第1章 5
いち領民でしかないカティアでも、自分が住む領の領主の息子の名前ぐらいは聞いたことがある。さすがに顔は知らなかったが。
だが、彼女の中で、なにかが引っかかる。目の前の青年の名を、どこかで聞いたことがあるような気がした。しかし、それがどこかは、すぐには思い出せない。
「若様が、なんでこんな所に」
「年に一度の視察でね、たまたまピリアーに来ていたんだ」
「そうなんですか……」
レオは、意識して優しい笑顔を作る。
「それで、君はカティアって言うのかな? さっき、そう呼ばれていたようだけど」
そう問われて、カティアは自分が名乗っていないことに気づいた。慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「わたしはカティア・オリオールといいます。……この家の者です」
後半は焼け落ちた家に目を向けて、彼女は言った。その横顔は涙で濡れている。
無理もないことだ、とレオは思った。成人しているかどうかという年頃の少女だ。仕事に行っていたら急に呼び戻されて、変わり果てた我が家を目の当たりにしたら、混乱するだろう。カティアの心痛を慮り、レオの胸は締め付けられる。
「そうか……。カティアさんは仕事に行っていたと聞いたけど、他に家族は?」
「いません。わたし独りです」
小さく首を振る。
そう。カティアは、今はひとり暮らしだ。家族はもういない。だからこそ、前はいた家族との思い出が詰まった家を大切にしていた。
だが、その家は焼けてしまった。少しばかり焼け残った思い出の品も、家財道具も、見るも無惨な状況となっている。
強い喪失感と虚無感が彼女を襲う。まるで、心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようだ。
「そう……。怪我がないのはなによりだけれど」
レオは眉を下げる。
「家を建て直すにしても、引っ越すにしても、まずは君の生活を確保するのが最優先だ。身を寄せられる親戚なんかは……」
カティアは、もう一度頭を振った。
「いません。母方の親戚は、母が生まれてすぐぐらいに死に別れたと聞きましたし、父も天涯孤独の身の上だったらしいので……」
歳若い少女が、自力で収入を得て、独りで暮らしていた。頼る親族もいない。
「……これから、どうしたらいいんだろう……」
ぽつりと落ちた呟きに、レオの心は突き動かされた。
「なら、うちに来ればいい」
「え……」
弾かれたように、カティアが顔を上げる。レオの後ろに控えているロイからも凝視されているのが、彼には察せられた。
自分でも、突拍子もないことを言い出しているのはわかっている。それでもレオ本人ですら止められず、また止める気もなかった。
今ここでカティアと別れてはいけない――なぜだか、そんな気がしてならない。
「そっ、んな、ご迷惑は、かけられません」
カティアはつっかえながらも断りを口にする。当然だろう。はいわかりました、と素直に頷ける者がいる訳がない。
けれどレオはそれを無視して、次の問いを口にする。
「君は農業ではない他の仕事をしていると聞いたけれど、どこで働いているの?」
「え……。ラフのまちなかです」
うん、と頷いた。
「それなら、ルクルスからも近いね。うちから仕事に通うのも、問題はなさそうだ」
「それは、そうかもしれませんが」
にっこりと笑うレオに対し、カティアは戸惑い続けている。
ルクルスもラフも、ルヴェリエ領内の地名だ。ラフはピリアーの隣街で、商店が多い。ルクルスにはルヴェリエ領主の屋敷があり、いわゆる領都の扱いだ。
ピリアーはルクルスと隣り合っているが、ラフとルクルスは直接は隣り合っていない。だが、ルクルスからラフのまちなかまで大きい道が繋がっているため、行き来は容易だ。
「ですが、だからといって、若様や領主様たちにご迷惑をおかけするわけには」
カティアは改めて固辞する。そもそも彼女には、レオがどうしてそんなことを言い出したのかもわからなかった。
けれども、レオの追求の手は止まらない。
「なら、聞くけど。君はどうするつもりなのかな? 身を寄せられる親戚はいない。ピリアーの住民を頼ろうにも、今は大麦の収穫の最盛期だ。はっきりいって、君の世話までしている余裕はないだろう」
レオの言葉は正論だった。そして、それはカティア自身でもわかっていたことだった。だからこそ、自分なりの考えを口にする。
「仕事場に、泊まろうかと」
「仕事場に?」
髪の色と同じ、濃い灰色の眉がひそめられた。
「それは勧められないな。君がなんの仕事をしているのかは知らないけど、家が焼けたなんていう大きな傷を心に負ったばかりで、仕事場なんていう気の休まらない場所で寝泊まりするなんて……。早晩、君は倒れるよ」
カティアは唇を噛み締めた。レオの言葉はどれも正しくて、彼女にぐさぐさと突き刺さる。
こういう時、自分は独りぼっちなのだと、カティアは改めて思い知る。唯一の家族だった人は、三年前にこの世を去った。その人の優しい笑顔が思い浮かんで、俯いた視界が滲む。
「……うちは代々領主をしているからか、家は大きいんだ。今ならちょうど離れが空いている。ねえ、ロイ」
「そうですね」
ちらりと視線だけを背後に投げれば、ロイが頷いた。
「なにも、ずっと暮らし続けろとは言わない。君の心が落ち着いて、生活を立て直す目処が立つまででいい。それまでの間、うちにおいで」
優しく語りかけてくる声が、カティアの心に染み渡る。唯一の家族だった人を亡くしてから三年間、必死になっていた心が、ほどけていくようだった。
「…………本当に、いいんですか……」
「もちろん。私たち領主は、領民から税を徴収するためだけに存在するわけじゃない。困っている領民を助けることこそ、私たちの仕事だ。遠慮しなくていいんだよ」
ぶわりと、涙が溢れた。
「よろしく、おねがい、……します……っ」
小さく頭を下げる。次から次へと溢れる涙は止められない。嗚咽を押し殺して、カティアは両手で顔を覆った。
その姿を、レオは満足そうに見つめていた。
次の投稿予定日は10/19(日)です。