第2章 どこかで聞いた声
今日から第2章が始まります。
馬車は緩やかに速度を落としていく。それは、レオが住まう家、即ちルヴェリエ領主の屋敷への到着を示してもいた。
馬車に揺られている内に、カティアの気持ちもいつの間にか落ち着きを取り戻していた。そして、目下ひとつの問題を抱えている。
(領主様に会うの、緊張する……!)
足元から上げた視線をどこともなく向けながら、彼女はそんなことを考えていた。
レオはルヴェリエの領民から『若様』と呼ばれている。それは彼が次の領主として認められているからでもあるが、彼の父親が現在のルヴェリエ領主でもあるからだ。
レオの家に行けば、領主とも顔を合わせることになる。いち領民でしかないカティアにとって、領主やその家族というのは殿上人のような存在だ。そんな雲の上の人に直接会うのだから、今から緊張してしまって仕方ない。
レオとロイはなにも言わない。カティアも喋らないから、馬車の中は沈黙で満ちている。独りでに緊張していく気持ちをどうにかほぐしたくて、カティアは膝に置いた手でロングスカートの布地を軽く引っ掻いてみたり、手を組んでは緩めてみたりとしていた。
「……もしかして、緊張してる?」
沈黙が、ふいに破られた。
「えっ……」
声をかけられて、カティアは慌てて焦点をレオに据えた。彼女を見つめる濃い青の瞳と、視線がかち合う。
「手」
言葉少なに指摘された。
見られていた。理解して、彼女の顔は赤く染まる。
「すっ、み、ませ……っ」
「いや、いいよ」
慌てて手を握り締めたカティアに、レオは優しく笑いかけた。
「緊張する必要はないよ。父上と母上……ルヴェリエ領主とその夫人は、領民の目線で物事を考える人だ」
カティアをまっすぐ見つめたまま、彼は続ける。
「領主と領民だからといって必要以上の線引きはしないし、むしろ、困っている人がいれば率先して手を貸す。そんな人たちだから、あなたのことも歓迎すると思う」
話すレオの声は、誇らしげだった。
実際、彼にとって、両親は誇らしい存在なのだろう。ルヴェリエ領主は、領民からの評判がいい。善政を敷き、領民に寄り添った領地運営をしている、と好意的だ。だからこそ、レオも若様と呼ばれ、慕われている。
レオの両親はどんな人たちだろうか、と考えて、カティアの胸がかすかに痛んだ。彼女の家族はもういない。三年前に亡くなった、最後で唯一の家族だった人を思い出し、胸はさらに痛む。
「優しい人たちなんですね」
どこか困ったように、カティアは薄く笑った。なにも知らないレオを恨む気にはなれない。
がた、と音を立てて馬車が止まった。少しの間を置いて、扉が外から叩かれる。
「到着いたしました」
「わかりました。今、降ります」
御者からかけられた声に、ロイが答えた。素早く腰を上げ、扉を開け降りていく。
「レオ様、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
名を呼ばれて、レオは先に降りた。
(わたしも降りて、いいんだよね?)
迷いながらも、カティアも立ち上がる。いつまでも馬車に乗っているわけにはいかないだろう。
そろそろと歩を進めようとした彼女に、ロイの黒い瞳が向けられる。
「カティア様もどうぞ」
「さっ……!?」
思わず足が止まった。まさか様付けで呼ばれるとは思わなかったのだ。
今までの彼女の人生に様付けで呼ばれた機会はなく、なんとなく居心地の悪さを感じる。訂正しようかとロイを見るが、彼はさも当然のことをしたまでという表情だ。
どうしようかと考えて始めたところで、ロイの後ろでカティアを待つレオの姿を見つけた。
「どうぞ」
手が差し出される。あとでお願いしよう、と決めて、カティアはロイの手を取った。
「お帰りなさいませ、レオ様」
馬車から降り、レオの隣に立ったところで、誰かが声をかけてきた。
「ただいま、ヴェリ」
レオが親しげに挨拶を返す。
そちらに目を向ければ、仕立てのいいスーツに身を包んだ男性が立っていた。歳の頃は不惑と知命の半ばほどだろうか。にこやかに微笑む顔に、薄く皺が刻まれ始めている。
男性の黒い瞳が、カティアに向けられた。
「その方が、カティア・オリオール様ですか」
また、様付けで呼ばれてしまった。彼女の動揺を知らぬまま、レオと男性の会話は続く。
「そうだよ。カティアさん、紹介するね。彼はヴェリ・バルド。我が家の執事長だ。滞在中、なにか困ったことがあれば、彼になんでも言ってほしい」
「ヴェリ・バルドでございます。カティア様、どうぞお見知りおきください」
「カティア・オリオールです。よろしくお願いします」
執事長だと紹介されたヴェリは、笑みを深めて優雅に頭を下げた。カティアも慌てて自己紹介し、ぺこぺこと頭を下げる。
そして、ふと気づいた。
バルドという名字。黒い髪と黒い瞳。それらがとある人物を彷彿とさせて、カティアはその人にちらりと目を向けた。
途端に、楽しげな笑い声が生まれる。
「正解だよ。ヴェリはロイの父親だ」
「やっぱりですか」
思わず呟いてしまう。
息子を見るヴェリの表情は楽しそうだ。対するロイは無表情だが、なんとなくむすっとしている気がする。
父親と息子というものは、こういうものなのだろうか。父も男兄弟もいないカティアには、不思議な光景である。
「……執事長。奥方様がお待ちではありませんか?」
息子から父にかけるにしては業務的な声が、ロイから発せられる。その平坦さを気にすることなく、執事長は背後の玄関を見やった。
「そうですね。そろそろ、奥方様もお越しになっているでしょう」
彼は玄関扉に手をかける。ステンドグラスが嵌め込まれた木造の扉は、軋むことなくゆっくりと開かれていった。
「行こう」
この向こうに、領主とその夫人がいる。改めて突きつけられると、どこかに行っていた緊張感が、カティアの元に帰ってきてしまった。
「……はい」
先導するレオの後ろに続き、カティアも扉をくぐったのだった。
次の投稿予定日は9/25(土)です。