第1章 4
穏やかな空気が、一瞬にして凍りついた。
「火事……!? どこで……!」
麦わら帽子の男性が、勢いよく顔を上げる。左右に走る視線が忙しない。
「あちらのようですね」
ロイが指をさした。麦わら帽子の男性とレオはそちらを見る。方向は、彼らの進行方向をずっと行った所だった。
大麦畑の向こうに、黒煙が立ち上っている。
三人の顔色が変わった。
「あれか……! 行こう、ロイ」
「はい」
頷き合い、走り出そうとした。そのレオを、麦わら帽子の男性が止める。
「若様、危ないです!」
「火には近寄りすぎないようにする。消すのに、人手が必要になるだろう? 私とロイが協力する」
「ですが……」
横目でちらちらと煙を窺いつつも、男性はレオを引き留めようとする。その気持ちが、彼には理解できた。
レオは次の領主だ。その彼に、下手に怪我をさせたくない……というのが、麦わら帽子の男性の思いでもあるだろう。
だが、事態はそうも言っていられない。
「それに、領民の危機を見過ごせない」
青い瞳が、まっすぐに男性を見据える。ぐ、となにかを飲み込んで、それから渋面になった。
「わかりました。あの場所なら、こっちの方が近いです」
渋々といった声で、男性は頷いた。
今まで歩いていた道から逸れ、男性は畑の間の畦道を走る。麦わら帽子のあとを、レオとロイも駆けた。
火に巻かれているのは、平屋造りの小さな一軒家だった。他の民家からは離れている。おかげで延焼の可能性は低くなったが、別の問題があった。
水場が遠い。
田畑からも離れているため、せっかく実った大麦が焼かれてしまう、という心配も少ないが、いかんせん水場が遠い。だから仕方なく、動ける領民たちがここから最も近い溜池まで列をなし、水の入った木桶を手に手に移していく方法しか取れなかった。
レオとロイと、麦わら帽子の男性がその中に加わってから、どのぐらいの時間が経っただろうか。黒煙が少しずつ小さくなっていく。燃え盛っていた火が見えなくなり、確認のために見回ったひとりの領民が、ようやく「鎮火した」と宣言した。
「……むごいことだ」
誰かの呟きが、レオの耳まで届いた。
遠巻きに眺めていた領民たちが、鎮火の声を聞いて集まってくる。
「ほぼ全部焼けちゃってるじゃない……」
「怪我人とかはいないの?」
「ここしばらくは、火事なんかなかったのにねえ」
領民たちは思い思いに感想を述べている。いまだ白い煙を細く立ち昇らせている火事現場をしっかりと目に焼き付けてから、レオは麦わら帽子の男性に振り返った。
「この家の人はどうしている?」
「ここはカティアの家ですね……。今の時間なら、おそらく仕事に行ってると思います」
「仕事?」
おや、と引っ掛かりを覚える。ピリアーの住民は、そのほとんどが農作業に従事しているからだ。レオはてっきり、自分の後ろで野次馬をしている領民たちの中に家主がいると思い込んでいた。
「はい。……なあ! 誰か、カティアを呼びに行ったか!?」
麦わら帽子の男性は、レオにひとつ頷いてから、背後を振り返る。大声で問いかければ、野次馬の中からひとりの女性が歩み出てきた。
「うちの旦那が行ったよ! 馬で行ったから、そろそろ帰ってくるんじゃないかい」
「ああ、あんたんとこのが行ってきてくれたか。いつ行った?」
腕を組み、女性は首を傾げる。
「そうだねえ……火事だってなって、若様たちが来てくれてから、少ししてだね」
「確かラフの街だったか? なら、もうそろそろ……いや、あれか」
視線が一斉に一ヶ所を見やった。一軒家へと続く道を、ふたりの人間を乗せた馬が駆けてくる。忙しなく動く蹄が、かすかな土煙を立てていた。
「カティアちゃん!」
数人の女性が名を呼ぶ。
「おばさま!」
馬に乗るふたりの内のひとり、少女が叫んだ。
そうこうしている内に、馬はレオたちへと近づいてくる。レオを始めとした全員が後ろに下がり、空間を作れば、一軒家の正面に馬は止まった。ざり、と音を立てて、砂煙が上がる。
「下りられるか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう、おじさま」
少女は器用に馬から下りる。抱きとめるべきかとレオは考えたが、その必要はなかった。
続けて、同乗していた男性――麦わら帽子の男性と話していた女性の夫も、下馬した。そのまま手綱を引き、歩き出す。近くの木に、縛りに行くようだった。
「なんて……こと……」
馬から下りた少女は、一軒家の方を見て硬直した。黄色の瞳が、大きく見開かれる。健康的な色をした肌が、一気に青ざめた。唇が震えて、かすれた声をもらす。
「そんな……」
ふらふらとした足取りで、一歩、二歩、前へ出た。目は、焼けた家へと釘付けになっている。
「カティア、危ない!」
その腕を、麦わら帽子の男性が引いた。
「……っ」
緩慢な動きで、カティアと呼ばれた少女は麦わら帽子の男性を振り返る。瞳は喪失の色をまとい、今にも涙が溢れんばかりだった。
「鎮火はしたが、まだ中で燻ってる可能性がある。下手に近づけば、お前まで焼けるぞ!」
男性の言葉に、カティアはとうとう立っていられなくなったようだった。地面にへたり込む。視線は再び、焼けた家に向けられていた。
「なんで……どうして……」
見開かれたままの瞳から、大粒の涙が次から次へと流れ出す。彼女の悲嘆は、仕方のないことだった。
平屋造りの小さな木造一軒家は、半分以上が黒く焼け落ちている。一部は焼けずに元の姿を残しているが、住み続けることは不可能だ。焼け落ちた場所も、火を逃れた場所も、水に濡れて悲惨な状態になってしまっている。
崩れ落ちた木材の隙間から覗く、焼けていない場所の生活感が、ひどく痛ましい。
「なんで、火事なんか……」
虚ろに呟く少女を、領民たちは遠巻きに見つめている。誰もが声をかけることができず、その表情は一様に悲痛だ。
そんな中で、ひとりが動いた。
「突然、失礼。あなたが、この家の住人かな?」
不意に、肩に触れたぬくもり。カティアは勢いよく顔を跳ね上げて、そして止まった。
間近に顔がある。濃い灰色の髪に、濃い青の瞳の、整った顔立ち。彼女にとって、初めて見る顔だった。
「あなたは……?」
「私はレオ・ルヴェリエ。現領主の息子で、私自身は次の領主だよ」
「レオ……ルヴェリエ……? 次の……、若様……!?」
カティアの声が、驚きに染まった。
次の投稿予定日は10/16(木)です。