第2章 2
生まれて初めて足を踏み入れた領主の屋敷は、洗練された美で統一されていた。豪奢な芸術品が点在しているとか、見るからに高価そうな家具が配置されているとか、そういうわけではない。かといって質素ということもない。必要な物が必要な分だけ、上質な物が大事に手入れされながら使われていると窺える美だった。
空の頂点を過ぎ、傾き始めた陽が、窓から差し込む。降りそそぐ日差しは案外と柔らかく、木造建築の邸内と相俟って、一種の荘厳さすら醸し出していた。
思わず足を止め、見入ってしまいそうになる。そんな時、
「レオ、お帰りなさい」
女性の声が、カティアの意識を引き戻した。
「ただいま帰りました」
立ち止まったレオが返す。カティアはレオからやや距離を空けて、斜め後ろに立った。
「父上はやはりまだですか?」
「そうね。でも、手紙は出してあるんでしょう?」
初めに声を発した女性が、首を傾げる。
「はい」
「なら、今日は早めに帰ってきてくれるわね」
「そうですね」
レオと女性は親しげに会話を弾ませている。
レオの後ろにはカティアとロイが左右に控えている。どうやら、女性の後ろにも誰かが佇んでいるようだ。ひとりは先ほどの執事長だとわかる。だが、もうひとりはカティアの位置からだと完全に隠れてしまっていた。
「ハンナも一緒にいたんですね」
「そうなの。今日はお勉強の日だったのよ」
「そうだったんですか。ちょうどよかったです」
ふいに、レオが背後を振り返る。青い瞳を突然向けられて、カティアはびくりと肩を震わせた。
「母上。手紙にも書かれていたかと思いますが、改めて紹介いたします。彼女がカティアさんです」
その場の視線が、一斉に彼女を射抜く。
「カ、カティア・オリオールと申します。よろしくお願いします」
上擦りそうになる声をどうにか抑えて、カティアは頭を下げた。領主夫人に見せるような、上品な振る舞いなどカティアは知らない。だから、代わりに深く深く頭を下げた。
「頭を上げて、カティアさん」
やや置いて、女性から声をかけられる。予想していたより優しい響きに、緊張感が少しだけ和らいだ。
ゆっくりと頭を上げる。レオと会話していた女性は、カティアをまっすぐに見つめていた。その顔を見た途端、カティアは心中で感嘆する。
(綺麗な人……!)
女性は美しい顔に、笑みを刷いた。
「初めまして。わたくしはセリーヌ・ルヴェリエ。ルヴェリエ領主の妻で、そこのレオの母よ」
「若様の、お母様……」
ちらりと視線をレオに向けて、もう一度セリーヌと名乗った女性に向ける。そして、カティアは再び驚いた。
まっすぐに伸びた、灰色の髪。瞳は澄み渡る緑色。華やかな美貌を惜しげも無く放つ女性は、どう見てもレオと同じぐらいの若々しさだった。
恐らく成人しているであろうレオの母親だとは、とても信じられない美しさだ。
「ハンナ。君にも紹介したい。こちらに来てくれるかな」
レオの声が、ことさら優しくなった。
「………………はい」
躊躇いがちな声が、かすかに応えを返す。玻璃の鳴るような、綺麗な声だと思った。
「…………っ」
思わず、息を飲んだ。
「ハンナ、手紙は読んでくれたかな」
「はい」
セリーヌの後ろから現れたのは、ひとりの少女だった。しずしずとどこか遠慮がちな気配の少女は、おそらくカティアよりは年下であろう。
だが、カティアを驚かせたのは、それではない。
「なら、なにがあったかは知っているね。手紙にもあったかと思うけど、彼女がカティアさんだよ。しばらくの間、離れに住むことになった」
少女はレオより頭ひとつ分、いや、ふたつ分は背が低いだろうか。控えめにレオを見上げる瞳は澄んだ青で、金色のまつ毛に縁取られている。白皙の肌に、長いまつ毛が影を落としていた。
見るからに華奢なその身を包むのは、波打つ豊かな金髪だ。背を半ばまで覆う髪は、少女が身動ぎする度にきらめきを放つ。
(しょっ、正真正銘の美少女だー!?)
カティアは瞬きも忘れて見入る。
まさしく、正統派の美少女がそこにいた。
「カティアさん。彼女はハンナ。私の婚約者だよ」
「…………ハンナ・トニソンです。よろしくお願いします」
「……えっ、あっ! カティア・オリオールです。突然申し訳ありません。よろしくお願いします」
カティアは再び頭を深く下げる。美少女は声まで綺麗なんだと感動する傍ら、彼女の意識は別のことを考えていた。
――レオがハンナを紹介する時に添えた、婚約者、という言葉が気になった。
(若様って顔がいいし、成人してそうな雰囲気だし。なにより、領主の跡継ぎなら、婚約者のひとりやふたりぐらいいたって当然、……だよね)
下げていた頭を上げながら、ハンナという美少女の顔を覗き見る。
(それに、これだけの美少女なら、お似合いだな……)
レオとハンナが並び立つ姿は美男美女と言うしか他なく、溜め息が出そうなほど釣り合いが取れている。
レオは、ハンナにことさら優しい声をかけていた。それはきっと婚約者への愛情の表れだろう。ハンナにカティアを紹介したのは、婚約者が自分以外の異性を伴って帰ってきたことに対する不安の解消を目的としたものだろうか。誠実だ。
「ハンナは別宅に住んでいてね。週に数回、この本宅に来るんだ」
カティアはさらに驚く。
(別宅とはいえ、もう一緒に住んでいるのね!?)
「ハンナ。こちらに来た時でいいから、カティアさんのことも気にかけてあげてほしい。なにかと心細いだろうから、話し相手にでもなってあげてくれ」
「はい、レオにいさま」
そんな、恐れ多いことを、と口を挟む前に、彼らの間で話はまとまってしまった。
優しそうな美少女は、本音では嫌だろうに、レオの言葉にすんなりと頷く。カティアの心中が、申し訳なさでいっぱいになった。同時に、ちくりと痛む。
(……わたし、どうして残念な気分になってるんだろ……)
レオの口から婚約者という言葉を聞いた瞬間から、知らず知らずの内に彼女は落ち込んでいた。それがなぜなのかは、本人もわからない。
ふと考え込むカティアを、レオの母が観察していた。
緑色の瞳が、カティアの衣服に向けられる。ロングスカートの下半分、膝より下になるであろう所が、土で汚れているのだ。
おそらく、カティア本人は気づいていないだろう。かといってそれをこの場で指摘するのは憚られた。
「カティアさん。疲れているでしょうから、先にお湯を浴びてきたら? ゆっくり浸かって、お茶でも飲んでひと息を入れれば、その頃にはジェイムズ様も帰ってくるわ。話は夕食の時にでも、それでかまわないでしょう?」
最後と言葉はレオに問いかけられた。視線を向けられて、彼は頷く。
「問題ないでしょう」
「なら、決まりね。カティアさんにはわたくしのメイドを付けるわ。ケイト」
「はい、奥様」
影からひとりの女性が現れた。紺色のロングワンピースを纏った女性は、カティアたちより年上のようだ。にこにこと人好きな笑みを浮かべている。
「では、さっそく参りましょう。離れへとご案内いたします。どうぞ、カティア様」
「は、はい。よろしくお願いします」
女性に導かれ、カティアは歩き出す。その後ろ姿を、レオたちが見送った。
次の投稿予定日は9/28(火)です。