大空襲で頭に酷い怪我を受けたと聞いた事がある。

 彼女自身、負傷者のはずだが、避難してきた被害者の間を行ったり来たりして、休む間もなく忙しく立ち働いていた。

 ぼくはめまいと吐き気を覚えながらも、怪我人の間を介抱してまわる。

 すると全身に大火傷をおった十歳ほどの少女と出会う。

 包帯を巻いているが化膿した膿みと水膨れが破れ、その後ににじむ赤い血のせいで、全身が赤黒く、てらてらと光っていた。

 少女が虫の息で微かに呟く。

 ぼくは耳を寄せてなんとか少女の声を聞く。

 かろうじて、

「水」

 と聞き取る事が出来た。

 ぼくが少女に水をやろうとすると医者が水を飲ませたら死ぬから飲ませちゃいかん、という声が聞こえる。

 まだ生き残る可能性があるのだろうか? ぼくは少女に水を飲ませるのをためらった。

 すると先ほどの頭に包帯を巻いた少女が駆けつけて大火傷の少女に水を与えた。

 大火傷の少女がゴクゴクと貪るように水を飲み、そのまま息を引き取った。

 包帯の少女のやった事は正しかったのだろうか、ぼくが悩んでいると、

「この人殺しが!」

 先ほどの医者が飛んで来て包帯の少女をぶん殴った。

 ゴッという鈍い音がして地面に倒れた。

 少女が起き上がろうとすると、殴られた拍子に包帯が緩んでバラバラと包帯が落ちた。

 少女の顔があらわとなった。

 その顔には、空襲で負ったという怪我のあとは跡形もなく、神々しいまでに美しく整った掘りの深い顔が現れる。

 誰もが仰天してあとずさった。

 その金色の髪、青い瞳、白すぎる肌は、間違いなく敵国、アメリカ人と同じ物だからだ。

 あるいは欧米のどこか、だろうけど、白銀市民にその違いは分からない、白人は敵国アメリカ人だから見つけたら即座に殺せと学校の授業で先生から教わるほどなのだ。

 まして、空爆にあった市民にとっては敵以外の何者でもない。

 どこからともなく金髪の少女目がけて石つぶてが飛んでくる。

 大人の拳ぐらいの大きな石だ。

 人殺し! 

 と怒声がわき、空爆の被害者たちが遠巻きにしながら少女を囲む、石つぶての一つが少女のほほに当たる。

 うっと呻いて倒れかかるが少女は踏みとどまった。

 まるで、たった一人でも戦争をするかのように、臆した様子も見せずに市民を睨んでいた。

 さらに数発のつぶてがあたり、囲みは徐々に狭まってきている。

 少女がなぶり殺しにされるのは時間の問題だった。

 そこに鋭い威嚇する声が響く。

「おやめなさい! たった一人の女の子を相手にリンチなどして、帝国市民として恥ずかしくないのですか」

 風華姉さんだった。

 だけど、市民の勢いは止まらない。

 そう言った風華姉さんにまで石つぶてが飛んでくる。

 市民が口々に、

 親を殺された! 

 兄弟を殺された! 

 子を殺された! 

 と、怨嗟の怒号をあげる。

 風華姉さんを守るために、ぼくは二人の前に立ちふさがろうと試みる。

 すると、殺気だっていた市民の声が急に静かになる。

 よく見ると、市民の足元の間からモゾモゾと動く芋虫のような男がはい出てきた。

「この子は敵じゃない! 腕も足も失ったこの俺を! 誰もが見捨てて助けてくれなかったこの俺を助けてここまで連れて来てくれたのは、この子だけだ! この子は俺に水をくれた。食事もくれた。俺を人間らしく扱ってくれた。この子を敵だと言って殺したいのなら、その前にこの俺を殺せ! 戦争で芋虫になった俺を先に殺せ!」

 この男たけじゃなかった。

 彼女の献身的介抱を受けた怪我人が足取りは遅いが続々と集まってくる。

 その誰もが彼女は敵じゃない。

 殺すな。

 と口々に叫んでいた。

 瀕死の怪我人の必死の形相についに囲みが解けた。

 少しずつ人の群れが散っていった。

 金髪の少女は助かったのだ。

 額から血を流しながら再び怪我人の介抱に向かう金髪の少女。

 真っ先に介抱したのは芋虫のような男だった。

 その様子を遠目に見ながら、もう、誰も彼女を非難する者はいなかった。

「大変な目にあったわね。少し休みましょう破刀。もうお昼すぎよ」

 ぼくは風華姉さんの腕ににじんだ血を見ながら、

「そうするよ。風華姉さんの手当ても必要だ。先に保健室に行こう」

 風華姉さんが今頃気がついたように腕の傷をなめ、

「なめれば治るわ。帝国軍人は気合いで血を止めるのよ」

「いや風華姉さんは軍人じゃないでしょ」

「なら大和魂で」

「強がりはいいから、とりあえず赤チンで消毒するよ」

 ぼくは病院に行きたがらない子供を引きずるように風華姉さんを引きずって校舎に入った。


【素顔】


 保健室に入ると先ほどの金髪の少女が自分で頭に包帯を巻こうとしていた。

「手伝うよ」

「日本人の助けはいらない」

 にべもない返事だった。

 風華姉さんがむくれながら、

「その日本人を助けたのはあなたじゃない。困っている時はお互い様よ」

 風華姉さんが無理矢理包帯を奪い取る。

 金髪の少女が取り返そうとするが、風華姉さんが腕を見せ、

「痛たたた。私も怪我人よ」

 と訴えると、

「ご、ごめんなさい」

 金髪の少女が素直に謝った。

 病人を見ると途端に慈母のような態度に変わる。

 看護婦になったらナイチンゲール以上の働きをしそうだ。

 ともかく、その後はスムーズに手当てが終わった。

 ただ、以前のように金髪の少女が頭全体を包帯でグルグル巻きにする事は無かった。

「アタシは萌木黄蝶。あの時、助けに来てくれてありがとう」

「赤月風華よ。それと、弟の破刀。破刀もあなたを助けようとしたわ」

 ぼくは照れながら、

「本当は風華姉さんが心配だっただけだけどね」

 風華姉さんがジト目で、

「破刀、シスコンだと思われたくなかったら、そういう事は言わないほうが無難よ。早くお姉ちゃん離れしないといつまでたっても彼女が出来ないわよ」

 萌木黄蝶がマジマジとぼくを見つめ、

「あの時、アタシの足元で何かモゾモゾ動いている人がいると思ったら、勇敢な風華さんの弟さんのハトでしたか。だけど結局、何の役にも立たなかったけど、一応お礼だけは言っておきます。ありがとう、ハト」

 すごい棒読みだった。

「だけどアタシは役立たずとシスコンはマジムリなので金輪際、近づかないでください。それじゃ怪我人が待ってますから、勇敢な風華さんと役立たずのハト、アタシはこれで失礼します」

 そう言い残して萌木黄蝶は保健室を足早に立ち去った。

 ぼくは弁解するように、

「いや、何か、変な誤解をしているよ、あの子」

「萌木黄蝶よ」

「うん、いや、ともかく、ぼくはいつか必ず萌木さんの誤解を解いてみせるよ、ぼくは絶対シスコンじゃないって!」

「シスコンでいいじゃない」

 風華姉さんが不満そうにささやいた。

「え? 今、何か言った? 風華姉さん?」

 風華姉さんがちょっと焦り気味に、

「な、何も言ってないわよ! 破刀の空耳よ!」

 風華姉さんの耳たぶが少し赤くなっていたけど、風華姉さんを尊重してぼくは、

「手当ても済んだ事だし、学食に行ってお昼にしようか」

 風華姉さんも素直にうなづき、

「そうね、ランチにはいい時間だわ」

 風華姉さんの同意も得て、珍しく二人連れだって学食で昼食という事になった。

 学年が一つ違うだけでも姉弟が一緒に食事をするという事はまずない。

 災い後のほんの少しだけの幸福だった。


【空色】


「ハト君! ハト君じゃない! 偶然だね! 学食で会うなんて! お姉さんも一緒だなんて、超偶然だよ! これはもしかして運命かしらん?」

 となり街の空襲後、避難民で校庭も体育館も教室の一部もごった返している。

 ご飯を食べる余裕がないほど、みんな忙しい最中に一人黙々と旺盛な食欲を発揮している少女がいるから誰かと思いきや、

青空ひばりだった。

 もしかして、ずっとここにいたのか?

「風華姉さん、ぼくも昨日知り合ったばかりだけど、青空ひばりさんだよ。クラスは違うけどぼくと同学年なんだ、っていうか、こんな時によく食うね。みんな避難民を相手に忙しいのに」

 避難民、という言葉を聞いた途端にひばりの顔が青ざめる、

「な、何を言ってるの? ハト君、ハラが減ってはイクサは出来ないって、格言を知らないの? あたしは介護にそなえて、たくさん食べているだけだよ」

 強がるひばりに、

「いや、ただ単に現場が怖いだけでしょ。ひどい怪我人がいっぱいいるからね。まともな精神じゃいられないよ。ぼくだって最初は吐き気をもよおしたもん」

 ひばりが真っ青になり、

「は、吐き気、男の子のハト君が……あ、あたしじゃ、やっぱり介護は……」

「無理なんだね」

 ひばりがパッチリとした目を吊り上げ、

「む、無理じゃないもん!」

「血まみれの人がいっぱいいるんだよ」

 ひばりが悲鳴をあげる、

「ち、血まみれぇっ!」

「ほら無理だ。手や足を失った人もいるんだよ」

 ひばりが泣きだし、

「ウソっ! ウソウソ! ウソでしょ! ウソって言ってよ! 人間が人間にそんなひどい事出来っこないもん! ハト君のウソつき!」

 ぼくはこれ以上ひばりを追い詰めるのをやめた。

 現実はもっともっとひどいのだ。

「ごめん、ひばり。そう、ぼくはウソをついていたんだ。でも、ひばりは何で避難民に会わなかったの? 本音を聞かせてよ」

 ひばりがモジモジしながら、

「あたしは白銀寮に住んでいるの。白銀学園には、いつも裏門から通っているの。だから、あたしは、避難民は遠くからしか見てないの、だけど、な、なんとなく、その、怖くなって、ずっと隠れてたの。ひ、卑怯だよね、あたし、ハト君、あたしのこと嫌いになった?」

 ぼくは首を振る。

 これが普通の反応だ。

 あの惨状のほうこそ正気のさたじゃない。

 風華姉さんが、

「人には向き不向きがあるのよ。ホラーの苦手な人に、無理に見ろとは言わないわ」

 ひばりが胸をなでおろし、

「で、でも、あたしも何か手伝わなきゃ、その、赤チン塗ったり、バンソウコウ貼ったり」

 ぼくはあわてて、

「いや、本当に無理しなくていいから!」 

 校庭に出ようとするひばりを、ぼくは必死に止める。

 地獄絵図を彼女に見せるわけにはいかない。

 風華姉さんが、

「足手まといになるから、むしろ来ないでちょうだい。いいえ近づく事も一切禁止よ。だけど、そうね、ひばりは白銀寮で炊き出しの手伝いをしなさい。これからたくさん避難民のために食事を作らなきゃならないでしょうから」

 ひばりが不満げに、

「でも」

「デモも日本赤軍もないわ、私の言った通りにしなさい。破刀、ひばりはあなたが見張りなさい。目を離すと何をしでかすか分かったもんじゃないから」

 風華姉さんがぼくに目配せする。

 潮時、という事だろう。

 いつまでもここにはいられない。

 ぼくはひばりの手を引き、

「行こう、ひばり、白銀寮に戻ろう」

 幼い妹の手を引くような気分だった。


【夢ははてしなく】


 裏門から出るさいにひばりがつぶやいた。

「今日はすごい青空だね、どこまでも、どこまでも、青空だよ」

 丘の上に建つ校舎の裏からは、白銀連峰の絶景が満喫出来る。

 戦時でなければ心からこの絶景を楽しめただろうに。

「あ~~~っ! 忘れてた!」

 突然ひばりが叫んだので、一瞬度肝を抜かれる。

「な、何? 突然叫んだりして」

 ひばりが口をとがらせ、

「せっかくハト君のお姉さんが来てたのに言いそびれちゃったよ」

 ぼくは何の事かわからず、

「だから何のこと?」

「グライダーよ! グ・ラ・イ・ダー!」

「ああ、あの時の奴ね、良くは出来てるけど、現役パイロットの風華姉さんは相手にしないよ」

「ちっが~~~う! 模型のほうじゃないの! もっとお姉さんと関係のあるほうよ!」

 ぼくは思わず聞き返す、

「え? 風華姉さんと、何か関係がある事なの?」

 ひばりがぼくをにらみ、

「大ありだよ! ハト君のお姉さんに、あたしの作った、本物のグライダーのパイロットになって欲しいって、話なんだから!」

「戦争が終わって平和になったあとの話か、な~んだ。そういう事なら、ぼくがあとで話しておくよ」

 ひばりがかみつく、

「今でしょ! 今の話よ! 今、現在よ! 今日から作るのよ!」

 一瞬ぼくは目が点になる。

「待って待って模型じゃなくて本物のグライダーを?」

「そうだよ! 本物のグライダーに決まってるじゃない! 模型じゃないよ! 本物だよ! 模型にハト君のお姉さんが乗れるわけないでしょ!」

「戦争中の今?」

「そうよ! そうに決まってるじゃない! 戦争が何だって言うのよ! あたしの夢ははてしないのよ!」

 再びぼくの目が点になる。

 とりあえず、ひばりのオデコに手のひらを当てて熱を計ってみた。

「あたし病気じゃないよ! 本気だよ! 本気と書いてマジだよ!」

「いやもう、いっぱいいっぱいです」

 昨夜の空襲といい、難民が押し寄せた件といい、萌木黄蝶リンチ未遂事件といい、もう、ぼくのキャパシティをとっくに超えている。

 だから、

「マジで無理」

「無理じゃないもん!」

「材料はどうするんだ?」

「何とか集める!」

「グライダーの骨格は、飛行機の骨格は普通鉄だぞ、戦争に持っていかれて一番不足している鉄だぞ」

「大丈夫! 木材で代用するから!」

「木材で代用するとしても、翼の作成は熟練した職人でなきゃ無理だぞ。どうやって木材をあんな風に滑らかなカーブに加工するんだ?」

「こ、根性で!」

 ぼくはあきれ果てた。

「ひばりの回答は全部無理って言ってるようなものだよ。そもそも、そんな物を飛ばしたら非国民だ何だと疑われて特高警察に治安維持法違犯で捕まって拷問されて殺されるよ。今まで特高警察に捕まって生きて帰った奴はいないんだからな」

 治安維持法とは治安維持の名目で誰でも逮捕出来る軍事独裁政権にとって鬼に金棒、伝家の宝刀、ゲームのバランスブレイカーなみに強力無比な悪法だ。

 現代だと共謀罪がこれに当たる。

 この法律で戦争に反対する人を次々に逮捕、牢屋へ送り込み拷問して獄死させている。

 特高警察とは、その治安維持法の行使者であり、銭湯で戦争反対を唱えた者まで逮捕したという逸話があるほど悪名高い日本の警察組織である。

 無論、逮捕した人間を尋問目的で拷問し殺害するのも特高警察の仕事で……それはともかく、ひばりは食い下がった。

 急に空を見上げて天を指差す。

 背はぼくより遥かに低いのに、その時のひばりはとても大きく見えた。

 澄んだ瞳でぼくに訴えかける、それは頼みでも、願いでも、命令でもない、しいて言えば、祈りに似ていた。

 ひばりの小さな唇が微かに動く。

「この空は誰の物でもないんだよ、ハト君。そして、空には命を賭けるだけの価値があるんだよ」

「いや、そんな物はないね。世界は制空権を巡って今日も争い続けている。空で命を賭けているのは戦闘機のエースパイロットたちだけさ」

 ぼくとひばりの瞳が激しくぶつかる。

 ひばりの瞳はどこまでも澄んでいた。

 祈りを通りこして、予言者めいた事を口にする。

「ハト君、ハト君のお姉さん、そして、あたし、三人が出会ったのは偶然じゃない。飛びましょう、一緒に、あたしが必ず、みんなを空に連れていってあげるわ」

 一瞬、ぼくはひばりの言葉に心が揺れた。

 本当にひばりはぼくたちを空へ連れて行ってくれる。

 そんな気持ちになってしまった。

 昨日までのぼくなら、あっさり話に乗ったかもしれない。

 だけど、ぼくは現実を知ってしまった。

 空襲で死んでいく無残な人々の姿を目の当たりにしてしまった。

 もうアメリカ軍はすぐ目と鼻の先まで迫っているのだ。

 日本はいつ負けてもおかしくないのだ。

 日本人全員が絞首刑になってもおかしくないのだ。

 良くてせいぜいアメリカの奴隷となるか植民地になるしかないのだ。

 アメリカ軍に支配されたら日本語を話す事も出来ないかもしれないのだ。

 もうグライダーなどと与太話に付き合う余裕はぼくにはなかった。

「綺麗事で戦争が終わるのか!? いずれこの国は空も海も大地も、そこに住む人も全部アメリカの物になるんだ!」

 ぼくはそう吐き捨てて逃げるようにひばりの元を去った。

 ごめんひばり。

 ぼくは君の力にはなれない。

 無理なんだ。


【亀】


 風華姉さんは相変わらず飄々とした表情で怪我人の世話をしている。

 昨日までの鬱々とした雰囲気は見る影もない。

「戻ったの玻刀、ボヤボヤしている暇はないわよ。校舎の教室の整理がすんだから、怪我人を、特にひどい人から教室に運ぶわよ」

 ぼくは疑問を口にする。

「担架もないのに?」

「ないなら作ればいいじゃないの。教室に入りきらない人たちのためにテントも作らなきゃいけないのよ」

「でも材料は?」

「緑亀邸に行けばいくらでもあるわよ」

「って言っても、あそこは竹林ぐらいしかないよね山に沿って続いている」

「だからその竹を材料にするのよ。早く緑亀邸に行って譲ってもらって来なさい。大八車いっぱいにもらってくるのよ」

 風華姉さんにゲキを飛ばされ、ぼくはやむなく緑亀邸へ向かう羽目となる。

 ともかく、山に沿って歩いていると数メートル後ろから、テクテクと足音が聞こえてくる。

 もしかして特高警察か? と思ってうしろを振り返ると、誰もいない。確かに足音と人の気配を感じたのに、おかしい? と思いながらも、ぼくはさらに寂しい山道を先に進む。

 すると、またもやテクテクという足音が聞こえ、ぼくはとっさに、今度こそと思いつつ、ややフェイント気味にうしろを振り向く。

 が、やはり誰もいない。

 仕方がないのでうしろを見ないでうしろを見る事にする。

 つまり、鏡を使う事にする。

 ぼくの時計はロレックス製で裏面が鏡のように磨き抜かれている。

 再びテクテクと近づく足音に合わせて、ぼくは時計を腕から外しネジを巻くフリをしながら時計に映った背後を見る。

 萌木黄蝶がいた。

「萌木黄蝶さん。何コソコソしているの?」

「ズルい」

「いや、ズルくないよ。ずっとストーカーされている、ぼくの身にもなってよ」

「男の子はアタシの事をガイジンと言ってイジメるから嫌い」

「だから隠れていたの?」

 コクコクと首を縱に振る萌木黄蝶。

「ぼくはイシメないから大丈夫だよ」

「信用出来ない」

 萌木黄蝶のにべもない返事に、

「あっそ、それじゃ一生隠れてれば!」

「そうする」

 でも背後で姿も見えず、ひたすらテクテク、テクテク音を出されるのはかなりしんどい。

「ところで萌木さんはどこにいくのかな?」

 あまりに鬱陶しいのでとりあえず聞いてみた。

 萌木黄蝶が、

「緑亀邸」

「えっ! ウソ、ぼくと一緒だよ。ぼくも緑亀邸に行くんだよ。場所を知ってるなら案内してよ」

 萌木黄蝶が不服そうに、

「知ってるけど案内しない」

「うん、多分そう言うと思ったよ。案内するまでもないよね。この道を真っ直ぐ進めばいいんだから。って思ってるでしょ」

 少しドギマギした様子で、

「ど、読心術?」

「ううん当てずっぽう」

「チッ!!」

 萌木黄蝶が吐き捨てるよに言い放つとその後、静かになった。

 以後、テクテク音に混じって殺意のような気配を発し始める。

「ぼくは緑亀邸の竹が目的なんだけど、萌木さんは何が目的なの」

 相手の姿が見えないので、まるで一人言をしている気分だ。

 やや間があったのち、

「緑亀美神お嬢様に会うために行く」

 初耳だった。

 爺さんが一人、住んでいるという噂は聞いた事があるけど、

「緑亀邸にそんな娘さんがいるなんて話は聞いた事がないな」

 萌木黄蝶がフフンとしたり顔で、

「アタシと一緒に疎開してきた娘さんだ。親兄弟は東京大空襲で亡くなっている。近所の人から一緒に疎開するようアタシが頼まれた。美神お嬢様は今はおじい様と一緒に二人暮らしをしている。おじい様だけでは心もとないから、たまにアタシがお世話をしに行く。それ以外の日はメイドさんが相手をしている」

 ぼくは不思議に思い、それを口にする、

「何で学校に来ないのかな? 病気かな?」

 萌木黄蝶が渋々といった調子で、

「本来なら小学校に通わなきゃならない。美神お嬢様はおん年十二歳、いたって健康なお身体なのだから。だけど」

「だけど?」

 萌木黄蝶が一瞬言おうか、言うまいか、迷って青い瞳を泳がせる。

 山の中にしばらく足音だけが響いたあと、

「美神お嬢様の心は固く閉ざされている。何も見ず、何も聞かず、何もおっしゃらない。ご両親、ご兄弟を失ったショックだ、と医者は言っている。肉体的には何の異常もない、あくまで精神的な病で、医者もサジをなげている」

 そんな事があるのだろうか? それとも、それほどひどいショックを受けたという事か。

「萌木さんは美神ちゃんの閉ざされた心を開こうと必死なわけだ」

 萌木黄蝶が凛とした表情で、

「美神お嬢様を見れば誰でもそう思わずにはいられない」

「そうなんだ。あ、竹林が見えてきたよ」


【恋心】


「せっかくの竹林なのに、半分ぐらいは伐採されているね」

 山の頂き、左側に緑亀邸の広大な屋敷の一角が見える。

 右側が竹林である。

 その竹林の山頂付近から海のあたりにかけて、掘り返された地面が剥き出しになっている。

 萌木黄蝶が、

「緑亀邸の奥に湖が広がっている。その湖の水をいざという時に使えないか? と自治体が考えて、山から海まで配管を取り付ける予定だった」

「空襲を受けた時の消火用かな。それが何で、って、軍に持っていかれたって、事だよね」

 萌木黄蝶が首肯し、

「配管を取り付ける段になって全部、軍に持っていかれたそうだ」

 ぼくが悲しげに、

「武器を作るための材料か、資源の無い国は悲しいね。白銀連峰には鉄の鉱脈が眠っている。だけど、製鉄するだけの燃料もない」

 ぼくは海を見下ろす。

 ざわめく竹藪、山の緑、青い海、空は光り輝き、ここから見える景色はまさに絶景だ。

 萌木黄蝶が淡々と、

「結局、自治体は計画を放棄して、この中途半端な有り様となった」

 ぼくは気持ちを切り替える、

「まあいいや、ぼくは、ぼくが必要なだけの竹がもらえれば、それでいいから」

 萌木黄蝶が少し不満げに、

「一度伐採して陽が差すと、そこから竹が枯れていく」

「人間の都合で自然が破壊されるのは、いつもの事だし、計画自体はみんなのためだから仕方がないよ」

「アタシはハトみたいには割り切れない」 

 まるで青い炎のように瞳が輝く。

 鬼火みたいだ。

「萌木さんがマジメなのはよく分かったよ」

 ぼくとは違う人種だ。

 萌木黄蝶がふいに瞳をそらし、

「黄蝶でいい。ハトとは同学年だ」

「えっ! そうなの! てっきり風華姉さんと同じ年かと思ってたよ。背も高いし落ち着いているから、その、萌木さんは」

「黄蝶だ。同学年なんだから黄蝶と呼べ」

 どう見ても年上にしか見えない。

 百歩ゆずって、

「き、黄蝶さん」

「黄蝶」

「なんか呼びづらいね」

「ひばりはひばりと呼んでいる」

 ぼくは驚きながら、

「どこで見てたの? ひばりとは昨日知り合ったばかりで」

 萌木黄蝶がとても不機嫌にボソボソ呟く。

「学食を通りかかったら、お前が青空ひばりと親しげに話しているのを廊下から息を潜めてこっそりのぞいていた。何だかムカつくからアタシも黄蝶でいい」

「ひばりに何かウラミでも?」

「いや、特にない。しいて言えば、あの世間の事など何も知らないフリをしながら、あのロリ顔と幼女体型でまず手始めに妹的ポジションをゲットし、スキあらばウブなフリをしつつ男に近づき、あまつさえ口に出来ないような特別な関係に持ち込もうとする、邪悪で狡猾な手口、あの女狐なら一晩で男という男はみな全て瀧落してしまうだろう。つまり、アタシはひばりは、なめんなよこのブリッコがーっ! というぐらい信用出来ない。と、せいぜいこの程度だけ言いたいだけだ」

 めっちゃ嫌っとる。

「昨日、ぼくがひばりを寮に送るまでついて来てた?」

 萌木黄蝶がそしらぬフリで、

「はて? 何の事やら? ともかく、アタシの事は黄蝶と名前で呼ぶように。それとも何か、君はああいう胸の薄いツルペタな、いわゆる貧乳ロりが好きでアタシのような巨乳は嫌いだ。と、つまり自らロリコンである事を認めてひばりとの禁断のロリコン愛にひたりたい。と、そう言う事かねハト」

 ぼくは降参した。

「分かったよ、ぼくの事をハトって呼ぶんだから、ぼくも萌木さんの事は」

「うむアタシの事は」

「その、き、黄蝶って呼ぶよ」

「うむ、これでアタシが一歩リードしたな」

 え? 同じスタートラインについたって事じゃないの?

「その、何をリードしたか分からないけど、黄蝶がそれで満足なら、とりあえずそれでいいや」

 朝から災難続きの黄蝶が少しだけ嬉しそうだった。


【まっすぐな心で】


 緑亀銀蔵という名前からしてもっと年老いた和装の老人を想像していたのだが、実際はぼくの予想をはるかに超えるぐらい若く見えた。

 背は高い、ぼくより頭一個ぶんぐらい高い。

 引き締まった身体にオーダーメイドのスーツがよく似合っている。

 オールバックの髪に白い物がかなり混じっているのと日焼けした小麦色の肌が、かつての張りを失っている以外は七十近い老人にはとても見えなかった。

 せいぜい五十代半ばぐらいにしか見えない。

 アンチエイジングでもしているのだろうか? それはともかく、この緑亀銀蔵こそが、この白銀市の実質的ボスである。

 日本国内においても財閥として認知されている超金持ちの一人である。

 屋敷の門をくぐった途端に数十人のメイドに歓待され迷子になりそうなぐらい広い敷地を歩きまわり、広大な大広間でようやくお目通しがかなった頃には優に一時間はたっていた。

 緑亀銀蔵がダンディズムの塊のような仕草で煙草を一服すると、

「やあ、黄蝶譲、今日も美神の事は頼んだよ。娘も黄蝶譲が来る事を楽しみにしているようだからね」

 萌木黄蝶がうやうやしく、

「美神お嬢様の容体が改善されたのでしょうか」

 銀蔵が眉間にシワをよせ、

「いや、残念ながら全く変化なしだよ。相変わらず亀のように心の殻を破れないでいるようだね、我が最愛の娘、美神は」

 萌木黄蝶が疑問を口にする、

「ではなぜ美神お嬢様が楽しみにしているとお分かりになったのですか」

 銀蔵がフッと苦み走った微苦笑を浮かべ、

「そうだな、しいて言えば勘というやつかな」

 萌木黄蝶が肩透かしを食らったように、

「カンですか」

 銀蔵が今度は普通に笑い、

「新しい人類が現れたら、もっと適切な言葉が見つかるのだろうがね。今はカンとしか言いようがないよ」

 銀蔵がぼくをチラリと見て、

「そのボーヤは何の用で来たのかな、黄蝶譲」

 ぼくはようやく銀蔵との交渉に入った。

「昨夜の空襲については」

 銀蔵がぼくの話をさえぎり、

「その話は聞いている。となり街から相当な数の空襲被害者が白銀市へ押し寄せて来ていると言うのだろう。そうそう、避難民を白銀学園が受け入れているという情報もつかんでいるよ」

 ぼくはここぞとばかりにたたみかける。

「彼らを運ぶための担架。学園の設備だけでは足りないので仮設テントも作る必要があるんです。そのために緑亀邸の竹林の竹を譲って欲しいんです」

 銀蔵が冷え冷えとした口調で、

「ほう、それでボーヤはいくら出すというのかね」

 ぼくは面食らった、

「え? お、お金ですか?」

 銀蔵がしたり顔で、

「当然だよ。人様の敷地の大切な竹を持っていこうというのだよ。それ相応の対価が必要だとは思わないのかね?」

 ぼくは突然、要求をつきつけられ、

「お、お金はありません」

 としか言えなかった。

 銀蔵がぼくをにらみ、

「タダで持っていこうというのかね? ボーヤ?」

 ぼくは必死に反論を試みる。

「で、でも、みんなが困っているんですよ。身動き出来ない人を動かすには担架が必要なんです」

 銀蔵はビクとも動じない。

 どこ吹く風といった調子で、

「それはボーヤの勝手な都合だな。ムシが良すぎるとは思わないのかね? 私の立場からしてみれば、何の関係も無い人間が、突然、急にやって来て、タダで竹を欲しいという。確かにわたしは金持ちだ。金は腐るほどある。だが、もしも、わたしがボーヤにハイハイ分かりました。どうぞ好きなだけウチの竹を持っていって勝手に自由に使ってください。などと言おうものなら、あの金持ちはいいカモだ。いい金ヅルだ。困ったフリえすればなんでもしてくれるぞ、と世間から軽く見られる。ナメられるというやつだ。わたしのメンツも立場も台無しになる。そして君自身にも自覚してもらいたい。そういった申し出が簡単に通ると思ったなら、君はこのわたし緑亀銀蔵を、ただの老いぼれと思ってナメていた、という事にる」

 ぼくは慌てて否定する。

「な、ナメてなどいません。ただ、今は戦争中で、みんな傷ついていて、だから、みんなが力を合わせなくちゃいけない時で」

「戦争中なら力を合わせるために何でもやっていいのかね。ならば、わたしの許可など求めず、勝手にウチの竹を持っていきたまえ、お代を払う必要はない、君を訴えるつもりもない。なにしろ、みんなで力を合わせなくちゃならんのだからね」

「それじゃドロボーです」

「罪には問われないと言ったはずだ」

「それじゃ、ぼく自身が納得出来ません」

「わがままなお客さんさんだな。おいメイドたち、このボーヤを玄関まで案内しなさい!」

 ぼくは数十人のメイドたちに取り囲まれた。

 交渉に失敗したのだ。

 すると萌木黄蝶が、

「お待ちください銀蔵様。ハトにあと五分、いえ、三分だけ時間をください。きっと納得の得られる回答をすると思います。どうかお願いします。ハトの話を今一度だけ聞いてあげてください。この通りです」

 萌木黄蝶が土下座した。

 銀蔵が不快げに、

「頭を上げたまえ黄蝶譲、わたしはお涙頂戴物が大嫌いな性格だという事は黄蝶譲も知っているはずだろう。論理と実践、これだけが世界を変えるかなめとなるのだよ。世界に根性論やお涙頂戴といったマヤカシは一切通じない」

 萌木黄蝶が立ち上がり、

「失礼しました」

「黄蝶譲に免じてあと三分だけ猶予をやろう。さあ、わたしを納得させるだけの説明をしてみたまえ、ボーヤ」

 三分、たった三分しかない。

 この豪胆な老人を三分で納得させなければいけない。

 だけど、黄蝶がつないでくれた貴重な、そして、最後のチャンスだ。

 ぼくに何が出来る? 分からない。だけど、黄蝶が土下座してまでつかんでくれたこのチャンスを、ぼくは決して無駄にしない。

 メイドがぼくを解放した。

 ぼくは再び緑亀銀蔵と対峙した。

 黄蝶が不安そうにぼくを見つめる。

 ぼくは一歩銀蔵に踏み出す。

 少しだけ緑亀銀蔵に近づいて見て今まで気づかなかった事に気づく。

 その額や目尻には、実は深いシワが刻まれていて、彼が見た目ほどに若くない事に。

 見た目はともかく、中身は七十近い老人なのだ。

 こう考えた瞬間、おのずとぼくの中にある答えが浮かんだ。

 この回答が正答とは限らない。

 この老人が話に乗ってくるか分からない。

 だけど、ぼくには他に選択肢がなかった。

 駄目で元々、当たって砕けるしかない。

 そう心に決めた。

「あと二分だよ、ボーヤ。ギブアップするかね」

 ぼくはさらに一歩、銀蔵に近づき、

「いえ、あなたの言っている事は全て正しいと思います。あなたは、この白銀では王です。でも、実際には、この王国を維持するために、他の財閥、政治家、官僚を相手に、ギリギリの水際の取り引きを何度も、何度も経験してきたのでしょう」

 銀蔵がぼくを見据え、

「なぜ、そう言えるのかね。君はわたしの人生を見てきたわけじゃない」

 ぼくは声のトーンを落とし、

「失礼ながら、あなたの額や目尻に刻まれた深いシワからそう判断しました。顔はその人の生きざまその物である。昔、誰かから、そんな話を聞いた事があるんです」

 銀蔵が少しだけくだけた調子で、

「つまりボーヤの想像という事だね。まあ、当たらずも遠からず、という所だが、それとも、わたしが老けているとでも言いたいのかね? これでもまだ若いつもりなのだがな」

 ぼくは慌てて、

「ふ、老けてるなんてそんな、十分にお若いと思います」

「君たちほどではないがね」

「ええ、それで、その、相談があります。ですから、ぜひ、それを、買ってもらえないでしょうか?」

 ぼくの突然の申し出に銀蔵が、

「話が飛ぶな、わたしに何を買えと言うのかね、ボーヤ?」

「つまり、その、ぼくたちの若さです」

 銀蔵が苦笑し、

「若返る事が出来るとでもいうのかね?」

「ええと、違います! そうじゃなくて、その」

 ぼくが言葉に詰まっていると黄蝶が助け船を出す。

「銀蔵様、ハトが言いたいのは、つまり、若さゆえの過ち、じゃなくて、一言で言うと、そう! 将来性! 将来性を買ってくれ、という事ではないでしょうか!」

 ビンゴ! それが言いたかったんだ。

「あの竹の対価として、ぼくはぼくの将来性をあなたに売りたいと思います」

「それでは足りないな」

 ガーーーン! やっぱり交渉決裂?

「いや、答えとしては正解だ。短い時間で、よくその答えにたどり着いた、とほめてやりたい。ただ言葉が少し足りないだけだ。ぼくの将来、ではなく、ぼくたち、の将来だろう。君たちと君たちによって救われる全ての人たちの将来全部だ!」

「そ、そそ、それじゃ、その竹は」

「全部持っていって構わない。わたしはみんなの将来性を高く買っているのだからね」

 交渉成立だ!

「あ、ありがとうございます!」

 銀蔵が初めて自然な笑みを浮かべ、

「イジめるつもりはなかったのだが、つい試してみたくなったのさ。今の若い人というものをね。君は日本軍より優秀だよ。彼らは軍事徴用と書かれた紙切れ一枚をつきつけ、竹林横に設置したばかりの配管を全部、根こそぎ持っていったのだから。君は、そんな事を平気で行う軍隊がアメリカに勝てると思うかね?」 

 ぼくが戸惑っていると、

「今、言った事は聞かなかった事にしてくれよ。特高警察に捕まっちゃかなわないからな」

 そう言ってニヤリと不敵に銀蔵は笑った。


【愛する人】


 始めは人形かと思った。

 精巧に精緻に、限り無く人間を模倣した、魂の無い、作り物の人形だとばかり思った。

 それほど、彼女は何の反応も、表情を示さなかった。

 それに、この白銀色の髪は? 何だ?

「東京大空襲の焼け野原で出会った時には、もう真っ白だった。以前は夜の闇のように黒い髪だったのに。人間はあまりにも恐ろしい出来事にあうと、ショックで髪の色素が全部抜けるって昔、聞いた事がある」

 黄蝶が説明を続ける、

「まるで人形みたいでしょう。でも今はまだマシなほう。以前は食事どころか飲む事さえしなかった。本当にやせ細って骨と皮だけになって、だから、アタシは無理にでも食べさせて、とにかく食べさせて、それでやっと、見た目は普通に戻った」

「いや、普通以上だよ。白というよりプラチナに近い髪の色といい、高価な磁器みたいに滑らかな白い肌といい、小さいながらも形の整った手足といい、純白の着物を着ているから、余計に人形みたいに見えるけど、見た目の美しさは人間以上だよ! いや、彼女は人間だけどさ」

 黄蝶が肩をすくめ、

「言いたい事は分からなくもない。ともかく、ハトも美神お嬢様が心を取り戻すのを手伝ってくれ」

「ぼくは、今日は竹を取りにきただけなんだけど」

 黄蝶がジト目で、

「アタシがチャンスを作った」

「それを言われると断れないな。って言っても、どうすればいいのやら、ぼくは精神科の先生じゃないんだよ。雲をつかむような話だよね」

 黄蝶が美神のほうを向き、

「まったく反応が無いわけじゃない。これは、まだ、銀蔵様にも話していない事だけど、なぜなら、ヌカ喜びさせたくないからだ。美神お嬢様の容体が良くなったと報告して、でも、実は大して変わり映えしなかった。なんて事になったらガッカリするだろう。だから、アタシは確信が持てるまで、明らかに良くなっている。という兆候が現れない限りはおおやけにしないつもりだ」

 ぼくは納得し、

「ま、それがいいよね。ぼくたち医者じゃないし、それで、少しは反応があるって事だよね。いったい何に反応してるの」

「外に出よう、そこから竹林が見渡せるだろう」

 黄蝶が緑亀美神を籐椅子から車イスに乗り替えさせる。

 豪奢な日本庭園を抜けると、なるほど見晴らしのいい高台に出た。

 そこからは山頂の竹林から海まで見渡せる絶好の場所だった。

「まあ、絶景には違いないけど、ミーちゃんの心を開くような物は見当たらないね」

 黄蝶がジト目で、

「ミーちゃん?」

「美神ちゃんだから略してミーちゃん」

「アタシは?」

「黄蝶」

 黄蝶がしばし沈黙、ぼくは付け加えた。

「キーちゃんて呼ぼうか?」

 一瞬顔を真っ赤にしたあと、

「バカにするな!」

 と、黄蝶に一喝される。

 まんざらでもないと思ったのだが。

 女心は分からん。

「それで、何が彼女の心を動かしたのかな?」

「待て、そろそろだ、いつも今頃、夕方の今頃に飛んでくる」

「え? 飛んでくるって? まさか」

「あれだ! 来たぞ! あの白い奴!」


【仲なおり】


 山頂から勢いよく飛び出した真っ白いグライダーは夕方の海風に乗って、高く高く茜色の空に舞い上がる。

 ミーちゃんを見ると、先ほどまでの人形じみた表情とは打って変わり、生き生きとした表情で空に吸い込まれていく白い軌跡を追っている。

 山からの横風を受け急旋回するグライダー、この辺りは気流の乱れがひどい、時にフラフラと今にも墜落しそうになるが、そんな時はミーちゃんも不安そうにハラハラしながら見守る。

 が、海に近づくに連れ飛行が安定してくるとホッとしたような表情に変わる。

 やがてグライダーが白い点となり遠ざかって見えなくなると、ミーちゃんの表情は再び元の無表情に戻ってしまった。

 逆にぼくは興奮していた。

 心が張り裂けんばかりに興奮していた。

 黄蝶がしたり顔で、

「アタシの言った通りだろう、あの飛行機を見ている時だけ、なぜか美神お嬢様の心が戻るのだ」

 ぼくは上の空で、

「うん、うん、そ、それもそうだけど、それだけじゃないよ。ここには、全てがそろっているんだよ、黄蝶」

 黄蝶が胡論げに、

「なにがそろっているというのだ?」

 ぼくは興奮しながら、

「全部だよ、何もかもだよ、空を飛ぶために必要な物がグライダーに必要な物が全部そろっているじゃないか! 竹はグライダーの骨格にも翼のフレームにもなる、むき出しの地面は飛ぶまでに必要なだけの十分な滑走路になる。装甲は紙でも布でも何でもいい、飛ぶことさえ出来ればいいんだから!」

 ぼくは走り出した。

 すでにひばりはグライダーを追って海に走ってきている。

 ひばりに謝らなくちゃいけない、やはり、ぼくらが出会ったのは偶然でも何でもない! 奇跡なのだと! 運命だったっけ? まあどっちでもいいや、とにかく、ぼくらはグライダーを作るんだ!


【サクラサク】


「だから最初に言ったよね。あたしとハト君が出会ったのは」

「ちょっと待ったあああーーーっ!」

 俺とひばりの間に猛スピードで割り込んできたのは黄蝶だった。

 車イスに乗っていたミーちゃんは目を回していた。

 ぼくは黄蝶をたしなめた。

「車イスの女の子をこんな修羅場に連れてくるなよ。いや言いたい事は分かるよ。分かるつもりだよ。ただ、ぼくとひばりはただの知り合いで、たまたまグライダー作りで一致協力出来るという。お互いのメリットもあるという、ただそれだけの関係だから、もしぼくがロリコンだったらミーちゃんも危ないでしょ」

 黄蝶が瞳をカッと見開き、

「君は女というものを知らないからそんな事が言えるのだ。昼は聖女のように、夜は娼婦のように、それが女だ! 君をひばりの毒牙にかけるわけにはいかない!」

 ひばりが目じりをカッ! と吊り上げ、

「ちょっとひどくない!? 初対面の女の子相手に! まるで毒婦みたいなこの言いよう! 本当ありえないよーっ!」

 まずいよまずいよ、ひばりもヒートアップしてきたよ。

 ぼくはどうすればいいんだ? 頼みのツナはミーちゃんだけだ!

「お、お前たち、ミーちゃんみたいな女の子の前で、け、喧嘩はよせ! 教育上よくないだろう! いくら心を閉ざしているとは言え。意外とちゃんと見てて、聞いてるもんだぞ! さっきだってひばりのグライダーをジッと見てたんだから!」

 ひばりが小さな胸を張り、

「ふふん! あたしのグライダーは子供の心にも響く物があるのよ! チチがデカイだけじゃだめなのよ!」

 黄蝶が怒髪天の勢いで、

「ききき、貴様! 言ってはならない一言を言ったな! セクハラで訴えてやる」

 ひばりがシレっと、

「同性だからセクハラにはなりません」

「ならば名誉毀損だ! 人の身体的特徴をバカにするなんて、ゆゆゆ、許されんぞ!」

「チチがデカイって言っただけじゃない!バカにしてないよ、むしろうらやましいぐらいだよ!」

 黄蝶が苦虫をかみつぶしたような顔つきで、

「くっ、ああ言えばこう言う、なんて悪知恵のまわる女だ。こういう女に男はだまされるのだ。こういう女と付き合っちゃいかん! 緑亀邸に戻るぞハト!」

 ひばりが慌ててぼくを呼び止める。

「何を言ってるの、ハト君はこれからあたしとグライダー作りの打ち合わせだよ! そうだよねハト君!」

 ぼくは迷いに迷った。

「え、ええと、その」

 二人がずいっと迫った。

「「どっち!?」」

 ぼくは答えに窮した。

 あちらを立てれば、こちらが立たず。

 もはや救いは無い、と思われたその時、メシアが現れた。

「何をしているの破刀、遅いから心配になって来てみれば、竹はどうしたの? 竹は! バンブーはまだなの!? 怪我人が待っているのよ! 早くしなさい! もっと気を引き締めなさい! それでも帝国市民ですか! 姉さんの面子をつぶす気? 仕方ないわね、まったく、私も緑亀邸にあいさつに行くわ! 黄蝶!」

「は! はい!」

「それに、ひばり!」

「はあい」

「あなたたち二人にも手伝ってもらうわよ。一緒に来てちょうだい」

「「はいっ!」」

 有無を言わさぬ命令に唱和するように答える黄蝶とひばり、今日ほど風華姉さんの偉大さを思い知った事はなかった。

 グライダーの件は姉さんにはまだ隠しておくけど。


【時代の風】


「やあボーヤ、いや、ハト君か、さっきの竹の件ならウチのメイド隊、いや、メイドたちが伐採して白銀学園へもう運んでいる頃だよ。ところで君たち食事はすんだのかね? よかったらウチで食べていきなさい。なに、遠慮はいらないよ。これも投資のうちさ、わたしは君たちを高くかっているのだからね。そう、予感がするのだよ、予感が。君たちならきっと何かを起こすという予感がね」

 風華姉さんが一同を代表して答える。

「はあ、ではお言葉に甘えてご相伴に預からせて頂きます」

 緑亀邸の夕飯を堪能したあと話はミーちゃんの事に移った。

 ぼくは黄蝶に提案する。

「ミーちゃんが飛行機に関心があることを銀蔵さんに話しておいたほうがいいんじゃないの? 一度や二度じゃないんでしょ」

 黄蝶は消極的だ。

「本当に反応があったのか、たまたまじゃないのか? アタシには自信がない」

「じゃあぼくが話すよ。間違っても悪いのはぼくだ。黄蝶じゃない」

 黄蝶がもうしわけなさそうに、

「待て、それでは君に何のメリットもないじゃないか」

 ぼくは肩を落とし、

「傷つくな~、ぼくが損得だけで言ってると思ってるの? 損得なんてとっくに超えた関係だと思っていたのにな~。ぼくだけの勘違いかな?」

 黄蝶が不審げに、

「何? いったい何の事だ? 何を言っている?」

「二人は友達ってこと。ぼくに任せといてよ」

 青い瞳が揺れていた。

 唇はだらしなく開いてポカンとしている。

 徐々に黄蝶の焦点が合ってくる。が、

「銀蔵さん。話があります、お嬢さんの美神ちゃんの事です」

 煙草をくわえようとしていた指先が止まり、ぼくを見やる。

「美神が、どうかしたのかね? ハト君」

「美神ちゃんは全くの無反応では無いんです。今日の夕方、飛行機が飛んでいるのを熱心に見ていました。飛行機といっても模型のグライダーですが。とにかく身体をいくぶん動かして、身を乗り出すようにしていましたから間違いありません」

 銀蔵が煙草を置いて腕を組む。

「それが本当なら大きな進歩だよ。世界中の医者がこの子を見放しているのだからね。どの医者も身体に異常はないの一点張りでね、あとは心の問題だと言ってサジを投げている、当初は食事すら摂らないで餓死寸前だったものだよ。それが、黄蝶嬢の献身的努力のおかげで食事を取る事が出来るようになり、今に至っているのだが、さらに人間的反応が見られるとは、事実ならこんなに喜ばしい事はない。君たちへの投資は、この一事だけでも充分に報われたと言っていい。そう言えば、今日は普段より食が進んでいるような気がするし。無表情の中にも、どことなく楽しそうな雰囲気があるな、と、なんとなく感じていたのだ」

 ここでプカリと煙草をくゆらし緑亀銀蔵は話を続ける。

「なぜ美神が飛行機に興味を持つのか、それは、そう、あれは五年前の事だったね。当時、わたしは空に大変な興味を抱いていてね、ドイツまで行って戦闘機を一機購入して、操縦に必要な簡単な手ほどきを受けたあと、空路で日本まで帰ってきた事があるのだよ。戦闘機といっても中古のオンボロだから、よく墜落しかけた物だよ。いや、あれは失速というのかな、目の前に山の尾根や崖が迫るたびにブレーキをかけるのだが、自動車と違って飛行機はブレーキを掛けすぎると失速して落ちてしまうのだよね。途中、ロシア軍の戦闘機と交戦したりタクラマカラン砂漠に不時着したりと艱難辛苦を乗り超えたわけだが、辛い思い出ばかりではないよ、空はいい、どこまでも広がる広大無辺な空、レシプロ機の限界高度八千メートルから、まるく円を描く地平線を見下ろした時は飛ぶという事はこういう事かと、それは深く感動したものだよ。ヒマラヤ越えも悪天候に見舞われたが越えたあとの朝日は目にしみたね。今日も生き延びたという確かな実感があったよ。それにロシア戦闘機とのドッグファイトには心踊った物だよ。なにしろ相手はピカピカの最新鋭の二機編隊、わたしはオンボロの中古の戦闘機なのだからね。ただ、その戦闘機は複座式で後部座席に後方機銃座があったおかげで右、左とゆっくり旋回しなが後方に敵機を引き付けたあと、後方銃座で一気に叩くという戦法を取ったため、彼らも面食らったんだろうね。一機は運良く撃破、一機は被弾して逃げていったよ。その時の複座席で後方機銃を握っていた美神の得意そうな顔といったらなかったね。親バカかもしれないが、将来は赤月風華以上のエースパイロットかガンナーになるんじゃないかと密かに思ったものさ」

「いや七歳の女の子に後方機銃掃射させちゃアカンですよ」

「まあ、それはともかく、その時の楽しい記憶が今も美神の心の奥底に眠っているという事だろうね」

「感動すべき所なんでしょうけど後方機銃掃射の件がノドに引っ掛かった魚の骨みたいに気になって、素直に感動出来ませんね」

 ひばりが快活に、

「な~んだ、だったら答えは簡単じゃない。見てるだけでも反応するんだから、五年前のように実際に乗れば確実に回復するんじゃないかしら」

 一理ある。

「その後、中古の戦闘機はどうなったんですか?」

 銀蔵さんが渋い顔つきで、

「軍に徴収されたな。もう戻ってこないだろう」

 ひばりが突然立ち上がり、

「なければ作ればいいんです!」

 銀蔵が仰天する。

「戦闘機を? かね?」

 ひばりが笑いながら手を振り、

「いえ、そんな凄い物じゃなくて、その、グライダーです。ささやかですけど、グライダーなら空が飛べます。きっとミーちゃんの心も解放されるはずです。いえ解放してみせます! 今、あたしたちにはその計画があるんです。ここにはその計画を実行するための全ての材料がそろっているんです! 銀蔵さん! あたしたちに協力してください、きっと、いえ、絶対成功してみせます!」

 ある程度成功のメドが立つまで、風華姉さんには伏せておきたかったけど、ひばりが公言した以上は仕方がない、ぼくはキョトンとしている銀蔵さんに向かって詳しく説明する。

「まず機体のフレームですが、通常、鉄かアルミなどの軽量で加工しやすい金属、もしくは木製のフレームです、でも鉄やアルミなどの金属は戦争中で、そもそも手に入りません。木を加工するだけの技術もありません。ですが、ここには軽くて耐久性があって加工しやすい絶好の材料があります」

 銀蔵さんが竹やぶをひと睨みし、

「なるほど、我が家の竹をフレームに使うというわけだね、竹細工の製品はかなり複雑な物もある。つまり、加工しやすい上に材料も豊富にある。いいアイデアだ。だが滑走路はどうするのかね?」

 ぼくは配管跡地を指さし、

「あの配管跡地、あの坂道を滑走路にします。グライダーが揚力を得るための十分な距離がある上、下った先は海です。海風に乗れば相当な高度まで上昇が可能だと思います。一度上昇してしまえば、グライダーは風に乗ってどこまでも飛び続けます」

 銀蔵さんの目に白銀湾を横切るグライダーの勇姿が映ったようだ。

 人は様々な事を想像する。

 そして、想像出来る事なら、たいがいの事は実現不可能とは言い切れない、とぼくは思う。

 ぼくは続ける。

「装甲は布か紙、なければ葉っぱで」

「白銀市には製糸工場がある。布ならいくらでもあるさ。私の系列会社だよ」

「グライダーに使う布を譲ってもらえるのでしょうか」

 銀蔵さんがクスリと笑い、

「おやおや、これだけ面白い計画に、ただ布を譲るだけでいいと言う気かね? 年寄りだからといってナメてもらっては困るな、私も参加するよ。年寄りの冷や水と言われようと何とね。是非、君たちの計画に参加させてくれたまえ」

 銀蔵さんが右手を差し出した。

 ぼくが躊躇すると、ひばりが横から突然飛び出してガッシとその手を握り、

「よよよ喜んで! 銀ちゃんがついてくれれば百人力です! 反対する人はいません満場一致でウェルカムです!」

 銀蔵が満面の笑みで、

「そうかね、それは良かった、ところで銀ちゃんというのは、もしかして私の事かね?」

「えっ! あうっ! す、すみませんっ! 銀ちゃんの.いえ銀蔵さんの飛行機の話を聞いていたら、雲の上の人から身近な人に、その、心の友みたいに感じてしまって、失礼しました!」

 コメツキバッタのようにはいつくばって謝るひばり。

 でも、ひばりの言う事ももっともだ。

 飛行機の話をしている時の銀蔵さんはまるで子供のように生き生きとしていて、ぼくも銀蔵さんの事を友達のように感じたほどなのだから。

 銀蔵さんがひばりに、

「おいおい、そう謝らなくてもいいよ、私たちはもうグライダー仲間だ、もっとフレンドリーにいこうじゃないか」

「ええ、でも」

 ひばりがバツが悪そうにぼくらを見回す。

 銀蔵さんが愉快そうに、

「それじゃあこうしよう、今後、私の事は銀ちゃんと呼ぶ事」

「「ええ~~~っ」」

「銀ちゃんと呼ばなければ私は一切協力しない」

またまた、

「「ええ~~~っ!」」

「冗談だ。だが呼び方は銀ちゃんでいい。私もこの呼び名が気に入った」

 唯一動揺していない黄蝶が、

「わかりました銀ちゃん。僭越ながらあなたの事は今後、銀ちゃん。銀ちゃんと呼ばせて頂きます。銀ちゃん。これからもヨロシク銀ちゃん」

 と連呼した。

 順応性が高いな黄蝶。

「ところで、話は戻るが、肝心のパイロットはどうするのかね? まさか私に飛べというんじゃないだろうね。数年前ならいざ知らず、今では私も年でね、さすがに、この年で戦闘機動は身体に応えるな。誰かいいパイロットはいるのかね?」

 ひばりが小さな胸を張り、 

「それなら何の問題もないよ! だって最高のパイロットがいるもん!」

「最高のパイロット? 誰かねそれは?」

 ぼくも、ひばりも黄蝶もいっせいに風華姉さんを見やる。

 すると風華姉さんが、今までの会話など、どこ吹く風といった調子で長い黒髪をかき上げ、

「誰の事かしら、それは、少なくとも私じゃないわね」

「「ええ~~~っ」」

「破刀、あなたがこの計画を立ててくれたのは、とても喜ばしい事だわ。以前の私なら空さえ飛べれば例えグライダーでも満足したはずよ」

 ぼくは焦りを覚えながら、

「なら何で?」

 風華姉さんがたしなめるように、

「破刀、あなたは昨夜のアメリカ軍の空爆や避難してきた人たちを見て何とも思わなかったの?」

「いや、アメリカ軍は憎いし、避難してくる人たちは可哀想だなって、思ったよ」

 風華姉さんがにらむ、

「それだけかしら?」

 ぼくは両手を広げ、

「ほかにどうしろと?」

「アメリカ軍を同じ目にあわせてやりたいとは思わなかったの?」

「で、でもぼくは学生で」

「軍が学徒出陣をうながしているのを知らないの? いいえ知っているはずよ。今は十五歳の子供にすら赤紙が届いている時勢よ」

 赤紙というのは、つまり徴兵をうながす手紙の事だ。赤みがかったピンク色の紙に書かれているため、赤紙と呼ばれている。

「で、でも風華姉さんは女で」

「だから私は自分から志願したわ。戦闘機の操縦経験がある。と、そう言ったら即入隊が決まったわ。あなたたちが緑亀邸に行ったあと、すぐの話よ。七月には帝国海軍第七方面空挺師団にゼロ戦のパイロットとして配属されるわ。アメリカ軍をゼロ戦で皆殺しにするのよ」

 ぼくは仰天した。

「な、うそだろ、風華姉さん。何でそんな事を?」

 長い沈黙のあと風華姉さんが、

「あなたを守るためよ破刀、アメリカ軍を皆殺しにして破刀を、日本を守ってみせるわ。もう二度と悲劇は起こさせない!」

 そう言い残して風華姉さんは緑亀邸をあとにした。

 風華姉さんが旅立ったのは、その三日後だ。

 ぼくは見送りにも行かずに屋敷に閉じ籠っていた。

 いや、その日以降もぼくは引きこもりを続けた。

 母さんはただ、こう言っただけだった。

「あの子には、あの子なりの考えがあるのよ。きっと、もし、あたしが反対しても、あの子は行くと思うわ。誰もあの子の翼を折る事は出来ないのよ破刀、たとえ、あなたでもね、破刀」

 そう言って、みんな死にに行くのだ。

 父さんも、風華姉さんも。

 ぼくは何も出来ない。

 ただひたすらに無力だった。


【Pop Step Jump!】


 梅雨があけようとしていた。

 でも、ぼくの心は晴れなかった。

 今も屋敷の部屋のスミに座り込んで何をするでもなく自堕落な日々を送っていた。

 開け放している窓の外から黄蝶の声が聞こえた。

「ハト! いるんだろう?! 勝手にお邪魔させてもらうぞ! お邪魔しま~す!」

 黄蝶が勝手に屋敷に入り二階に上がってくる。

 そして、ぼくの部屋まで入ってきた。

 座り込んでいるぼくを尻目に抱えていた少女をベッドに座らせる。

 緑亀美神だ。ぼくは二人を見比べながらも何も言わずに黙り込んでいた。

 黄蝶が、

「今日は面白い物を見せにきた。きっとハトも興味を持つと思う」

 ぼくは相変わらず無反応。

「まあ楽しみにしていてくれ」

 黄蝶が去った。

 部屋にはぼくと美神だけが残された。

 今は朝の八時、気がつくと十二時、いつの間にかお昼になっていた。

 二人とも無言のまま微動だにせず四時間も過ぎた事になる。

 トイレとか大丈夫なのだろうか? と、ふと、そんな考えが心をよぎるが、まるで、そんな心を察知したかのように美神の瞳が動いた。

 ぼくはドギマギした。

 突然、高価な人形が意思を持ったように感じたのだ。

 いや、彼女は人間だ。

 普段は人形みたいだが、とにかく美神の瞳が窓に吸い寄せられる。

 が、身体は硬直したように動かない。

 ブルブルっともがくような動作のあとドシン、という音と共に頭からベッドの下に落ちた。

 さすがのぼくもこれには驚き助け起こそうとノロノロと美神に近づく、倒れながらも美神は窓の外を見ようとしていた。

 窓の外から低いエンジン音が聞こえてくる。

 たぶんトラックだ。

 ぼくは美神を抱えて窓辺に立つ。

 ぼくの窓からは真正面に真っ直ぐに道路が伸びている。

 その道路一杯に白い翼が広がっていた。

 ひばりがそのかたわらからぼくに声をかけてきた。

「滑走路で待ってるよハト君!」

 ぼくは無言を通す。

 美神は白いグライダーに近づこうともがいていた。

 いつのまにかまた部屋に入っていた黄蝶が美神を抱えて、ぼくの部屋を出て行った。

「君が来るまでずっと待つ!」

 黄蝶が去り際にそう言い残した。

 グライダーは完成していたのだ。

 もしかしたら今日完成したのかもしれない。

 でも、ぼくを待つとはどういう事だろう? パイロットなら銀蔵がいるじゃないか。

 ぼくを待ってどうするの? 黄蝶と美神を乗せたトラックがノロノロと動き出す。

 白い翼が少しずつ遠ざかる。

 空はどこまでも青かった。

 今日は八月五日、もうすでに鬱陶しい梅雨は明けているのだ。

 そして、あの青空のどこかで、風華姉さんは今もアメリカ軍相手に戦っているのかもしれない。

 あの空のどこかで……。

 少しずつ白い翼が見えなくなる。

 ぼくはまた取り残されるのか。

 今度もまた。

 一人でもいい。

 どうせ誰もがいつかは一人になるのだ。

 なのに、ぼくの足は自分の意思に反して勝手に歩き始める。

 ぼくはいつの間にか屋敷を出ていた。

 そして、あの白い翼を追いかけ始める。

 ぼくは、描きたいのかもしれない。

 あのどこまでも澄んだ、とこまでも続く青い光の中に、吸い込まれるような白い軌跡を。


【空の向こうに】


 緑亀邸、山頂に白いグライダーが翼を広げていた。

 山頂から海までは滑走路が長く伸びている。

 グライダーのそばには.ひばり、黄蝶、銀ちゃん、ミーちゃんが待っていた。

 風がなびく。

 初夏の爽やかな風だ。

 ひばりが溌剌と、

「意外と早くきたね、ハト君。もっと時間が掛かると思ったよ」

「ぼくが来なかったら、どうしていたのかな?」

「あたしはハト君を待つって言ったよね。だから、来なければ、いつまでも、ここで待つよ」

「何で?」

「だって、このグライダーはハト君が作ったんだよ。たからハト君のグライダーじゃない」

「ぼくは、何も、してないよ」

 ひばりが首を横に振る。

「ぼくは無力だ」

 ひばりが再び否定。

「誰の役にも立たない役たたずだ」

「あなたの心の翼があたしたちをここまで連れて来たのよ」 

 青空に白い翼が映える。

「だから、あの翼は、ハト君、あなたの翼よ。みんなそう思っているわ」

 誰も否定しなかった。

 みんな少しだけうなずいていた。

 銀ちゃんが咳払いし、

「ハト君、君のお母さんから聞いた話なんだかね。お父さんが亡くなったあと、君はお姉さんの風華譲から少なからず飛行機の操縦の手ほどきを受けたようだね。しかも、それなりに飛べるようになったと聞いたよ。その話に間違いはないね?」

 ぼくは首肯した。

「ええ、そうです。風華姉さんが万が一に備えて、ぼくに飛行技術を教えてくれました。グライダーも、大丈夫だと思います」

 銀ちゃんがうなづき、

「飛んでくれるかね?」

 無論。

「喜んで」

 ぼくに迷いはなかった。

 今は飛ぶ事だけを考えていた。

 一秒でも早く、あの空に近づきたかった。

 黄蝶がつなぎの服を持ってきた。

「パイロットスーツだ。着替えてから飛べ」

 ぼくはパイロットスーツを受け取り、

「うん、ありがとう」

「今日だけは、ひばりに譲ったが、次はない」

 何のことだ? とりあえず、

「そ? そう? わかった」

 意味はわからなかったけど、ぼくは黄蝶にうなずいておいた。

 ミーちゃんは車イスの上で身体を震わせ、明らかに興奮していた。

 ぼくはパイロットスーツに着替え終えてからグライダーに乗り込んだ。

 ラダーを試す。

 右ヨー、左ヨー、次に操縦桿。

 右旋回、左旋回、上昇、下降、それにブレーキ、アクセルはグライダーなので無い。

 油圧なのだろうか? スムーズにカジは切れる。

 問題無し。

 ぼくはハッチからゴーサインを出す。

 数十人のメイドさんがグライダーを押して、ゆっくりと坂を下る。

 滑走路の中ほどまでくると、かなりのスピードになる。

 一応、速度計と高度計が取り付けてあった。

 現在の速度は時速三百八十キロ。

 離陸に必要な最低限のスピードだ。

 滑走路はまだ続いていたが、ぼくは操縦悍を強く引いた。

 青空に白い翼が舞い上がる。

 地上から切り離されたグライダーが空へ向かって加速する。

 高度二百、三百、四百、上手く海風に乗ったのか、瞬く間に高度千メートルまで上昇する。

 今は海よりも雲のほうが近い。

 梅雨をもたらした厚い雲がまだ少しだけ残っていて日差しとかぶる、空全体が黄金に輝き、神の国にでもいるかのような気分になる。

 右旋回、右ヨー、この操作で急旋回すると地平線の彼方に白銀連峰が見えてくる。

 不思議な事に、さっきまで晴れていた空にうっすらと曇がかかり、山の上空に鮮やかな、大きな虹が見て取れた。

 しかも、ただの虹じゃなかった。

 見たこともない二重の虹だ。

 虹の上にもう一つ、綺麗な虹がかかっていた。

 こんな虹を見たのは生まれて初めてだ。

 恐らく二度とこんな光景を目にする事はないだろう。

 ぼくのフライトを白銀山が祝福しているかのようだ。

 そのあと近くに目を転じた。

 緑亀邸は見えないけど、竹林とその先の湖までは一望出来た。

 ぼくは機首を下げて下降気味に緑亀邸に近づく。

 時速八百キロで今度は左急旋回、街の上空を飛びながら海風をとらえようとするが乱気流に巻き込まれて機体の制御を失う、木の葉のように舞いながら地表へ激突する寸前、操縦悍を強く引いて地面とのキスを免れる、さらに前方に迫る白銀学園の校舎と体育館の間を九十度機体を傾けて翼を縦にした状態でギリギリすり抜ける。

 機体を水平に戻したあと海風に乗って再び上昇する。

 おしっこをチビリそうになってしまった。

 白銀市は海風と山風がぶつかって乱気流が起きやすい。

 気を付けないとあっという間に墜落してあの世行きである。

 落ち着きを取り戻してから、ぼくはゆっくりと弧を描いて緑亀邸近くの湖のそばに近づき着陸した。

 ファーストフライトはまずまずの飛行であった。


【守りたい人がいて】


「いい知らせと悪い知らせがある」

 初フライトの翌日、銀ちゃんがそう言って続けた。

「いい知らせは美神の事だ。君が飛行していらい上半身を動かすようになった。グライダーを指差したり、車イスを操作したり、発音は不明瞭だが言葉も発している。何を伝えようとしているのか、その意味までは分からないがね。そして悪い知らせというのは、君のお姉さん。風華譲に関する事だ」

「風華姉さんはガダルカナルやフィリピンで華々しい戦果を挙げている。と、軍から報告を受けています。フィリピンはアメリカ軍に取り返されましたが」

 銀ちゃんの顔が苦汁に歪む。

「いや、もう、いくら単機で戦果を挙げようと戦局は変えられない。すでに最終防衛ラインの硫黄島、それに南方の沖縄までアメリカ軍の手に落ちた。硫黄島では地下にこもった日本兵を殺すために火炎放射機を使って生きたまま兵士は焼き殺されていると聞く。アメリカ軍は沖縄の民間人に対しても同じ事を行っているそうだ。さらに、噂ではそれ以上の大量破壊兵器を日本に落とすつもりらしい」「大量破壊兵器、ですか?」

 銀ちゃんが憔悴したように、

「私も詳しい事は知らない、ただ原子力を利用した爆弾だという事だけは知っている」

「原子、爆弾?」

 ぼくはその兵器に不吉な物を感じた。

 今日は八月六日の朝、妙に蒸し暑い日である。

 そんな得体の知れない兵器が頭の上に落ちないよう祈るばかりだった。

 銀ちゃんがぼくを見上げ、

「話がそれたが、ともかく戦艦大和、武蔵も沈み、もうなすすべのなくなった日本軍は最後の作戦を始めた」

「最後の作戦、ですか? 勝ち目がないのに、これ以上どんな作戦を行うと言うんですか?」

「そ、それは」

 銀ちゃんが両手を固く組んだ。

 血管が浮き出るほどに強く握りしめる。

 意を決し、

「神風特攻隊だ」

「神風特攻隊?」

「ゼロ戦に爆薬をつんでアメリカ艦隊に体当たりする。捨て身の戦法だよ」

 ぼくは身を乗り出した。

「捨て身の戦法って、待ってください! それじゃパイロットは? 風華姉さんはどうなるんですか!」

 銀ちゃんが目を伏せた。

 歯を食いしばるように、

「風華君は、残念だが、生きては、帰れまい」

 ぼくは動転した。

「い、生きては帰れまいって! 死ぬって事ですか! 何で風華姉さんが犬死にしなきゃいけないんですか! ふざけんなっ!」

 ダンッ!

 ぼくは銀ちゃんの机をおもいっきり叩いた。

 拳の痛みで我に返る。

 血がにじんでいた。

「すみません、銀ちゃんの事を怒ったわけじゃないんです。軍隊に、無謀な作戦をする日本軍に、神風特攻隊なんていうキチガイみたいな作戦に、腹が立ったんです。本当にすみません」

 銀ちゃんが歯ぎしりしながら、

「私だって怒り心頭だよ。よりにもよって、いや、この期に及んで、軍部は何を考えているのか? 頭が狂ったんじゃないか? と、そう思わざるをえない。ともかく私の財産を全て投げ売ってでも風華譲を戦場から連れ戻すつもりだ。上手くいくかどうか保証は出来ないが、全力を尽くす」

 ぼくはただただ頭を下げた。

「お願いします。ぼくには、もう、どうする事も出来ません。心残りは最後の別れの挨拶すらしていない事です。最後に風華姉さんに会っておくべきだった、こんな、死ぬ事になると知っていれば、ぼくが馬鹿だったんです。最低です」

 銀ちゃんがぼくの肩を強くゆすり、

「まだ死んだわけじゃない! 最後まで希望を捨てちゃいかん!」

 ぼくは再び気を取り直し、

「わかりました。とにかく、風華姉さんの事をお願いします。ぼくはこれで失礼します」

 銀ちゃんがうなずく。

 ぼくは部屋を出て長い廊下を歩く。

 すると背後から、

「にぃ」

 と聞こえる。

「にぃに」

 と、また聞こえる。

 猫でも鳴いているのか? と後ろを振り向くと、ミーちゃんがぼくのあとを車イスでつけて来た。

 目と目が合うとミーちゃんがぼくを指差し、

「にぃ」

 と、再び言う。

 どうやらぼくの事を、にぃ、と呼んでいるらしい。

 ぼくは自分で自分の顔を指差し、

「にぃ?」

 と聞くと、ミーちゃんがまたぼくを指差し、

「にぃ」

 と言う。やっぱり、にぃ、は、ぼくの事なのだ。

「にぃ、しろ、ぱー?」

 たぶん、

『お兄ちゃんは白いグライダーのパイロットなの?』

 と言ってる気がする。

「そー、しろ、ぱー」

『そうだよ、白いグライダーのパイロットだよ』

 と答える。

 ミーちゃんの真っ白いほほに赤味が差し瞳をパチパチ瞬かせる。

「すーご、みー、しろ、のー!」

『すごい、美神も白いグライダーに乗りたい!』

 と言ってる気がするので、

「もー、ちょ、ま、あん、かく、さー、ね」

『もう、ちょっと、待ってね、、安全が、確認、されてからだよ』

 と言ってみた。すると、

「みー、しろ、のー、いき、あー」

『美神、白いグライダーに乗って行きたい所があるの』

 と言ってる気がしたので、

「どー、いき、のー?」

『どこに行きたいの?』

 と聞いてみた。すると、

「みー、てん、いき、たー」

『美神は天国に行きたいの』

 と言ってる気がしたので、

「なん、てん、いき、たー、のー?」

『何で天国に行きたいの?』

 と尋ねてみると、

「てん、かー、おね、おに、おと、みん、いー、のー」

『天国には、お母さんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、お友達も、みんないるの』 

 と言うので、

「おぼ、まー、てー、おぼ、みん、かえー、から」

『お盆まで待って、お盆にはみんな帰ってくるから』

 と言うと、

「はー、じゅ、ごー、しろ、むかー、いー、のー」

『八月十五日に白いグライダーで迎えに行きたいの』

 と言ってる気がしたので、

「じゃー、はー、じゅ、ごー、しろ、のー、いしょー、むかー、いー」

『じゃあ八月十五日に白いグライダーに乗って一緒に迎えに行こう』

 と言うと、

「にぃ、やく、ゆーげ、しー」

『お兄ちゃん約束だよ、指切りげんまんして』

 と言ってる気がしたので、ミーちゃんと指切りげんまんをしてからミーちゃんと別れた。

 確かに発音が不明瞭で意味がよくわからない。

 ぼくなりに意訳してみたけど、ともかく、ミーちゃんは家族や友達が東京大空襲で殺されながらも、少しずつ回復してきている。

 まだ風華姉さんが死んだと決まったわけでもないのにぼくがクヨクヨしていたら、きっとミーちゃんに嫌われる。

 そうならないためにも、ぼくはもう少しだけがんばろうと決心した。


【明日に向かって】


『こちら緑亀邸、銀ちゃんより、無線のテスト中、感度はどうかね、上空の白い翼、ハト君、どうぞ』

 ぼくは無線のマイクを口元に寄せて応答する。

「感度良好です。曇一つない良い天気です。電波も良く通るみたいですね」

 銀ちゃんの応答。

『こちらも感度良好。戦闘で壊れた部品の寄せ集めを、何とか組み上げた無線なのだが、どうやら使えそうだな』

 いきなり無線の相手がひばりに変わる。

『あたしの家にホコリをかぶった古い無線が一台あったのもラッキーだったよね! まさか、まだ使えるとは思わなかったよ~、超ラッキー☆』

 さらに相手が変わる、黄蝶だ。

『いくら無線があっても英語が出来なきゃ航空機の通信は無理。世界中どこでも英語だから』

 恥ずかしながら、

「ぼくも英語は話せないけど」

『大丈夫アタシが通訳するから。新婚旅行も困らない。ハワイか、それともニューヨークか』

 ひばりに変わる。

『はあっ? 何言ってんの、この金髪牛チチ娘は、誰と結婚式をあげるって? 変な事言わないでよ! ハト君が困ってるでしょっ!』

 黄蝶が、

『黙れ貧ニュー、一部の需要があるだけでもラッキーだと思え』

 ひばりが、

『くっ、あたしの胸は貧ニューじゃない! 成長途中よ! あんたこそ、それ以上大きくなったら垂れるわよ! 垂れチチよ!』

 ミーちゃんが乱入、

『にぃ、むー、すー、なのー?』

 たぶん、

「お兄ちゃんは胸が好きなの?」

 と言ってる気がしたので、

「いやミーちゃんの優しい心が好きだよ。ケンカとかする子は嫌い。二人とも早く仲直りするといいね」

『ねー』

 ミーちゃんが同意した。

 ひばりが、

『考えてみたら英語が出来ればアメリカ軍の無線を傍受した時に会話の内容がわかって助かるわ。その時はヨロシクお願いね! 萌木黄蝶さん☆』

 黄蝶が、

『こちらこそグライダーの設計から制作まで多方面に渡ってマルチに活躍し無線まで提供してくれた青空ひばりさんに最大の敬意を表してやまない。今後も是非力を貸してもらいたい。ヨロシク頼む』

 ひばりが、

『二人はとっても仲の良いオトモダチよね』

 黄蝶が、

『無論だ。二人の友情はエイエンなのだ』

 ぼくが、

「二人が深い友情で結ばれると、ぼくも安心して空を飛べるよ。地上のことは二人に任せたよ」

『『まかせなさいっ!!』』

 ハモった。これで当分、ケンカする事もなさそうだ。

 銀ちゃんが、

『ところでハト君、空の様子はつかんだかね? 今日は八月十五日、初フライトから十日もたっているのだが、君を焦らせるつもりはないのだが、最近、娘の、美神の具合がさらに良くなっていてね。空に上がればきっと完全に治る。そんな気がするんだ』

 初フライトから十日、そういえば、ミーちゃんと一緒に飛ぶ約束をしたのも確か八月十五日だった気がする。

「ええ、ぼくもそろそろ一緒に飛んでいい頃だと思っていました。では一度、緑亀邸まで戻ります。その前に、白銀市最大の難所を飛ぼうと思います。一度クリアして、それからでいいですか? どうぞ」

『了解。こっちは何度見てもハラハラしているのだが、ハト君の優雅で華麗なキリモミ飛行を山頂から見物させてもらうとしよう』

 はっきり言えば白銀市上空は山も市街地も海も乱気流の発生しやすいパイロット泣かせの難所だらけだ。

 だけど、なかでも、その最大の難所と呼べる場所が白銀湾北部に切り立つ崖と、海にそびえ立つ巨大な岩礁地帯である。

 最大の岩礁は高さ三十メートルに及び、切り立った崖が海に裂かれ、そのまま残ったという印象を受ける。

 山あいから吹き下ろしてくる風が強力な上に、海から押し寄せる海風も半端なく、一度このグライダーで迷い込んだ時は、そのあまりの凄まじい乱気流に機体がバラバラになるのではないか? とさえ思ったほどだ。

 その時は運よく抜ける事が出来たが、今では抜け道を発見しギリギリ通過できるほどになった。

 最初は本当に狭いトンネルに突っ込んでいくような気分だった。

 それでも、この難所を克服したのは万が一に備えての事だった。

 ちなみに船乗りの間では、この難所の事を《死の岬》と呼んで、みんな恐れをなして決して近づかないそうだ。

「話は変わりますが、その後、広島と長崎の状況はどうなっているのでしょうか?」

 八月六日に広島、八月九日に長崎にアメリカの新型爆弾、原子力爆弾、略して原爆が落とされて、ひどい被害が出ているという風の噂は、白銀市の市民の間でも急速に大きな話題となっていた。

 銀ちゃんが暗い沈んだ口調で、

『これは、推定の死者数になるが、広島で十二万、長崎で七万、合わせて二十万人近い、それも民間人が亡くなったそうだよ。原爆とは恐ろしい兵器だな。こんな物を作り出した人間は、いずれ、この力で自分自身を滅ぼすのではないか? と私は思うね』

 ぼくは頭の中が真っ白になった。

 白銀市の人口が一万二千人である。

 そのニ十倍近い人間が、たった二日間で、それも一瞬で亡くなったというのだ。

 あまりの衝撃に操縦桿を持つ手が震える。

「人間のやる事じゃない。やっぱりぼくは間違っていた。風華姉さんの言った通りだった。アメリカ軍は血も涙も無い悪鬼羅刹の集団だった。ぼくが甘かった。彼らは、アジア人なんて、日本人なんて黄色いサルぐらいにしか思ってなかったんだ。だから、だからこそ、こんなひどい事が出来たんだ。黄色いサルだから!」

『落ち着きたまえ、ハト君。君も知っているはずだ。日本軍が中国の南京で何を行ったかを、南京大虐殺では中国市民の十万人が犠牲になって亡くなった。ドイツではヒトラーがユダヤ人五百万人を殺すという大虐殺を行った。アメリカ軍だけがおかしいんじゃない。世界中が狂っているんだよ。この第二次世界大戦で』

「銀ちゃんの言う事は分かります。でも、ぼくは」

 風華姉さんと一緒に戦うべきだった。

 口にこそ出さないが心には、その意思を強く刻み付ける。

「とにかく、一度緑亀邸に戻ります」


【赤月】


 緑亀邸のそばの湖に沿って着陸すると、なぜか赤いペンキとハケを持って、ミーちゃん、銀ちゃん、ひばり、黄蝶が待ち受けていた。

「あの、もしかしてグライダーを塗り変えるんですか? 赤い彗星みたいに?」

 すると車イスに乗ったミーちゃんが近寄り、

「にぃ、あー、つ、きー」

『お兄ちゃんは赤月でしょ』

 と言ってる気がするので、

「うん、そうだよ赤月破刀だよ、それがどうかしたの?」

 ミーちゃんが赤いペンキとハケを持ち上げ、

「まー、あー、つ、きー、まー、しろ、いー、る、のー!」

『マーク、赤いお月さまのマークを白いグライダーに入れるの!』

 と言ってる気がするので、

「じゃあ、ぼくも手伝うよ、ペンキとハケを貸してミーちゃん」

 ミーちゃんが首を振り、

「かー、ぐるー、しー、にぃ」

『肩車してお兄ちゃん』

 と言ってる気がするので、ぼくはミーちゃんの前で背中を向けると片膝をついてミーちゃんを肩車した。

「どこから塗ろうか?」

 ミーちゃんがハケで尾翼を指し、

「びー、びー」

『尾翼、尾翼』

 と言ってる気がするので、

「わかった尾翼だね。じゃあそこから始めようか」

 ぼくが尾翼の前に立つとミーちゃんは芸術家のように一気呵成に描き始める。

 ひばりは右翼を、黄蝶は左翼を同じように描き始める。

 銀ちゃんが尾翼の反対側を描きながら、

「ハト君、君はエスパーか何か、ニューなタイプの人間なのかな?」

 ぼくは慌てて否定した。

「何を言ってるんですか、ぼくはエスパーなんかじゃないですよ! ただの人間ですよ、空を飛ぶぐらいしか能のない、いえ、むしろ劣っているぐらいの、ヘタレなパイロットに過ぎませんよ!」

 銀ちゃんのハケのサッサッという音が静かに響く。

「いや、私の見た所では、ハト君と娘の、美神のやりとりは、まるで意識だけで会話しているようにしか感じられなかったぞ。恥ずかしながら、私には娘の言っている事が一言も理解出来なかった。ペンキとハケを持ってハト君を待っていたのは黄蝶譲のおかげだよ。黄蝶譲もハト君ほどではないが、ある程度なら美神の言葉を理解する事が出来るのでね」

 ぼくは恥ずかしくなってきた、

「ぼくだって当てずっぽうですよ、買いかぶらないでください、適当に判断しているだけです。それに、どんな親でも娘さんが大きくなると意志疎通は難しいんじゃないでしょうか。ぼくだって風華姉さんの事をたまに宇宙人のように感じる時がありますよ。それに比べたらミーちゃんは単純だからわかりやすいです。いえ、馬鹿にしているわけじゃないんです。単純というのは、つまり、その、純粋という意味です」

 銀ちゃんが鷹揚に、

「なに、そう慌てんでもいいさ、ハト君が人の悪口を言うような人間じゃない事は一目見ればすぐにわかる。でなければ美神が君になつくようなことはない。まあ、なんにしろ私にとっては羨ましい話だよ」

 そろそろ全員、描き終わったようだ。

 ひばりが、

「ねえ、この赤月号の前で記念撮影しない? もしカメラがあれば、の話だけど」

 ひばり、黄蝶、ぼく、三人の視線が銀ちゃんに集まる。

 銀ちゃんが雑作もなく、

「それなら私の部屋にあるから、さっそく記念撮影といこうじゃないか」

 こうして、ぼくらは真っ白いグライダーに赤い三日月の描かれた、ひばりいわく、

《赤月号》

 の前で記念撮影を行った。

 風華姉さんが、この場にいない事が残念でならない。

 メイドさんによる撮影が終わると、別のメイドさんが銀ちゃんに駆け寄り、何やら耳打ちしていた。

 それまでのニコやかな銀ちゃんの表情が一変、険しい表情になる。

 その場の全員が何事かと心配していると、銀ちゃんがその重い口を開いた。

「この街に向かってアメリカ軍の偵察機が接近している。ルート上にある田畑や農家に機銃掃射を行って、かなりの被害が出ている。君たちはすぐに荷物をまとめて避難しなさい。あと十分もしないうちに白銀市上空に到達する。時間がない。急ぐんだ」

 長い沈黙。

 銀ちゃんがそれを破り、

「グズグズするな! 早く逃げるんだ!」

「敵は何機ですか?」

 銀ちゃんがイライラした口調で、

「一機だけだ。が、今はそんな事はどうでもいい! 一刻を争うんだ! 君たちは逃げる事だけを考え」

「嫌です! あたしは逃げない! ここに残って戦うわ!!」

 ひばりの絶叫に全員ドギモを抜かれる。

 明らかに銀ちゃんが動揺しながら、

「な、なにを言ってるんだ君は、武器もないのに、竹ヤリで勝てる相手じゃないんだぞ!」

 黄蝶が冷静に、

「武器ならあります。あのグライダーを使えばいいのです。勝てなくても、時間稼ぎにはなります。わずか十分で街の人たちが避難出来るはずがありません。誰かがオトリになって、敵を引き付ける必要があります。ヒナを逃がすためです。あのグライダーなら、十分にその役目を果たせます」

 銀ちゃんが激昂した。

「馬鹿野郎! 遊びじゃないんだ! ゲームとは違う! タマが当たれば死ぬんだぞ! どうせ日本は負けるんだ、負け戦につきあう必要なんてこれっぽっちもねえ! ましてやお前らには未来が」

「未来は、自分たちの力で切り開いてみせます!」

 ぼくはそう言い切って赤月号に向かって歩き出す。

 止めようとする銀ちゃんの前にひばりが立ちふさがり、

「あたしたちの赤月号は絶対負けません! みんなを守ってみせます!」

 さらに黄蝶が立ちふさがる。

「敵はこの辺りの地形と特性を理解していません。地の利はこちらにあります。必ず勝機があります」

 最後にミーちゃんが立ちふさがる。

 両手を大きく広げて例え実の親でも、鬼でも通さないといった、おっかない表情をしている。

 さすがの銀ちゃんもミーちゃんの不断の決意に心が折れた。

「わかった。だが、私もここに残らせてもらう。もう何も知らずに家族を失うような真似だけはしたくない」

 ぼくは銀ちゃんを振り返り、

「みんなで、この街を守りましょう。いえ、絶対に守ってみせます!」


【レッド・ムーン・デーモン】


『とにかく時間がない。だから作戦は無線で簡単に説明する。いいかね、ハト君』

 銀ちゃんの明瞭な、深い響きのある声がコックピットに響く。

 キャノピーの外ではメイドさんが数十人がかりで赤月号を滑走路まで押している。

 空を見上げると、空は、雲一つない夏の空だった。

 今日も蒸し暑くなりそうだ。

「了解。どんな情報も聞きもらしません。どうぞ」

 銀ちゃんが咳払いし、

『では良く聞きたまえ、さっきも言った通り、敵は一機だけだ。メイド隊の情報によると偵察機との事だ。時折、フラフラと酔っ払ったような飛び方をする所から、パイロットは操縦に不慣れなルーキー、もしくは試験飛行を行っているヒナ鳥の可能性が高い。ピクニック気分で制空権を失った日本の大空を自由気ままに飛んでいるというわけさ。あるいは、何らかの訓練なのか? とにかく、彼らは海岸線に添って南南西の方角から白銀市に接近している。敵の無線が傍受出来たら黄蝶譲が翻訳してその都度ハト君に伝える。もう、あと五分しかない。頼んだよ』

「あと一つだけいいですか」

『? 何かね?』

「敵の攻撃で何人死にましたか?」

 銀ちゃんが一瞬口ごもる。が、

『機銃掃射で三人の民間人が亡くなったよ』

「了解です」

『幸運を祈る』

 すでに赤月号は滑走路を滑り降りていた。

 ぼくは操縦悍を引き上げテイクオフする。

 そして、南南西に進路を取った。

 上空から地上を見ると、白銀市の市民が次々に避難する様子が見て取れた。

 相手はすでに三人を殺している。

 避難でごった返している人達に向けて機銃掃射すれば百人近い人が犠牲になるだろう。

 それだけは阻止しなければならない。

 アメリカ軍の偵察機が見えてきた。

 が、なぜかすぐには赤月号に近づかない。

 なぜだ? ぼくの周囲をゆっくりと旋回している。

 時折、風に流されるたびに機体を立て直すのに苦労している様子だ。

 銀ちゃんの言っていたパイロットがルーキーという情報は、どうやら当たっているようだ。

 黄蝶から無線が入る。

『こちら黄蝶、アメリカ軍の無線傍受に成功、翻訳する。奴らは何か、変な事を言っている。怯えたような口調で、レッド・ムーン・デーモン、レッド・ムーン・デーモンと、何度もささやいている。その意味は不明だ』

「そのまま帰ってくれるとありがたいんだけどね」

『そうもいかない。勇気のある奴が一人いて、そいつが仲間を励ましている。もうじき立ち直って襲ってくるぞ』

「わかった」

 ぼくは右に急旋回する。

 すぐ左に機銃の弾丸が波打つようにかすめていった。

 間一髪だ。

 黄蝶のナビゲートがなかったらかすったかもしれない。

 さらに右急旋回、海面が近づく。高度三百メートル、このままでは海に激突する、と偵察機は判断した。

 偵察機が上昇を開始する。

 ぼくも海風のよく通る所まで移動し、一気に風に乗る。高度千三百メートルまで上昇、黄蝶からの無線、

『アメリカ兵が驚いているよ。プロペラもエンジンもないのに何であんな急上昇が出来るんだって。やっぱりあいつはレッド・ムーン・デーモンだって言ってる』

「みんなを守るためなら悪魔にもなる」

 ぼくは一転、急降下し偵察機に体当たりする。

 降下時の最高速度は八百キロ、プロペラ機の最高速度だ。

 下降時ならグライダーでも、これだけの速度が出せる。

 偵察機が慌てふためき、上下左右にヨタヨタと不規則な軌道を取る。

 操縦が下手すぎて、かえってぼくは必殺の一撃を外してしまった。

 戦闘機動が読めない。

 ひばりからの無線、

『特攻すんなバカっ! 死ぬかと思ったでしょっ! 神風特攻隊なんて絶対許さないからな!』

「でも武器もないし、他に戦う方法がないよ」

 黄蝶からの無線、

『地の利を生かせば勝機はある。と、私は言った。あれは嘘ではない。死の岬の乱気流を利用するのだ。私たちは模型のグライダーを何度も飛ばして風の弱い場所、グライダーが通り抜け出来る抜け道を知っている。そこまで偵察機をおびき出せば、あとは勝手に向こうで落ちてくれる』

「簡単に言うね」

『他に方法はない』

 今も弾丸が上へ下へと雨アラレのように降り注がれている。

 ぼくは筒を描くようにグルグル回りながら偵察機をやりすごす。

 ブレーキだけだとマトになるが、この戦闘機動をとると相手の攻撃をよけながら減速、相手のバックがとれる、こちらに武装があればスキだらけの偵察機にいくらでも弾丸が撃ち込めるのに、と思いながらも、ない物ねだりをしている場合ではない。

「わかった、黄蝶の作戦でいこう。鬼ごっこをしていても、いつかは追い付かれるだろうから、その作戦にかける」

『了解。グッドラック!』


【Good Luck!】


 ぼくは左右へゆっくりと蛇行を始める。

 ぼくを撃ち落とそうと偵察機も蛇行を始める。

 が、相手が左へ旋回した時には、ぼくは右へ旋回ずみ、偵察機が右へ旋回した時には、ぼくは左へ旋回、と決して捉える事の出来ない時間稼ぎをしつつ、例の死の岬へと近づいて行く。

 偵察機がラチが開かないと距離を取ったタイミングですかさず、ぼくは死の岬へと突入した。

 ヨタヨタしながらも偵察機がぼくを逃すまいと追ってくる。

 ぼくはわずかな隙間しかない風の抜け穴、無風のトンネルを縫うように飛んだ。

 それに対し、偵察機はエンジンの馬力に物をいわせて強引に、たびたび風に大きくあおられながらも、ぼくに食らいついてくる。

 そして時に、機銃を撃ってくるが、そんな状態では全く当たらなかった。

 黄蝶からの無線、

『レッド・ムーン・デーモンはいったいどこで、こんな高度な飛行技術を身につけたんだ! ってアメリカ兵が騒いでいる』

「十日だって教えてあげなよ」

 黄蝶が冷めた口調で、

『風華さんの英才教育の賜物って伝えておく』

 軽口を叩きながらも、ぼくの口内はカラカラに渇ききっていた。

 何度風に流されそうになったかわからない。

 何度岩礁にぶつかりそうになったかわからない。

 スーハー、スーハー、

 深呼吸、深呼吸、

 気持ちを楽にして固くなりがちな操縦悍を握る手を緩める。

 上昇、下降、

 左旋回、右旋回、

 右ヨー、左ヨー、

 神経を削るような微調整の連続、崖が迫る! 

 が間一髪、機体を反転させて、かろうじて避ける。

 一瞬だが無風のトンネルからはみ出して風に流されたようだ。

 い、今のはかなり危なかった。

 大量の冷や汗をドッと吹き出す。

 トンネルの出口はあと少しだ。

 あと少しで死の岬を抜けられる。

 偵察機は崖のあちこちに機体をぶつけながら、こすって飛んだためかなりボロボロになっている。

 良く墜落しなかったものだ。

 アメリカ製のエンジンの強力さにぼくは舌を巻く。

 やや上昇気味にぼくはトンネルを抜ける。

 トンネルを抜けるとそこは、乱気流が待ち構えていた。

 乱気流に捕まる前にぼくは急上昇、乱気流の嵐を越えた所で海に向かってゆっくり下降する。

 岬の出口は海からの上昇気流と山から吹き下ろす下降気流がぶつかって凄まじい乱気流が発生している。

 何も知らずに飛び込めば間違いなく空中分解を起こして墜落は免れない。

 と思ったら偵察機はヨタヨタしながらも海面スレスレをかろうじて飛行していた。

 まったくアメリカ製のエンジンは強力だ! 

 ぼくは時速八百キロで急降下、体当たりではなく、偵察機の上への着地を試みる。

 右、左、

 下降、上昇、

 と目まぐるしく微調整しながら偵察機に近づく。

 地上に着地するのも、かなり骨が折れるが、動き回る機体に着地を試みるのは、ほとんど神業に近い、つまり、運任せだ。

 が、

 ドシンッ! 

 運良く偵察機の翼の上に乗っかった。

 着地というより上手く重なった、と言ったほうが適切だ。

 アメリカ兵が窓から顔を出して何か叫んでいる。

 その声をマイクで拾い、

「黄蝶、翻訳頼む」

『え~と、一緒に海に落ちる気か黄色いサル、ファッキン、と言っている』

「ぼくはお前たちと一緒に落ちる気は毛頭ないって言ってくれないか黄蝶」

 黄蝶が英語で叫ぶ。

 ぼくは操縦悍を前に倒し偵察機もろとも海へ下降する、血相を変えた先ほどのアメリカ兵が機関銃を窓から乱射、右翼に当たったようだ。

 が、それも束の間、ついに偵察機は海に沈んだ。

 と同時にぼくは操縦悍を思いっきり引っ張る。

 必ず来るはずだ。

 すでにグライダーの尾翼は海面に浸っている。

 普通なら海の藻くずとなる所だが、突然の上昇気流が、グライダーを一気に浮き上がらせる。

 高度三百、

 四百、

 五百、

 空へと羽ばたいた、この上昇気流を知らなければ、こんな無茶な真似はしない。

 黄蝶の言った通り、地の利はこちらにあったのだ。

 メキメキ!

 え?

 バキンッ!

 右翼が真っ二つに折れた。

 先ほどのアメリカ兵の機銃掃射のせいだ。

 と気づいた時にはバランスを失った機体が不自然な螺旋を描きながら墜落していた。

 パラシュートなどという気の効いた物はない。

 ぼくは操縦悍を左へ傾ける。

 回転が止まり左旋回を始める。

 片羽を失った以上、上昇下降はもう望めない。

 とっさに残った左翼だけで左旋回をしたのだが、どうやら上手くいったようだ。

 ガタつきながらも赤月号はなんとか飛んでいた。

 しかし、降下速度が早い、このままのスピードではいずれ海面に激突してひとたまりもない。

 今の場所は意外と砂浜に近い、いつの間にか浜辺まで降りてきていた、ひばり、黄蝶、ミーちゃん、銀ちゃんの姿が空からよく見えた。

「ごめん、さすがに助かりそうにない。特攻はしないって言ったのに。ほんとごめん」

 ぼくが謝った瞬間、

「お兄ちゃん! がんばって!」

 と、聞こえるはずのない声が聞こえた。

 浜辺を見ると、ミーちゃんが車イスから立ち上がりヨタヨタ歩きながら、

「お兄ちゃん! がんばって!」

 と、再び叫んでいた。

 その一声でぼくは我に返った。

 降下スピードを止める方法が一つある。

 通常飛行に切り替える事だ。

 片羽しかないとはいえ。

 翼の抵抗があれば降下スピードが少しだけ落ちる。 

 ぼくは操縦悍を戻そうとした。

 が、またバランスを失って墜落するのでは? 

 という恐怖に教われる。

 高度五十、

 四十、

 三十、

 二十、

 十、

『今よ破刀! 操縦悍を戻しなさい!』

 風華姉さんの声が聞こえた。

 気がした。

 極限の集中力が生み出すスローモーな世界で、ぼくは操縦悍を戻す。

 赤月号が水平に戻った。

 翼の空気抵抗でグッとスピードが落ちる。

 が。まだ早い。

 時速百キロはある。

 激突まで三メートル。

 地面が目と鼻の先まで迫った瞬間、強烈な横風がグライダーに叩きつけられる。

 湾内の浜辺では滅多にない。

 が、それでも時折、発生する山風だ。

 赤月号は一瞬フワリと浮かび、クルクルと回転しながら、

 ドボン! 

 と海に着水した。

 たいした衝撃はなかった。

 無論、ぼくはピンピンしていた。

 ハッチを開けて脱出。

 海を泳いで浜辺までたどり着くと、そこで力つきた。

 ぼくは大の字になって浜辺に寝転んだ。

 塩の香りが心地よい。

 寄せては返す波の音も、今はどんな音楽よりも心地よい。

 ぼくは手のひらを太陽にかざした。

 そして、

「トッコーするなって! あれほど言ったじゃないの! ハト君のバカバカバカバカバカ」

 ひばりの涙ながらの訴えは永遠に続きそうなので以下略。

「悪かったよ、ひばり」

「わ、私は、グス、は、ハトが絶対成功するって、信じて、た。グスン」

 目を真っ赤に泣き張らしながら言う言葉じゃないよ、黄蝶。

 つまり、信用ゼロだ。

 だけど、

「ありがとう、黄蝶、君の作戦のおかげだ」

 最後にミーちゃんがトコトコとぼくに近寄り、

「お兄ちゃん、がんばった。お兄ちゃん、えらい!」

 そう言いながら頭をなでてくれた。

「えらいのはミーちゃんだよ。もう、すっかり良くなったね」

 ブンブンと首を振り、

「それも、お兄ちゃんのおかげ、お兄ちゃんを見てたら、ミーちゃん、いつのまにか歩いてた。心の底から叫んでた。全部、お兄ちゃんのおかげ!」

 ぼくもミーちゃんの頭をなでてあげた。

 あと、もう一人、銀ちゃんが、

「戻るかね? ハト君?」

 ぼくは首を振り、

「いえ、もう少しこのままで。ちょっとだけ、勝利の余韻という奴に浸っても、バチは当たりませんよね」

 銀ちゃんがクスクス笑い、

「そうだな、君たちの勝利を祝福する。あとで、いつでも、来たい時に緑亀邸へ来たまえ。私は君たちが来るのをいつでも歓迎するよ。もちろん美神もだ」

「ありがとうございます」

 こうして、ぼくの戦いは終わった。

 あとは風華姉さんの事だけが気がかりだった。


【赤月の悪魔】


 風華姉さんの死亡通知を知らせる電報が届いたのは終戦から一週間後の事だった。

 予期していたとはいえショックは大きかった。

 それでも、ささやかな葬儀を終える頃には、ぼくは平静さを取り戻していた。

 風華姉さんの墓は緑亀邸のそばに建てさせてもらった。

 あの例の滑走路のそばだ。

 四十五日の法要のあと、ぼくは風華姉さんの墓を訪れた。

 秋晴れの爽やかな良い天気だった。

 線香を焚いて、お供え物の花を供える。

 お祈りをしてぼくが立ち去ろうとすると、妙に老けた男とすれ違った。

 気になって見ていると、ぼくと同じように線香を焚き、お供え物の花を供えてから、お祈りしていた。

 ぼくは男が帰るまで待ち、帰り際に男を呼び止める。

「あの、風華姉さんの知り合いでしょうか? ぼくは風華姉さんの弟で、赤月破刀と言います」

 老け顔の弟がニッコリと笑い。

「君、風華少尉にそっくりだもんね。たぶん弟さんだろうとは思っていたけど、やっぱりそうなんだ。僕は黒岩大樹。風華少尉と同じ部隊にいた神風特攻隊の生き残りだよ。彼女の墓がここにあると聞いてね。墓参りに来たんだ」

 ぼくは驚きながらも、

「風華姉さんの最後を知っていますか? 知っているなら教えてください。姉の最後を」

 黒岩大樹は困ったような顔つきで、遠い目付きをする。

「この事は、一生、僕の胸に秘めて、誰にも話さないつもりだったんだけどね」

 腕組みをしながらマイッタナとつぶやき、

「これも神様のお導きかもしれないね。すべては神の思し召しのままに、エイメン」 

 と言って十字を切る。

 慌てたように、

「ああ、勘違いしないでね。

 僕はクリスチャンってわけじゃないから。

 洗礼も受けてないし、教会にも行ったことがないよ。

 ただ、この世には人智を超えた大いなる者が存在していて、他に呼び方がないから僕はそう呼んでるだけ。

 まあ、こんな話はどうでもいいか。

 さて、風華少尉の話だったね。

 彼女は優秀だったよ。

 ゼロ戦に乗れば誰よりも強く。

 戦闘機動は誰よりも鋭く。

 そして、誰よりも優しかった。

 僕たちにとっては女神のような存在だったよ。

 しかも戦果を次々にあげた。

 ガダルカナルでは九機の戦闘機を撃墜し、二隻の巡洋艦を沈めている。

 その事から彼女はアメリカ軍から、こう呼ばれる事になった。

 レッド・ムーン・デーモン。

 赤月の悪魔、とね。何でそう呼ばれたかと言うとね。

 彼女の機体の翼と尾翼に赤い三日月のペイントを施したからなんだ。

 上官には、こう説明したよ。

 彼女は唯一の女性パイロットだし、素晴らしい飛行技術の持ち主だから、彼女を中心に編隊を組みたい。

 その上で彼女を識別しやすいよう、彼女の機体に何かマークを入れたい。

 って進言したんだよ。

 その上官は帝国軍人のわりには話の分かる男でね。

 すぐに許可してくれた上に赤月だから赤い三日月のマークがいいだろうって言ってくれたんだ。

 ともかく、風華少尉はその後も華々しい戦果をあげた。

 そう、終戦の五日前までは。

 今でも何で軍上層部が風華少尉を、いえ、僕らの部隊に神風特攻隊の命令を下したのか理解出来ない。

 僕らは、少なくとも風華少尉は、特攻なんてすべきパイロットじゃなかったはずだ。

 部隊の誰もが、そう思った。

 上官もそう思った。

 だけど、彼女は、風華少尉はその命令に逆らう事なく、令に和をもって受け入れたよ。

 略すと、

《令和》だね。

 それはともかく、まるで、これこそが自分の本懐だ、とでもいったような顔つきで、誰もが悔やしがった。

 上官も自分の不甲斐なさを責め立てた。

 そして、上官はある提案をした。

 風華少尉だけ特攻に必要な爆薬ではなく、アメリカ軍と単機で戦えるだけの重武装を、そして、戦闘が終わったあと生きて帰れるだけの燃料を積み込もうと、誰も反対する者はいなかった。

 誰もが上官の提案に賛成した。

 風華少尉も上官の命令なら、と、素直に受け入れた。

 そして、終戦の日、あと数時間で戦争が終わるという事も知らずに僕らは飛び立った。

 たった五機のささやかな小隊だけど、彼女の最後のフライトを見ようと、兵舎からは一斉に兵士が飛び出した。

 なかには負傷している兵士もいた。

 畏怖と敬意を込めて、彼女の機体が水平線の彼方に消えるまで全ての兵士が彼女の機体を見続けた。

 まるで生涯、彼女の事を忘れないようにするかのように、瞳に焼き付けていた。

 小島の基地を飛び立って三十分もするとアメリカ軍が見えてきた。

 偵察の話では輸送船と、それを護衛する駆逐艦一隻のはずだった。

 ところが会敵してみると、さらに重巡洋艦一隻、それに空母が一隻、付き従っていた。

 いつの間にか合流していたんだ。

 仲間の一人が駆逐艦に体当たりし大破した。

 駆逐艦はかなりのダメージを受けていたが、まだ重機関砲が一台生きていた。

 僕は迷わず、その重機関砲に向かって特攻した。

 仲間の体当たりに動揺したのか重機関砲は全く撃ってこなかった。

 あと少しで駆逐艦を潰せる、と思ったその瞬間、駆逐艦の背後から飛び出した重巡洋艦の機銃掃射を受けて僕の機体は両翼が吹き飛ばされた。

 僕は駆逐艦を大きく飛び越えて海に墜落した。

 沈む機体からやっとの思いで抜け出した僕は波間を漂いながら、その後の戦闘を見守った。

 仲間の一機が重巡洋艦に特攻する。

 が、あと少しという所で艦砲射撃の餌食になる。

 空中で花火のような大爆発を起こした。

 破片が重巡洋艦をかすめた。

 そのすぐあとだった。

 アメリカ兵が一息つく間もなく爆発の爆炎の中から突然現れた風華少尉が正確無比に爆弾を投下。

 重巡洋艦が爆発、炎上する。

 駆逐艦の機銃掃射を海面スレスレに大きく旋回しながら難なくかわす。

 彼女の戦闘機動はまるでツバメのようだよ。

 誰も彼女を捉える事は出来ない。

 そうこうしているうちに、彼女に気をとられていた駆逐艦が仲間の特攻を受け砲台の大半を失った。

 護衛を失い空母はまる裸だ。

 あと少しだ。

 と安心したけど甘かった。

 すでに三機の戦闘機が発艦し、さらに次々に発艦すべく空母上では慌ただしくアメリカ兵が右往左往していた。

 仲間はもういない。

 彼女は単機で敵を迎え討たなければならなかった。

 彼女は海面スレスレを駆け抜けながら時折上昇して敵を一機、二機と落としていく。

 この飛びかたなら少なくとも海からの攻撃は受けないわけだ。

 それでも徐々に敵戦闘機の数が増えてくる。

 彼女が撃墜する数より発艦する戦闘機が多いという事だ。

 すでに十機を越えている敵に手を焼き始めた彼女が急上昇し爆弾投下。

 空母の艦上で大爆発が起きる、残りの機体が吹き飛び、滑走路も発艦不能なほどの被害を受ける。

 あとは彼女の独壇場だった。

 並みいる敵の間を縦横無尽に駆け抜け、次々に撃墜していく。

 大破した艦上にアメリカ兵が集まり、呆然と彼女の戦闘を見つめながら口々にこう言い始めた。

 レッド・ムーン・デーモン、

 赤月の悪魔だ、とね」


【この誰の物でもない空のために】


「アメリカ軍の全ての戦闘機を撃墜し、これで日本へ帰れる。

 彼女は生きて日本へ帰れるんだ! 

 と僕が無邪気に喜んでいたら、急に彼女が右急旋回し回避行動を取った。

 凄まじい轟音とともに、上空から見た事もない銀色の戦闘機が彼女に襲いかかってきた。

 その戦闘機にはプロペラがなく、後方から炎を吹き出していた。

 凄まじいスピードで回避したはずの彼女の背後に迫る。

 明らかに二倍の速度はあったと思う。

 アメリカ軍に、こんな凄まじい戦闘機があったのだ。

 アメリカ兵が口々に、

 ジェット、ジェット! 

 と叫び始める。

 あの戦闘機はジェットというのだろうか。

 彼女がどんな回避運動をとっても恐ろしい速度で追い付いてくる。

 風華少尉が突然急上昇を開始、遅れてジェットも急上昇を始めた。

 が、その時点で彼女は急ブレーキをかけていた。

 ジェットが彼女を追い越して空高く舞い上がる、逆に彼女の機体は機首を先頭にして倒れ込むように海に向かって落ちていく。

 いや、むしろエンジンを全開にして海に突っ込んでいった。

 アメリカ兵が口々に、

 クレイジー、クレイジー! 

 と叫ぶ。

 が、彼女は意に介さず海面スレスレで反転、同じタイミングでジェットも高高度で反転した。

 彼女への突進を開始、一陣の風が吹いた、曇りがちの空から黄金のカーテンのように明るい日差しが差し込んだ。

 海は少し沈んだような暗い色合いで、だけど妙におだやかだった。

 誰もが固唾を飲んで、この一騎討ちを見守った。

 時代は大鑑巨砲の、力押しの時代から、航空機の時代へと移っていた。

 物量作戦、数の多いほうが勝つ。

 という、数の論理がまかり通る戦場で、ただ戦闘機同士の戦いだけは、その論理が通じない。

 純粋にパイロットの腕が、操縦技術だけが、何者をも恐れない、誇り高い騎士の精神だけが、勝負を決する。

 この誰の物でもない空のために、彼らは戦うのだ。

 ジェットの銀色の機首が赤い炎を吐き出す。

 風華少尉も同時に応戦、機銃が火を放った。

 勝負は一瞬だ。

 すれ違い様ジェットが爆発、風華少尉も被弾し機体が炎を上げて黒煙を撒き散らした。

 だが、かろうじて飛行を続けた。

 アメリカ兵の一人が、まだ使える機関砲を構えて狙いをつけるが、指揮官らしき人物が発砲を押しとどめる。

 フェアプレーの精神だろうか? 

 彼女を恐れながらも、彼女に敬意を表していた。

 その目に焼き付けるようにアメリカ兵たちが赤月の悪魔の最後を見つめ続けていた。

 やがて彼女の機体は水平線の彼方へと消え去った。

 その後の彼女の行方はようとして知れない。

 わずか二ヶ月間だけ彼女は戦場の空に存在した。

 そして、赤月の悪魔とまで呼ばれるようになった。

 正式には、彼女の死亡は終戦日の八月十五日だけど、僕は、まだ彼女が生きているような気がする。

 これといった理由はないけど、ただ、そんな気がするんだ」


【白い翼】


 黒岩大樹が立ち去ったあと、ぼくはもう一度、風華姉さんの墓と向かい合った。

「ぼくも、そんな気はしてたんだ。風華姉さんが、そう簡単に死ぬはずがないって」

「お葬式の時に妙に落ち着いていたし、全然、落ち込んだ様子がないから、変だな~って思ってたけど、やっぱり生きてる可能性があったんだ、風華さん! 良かったね、ハト君!」

 いつの間にか青空ひばりがそばにいた。

「風華さんの実力を持ってすればアメリカ兵などにやられるはずがない、と死亡通知が来た時からアタシは確信していたがな」 

 ひばりの横で黄蝶がドヤ顔をする。

「風華お姉ちゃんは生きてるの! 絶対生きてるの!」

 二人の横に立って緑亀美神ことミーちゃんが小さな両の拳をグッと握って力説していた。

 ひばりが白いグライダーの模型を持っていた。

 ぼくは、

「ひばり、そのグライダー、ちょっとだけ貸してくれないかな?」

 ひばりがグライダーを差し出し、

「新型だから大事に扱ってね」

 黄蝶が、

「新型と旧型の区別がつかない」

 怒るひばりをミーちゃんが制し、

「早く飛ばすの、グライダーを空に飛ばすの!」

 と、せかすので、ぼくは、元・滑走路の坂まで勢いよく走る。

 生きている。

 風華姉さんは、この広い空の下のどこかで、今も生きている! 

 そんな願いを込め、白いグライダーを大空に解き放つ。

 山風に押されて速度を増すグライダー。

 一転、海風を受けて急速に上昇していく。

 青空に吸い込まれていく白い翼は、すべての束縛から解放されたかのように、いつまでも、どこまでも、空を飛び続けた。


   ☆完☆



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