第1章 3
リシダッド王国。大小様々な国からなる大陸の片隅に、その国はある。
北には峻険な山脈を背負い、南は大洋に広く面している。かつては領土をめぐる苛烈な争いに巻き込まれていたが、今は昔のことと平和を享受する、穏やかな国だ。
そんな王国の東側に、ルヴェリエ領はある。
リシダッド王国は、各地域を治める領主と、それを束ねる王族からなる。いわゆる貴族はおらず、各地域の領主はみな等しく同じ立場とされていた。
領主は必ずしも世襲制ではないが、地域名と同じ家名を名乗る決まりがある。だから、ルヴェリエ領の領主はルヴェリエ家で、現当主の息子はレオという名だった。
※
高い空は、どこまでも青く澄み渡っている。時折たなびく白い雲が、さながら美しい風景画のようだ。
見上げていた視線を落とせば、大地に、薄い金茶色の絨毯が広がっている。吹き抜ける風に揺られて、絨毯はさらさらと音を立てた。
絨毯の合間を縫うように、老若男女が散らばっている。少し離れた場所には、水が張られた田んぼが青空を映していた。
「みんな忙しそうだけれど、笑顔だね」
「はい。確かに、この時期は忙しいですが、同時に楽しみでもあります。自分たちの成果を収穫する喜び、次の実りへの期待……苦労が報われる時期でもありますね」
人々が行き交う道の端に、三人の男性が佇む。その中で、麦わら帽子を被り、日に焼けた肌をした男性が、一番の年長に見えた。残りのふたりは、まだ若い。
「いつもいつも、こんな忙しい時期に来てしまってすまないね」
「いえ。むしろ、領主様や若様が見に来てくださることで、こちらも頑張れます。それに、若様の視察を、心待ちにしている民もいるんですよ」
麦わら帽子の男性が、薄い金茶色の絨毯の向こうへ、視線を投げる。若様、と呼ばれた青年も、つられてそちらを見た。途端、こちらの様子を窺っていたらしいうら若い少女ふたり組が、短い悲鳴を上げる。そしてしゃがみ込んだのか、姿が消えた。
青年は、困ったように笑う。
「……恥ずかしいな……」
「いいじゃないですか。領民からの支持を得ている次期領主。結構なことじゃないですか」
そう言って、麦わら帽子の男性はからからと笑った。対して青年は、苦笑を滲ませる。男性は一介の領民だが、年はレオの父と同じぐらいだ。まだ歳若いレオは、なかなか勝てない。
そうして、三人は歩き出した。
道の向こう側から、数人の子どもたちが駆けてくる。きゃいきゃいと騒ぐ子どもたちは、青年の姿を見つけると、満面の笑みを咲かせた。
「レオさま!」
「わかさま!」
若様と呼ばれた青年は、子どもたちに手を振って応える。はしゃぎながら、跳ねるように通り過ぎる子どもたちの手には、金茶色に実った大麦が抱かれていた。
「今年も立派な大麦だね」
「ええ。ありがたいことに」
歩を進めながら、彼らは金茶色の絨毯を見る。風に揺れるそれは、収穫の時期を迎えた大麦の畑だった。
濃い灰色の髪が、陽の光を浴びて白っぽくも見える。細められた瞳の色は、空より濃い青だ。
麦わら帽子の男性と談笑する青年の名は、レオ・ルヴェリエという。ここ、ルヴェリエ領の領主の息子だ。
「大麦はピリアーの特産だと聞いたよ」
「そうです。この小さな所がひとつの領としてやっていけたのも、そのおかげだとか」
「以前はピリアー領だったか」
そういえば、と呟くレオの横で、麦わら帽子の男性が頷いた。
大麦の収穫で賑わうこの辺りは、ピリアーという地域である。位置的には、ルヴェリエ領の中でも端だ。領内でも小さい方のピリアーは、先代のルヴェリエ領主――レオの祖父の時代まで、ピリアー領として独立していた歴史を持つ。
「私がここへ来るのはこれで2回目だけれど、いつ来ても心が落ち着く、いい場所だね。経緯はどうあれ、我がルヴェリエ領にピリアーの存在は誇らしいよ」
しみじみと、レオは語る。
彼は二十歳で、今年ようやく成人を迎えた。現領主は彼の実父で、まだまだ現役だ。レオは跡継ぎとして国王にも挨拶済みだが、領主交代の気配は遠い。それでも、十八歳になった二年前から、彼は少しずつ、領主としての仕事を覚え始めていた。その内のひとつが、今日の領内視察である。
足掛け数ヶ月ほどの時間をかけて、領内すべての地域をめぐる。今日のピリアー視察は、その終盤だった。
視察の目的は、領民に次期領主の顔を覚えてもらうこと、領民の生活を直接見て、触れること。領内の実態を知ること、……など、様々だ。
今のところ大きな問題はなく、ピリアーを含めて、いくつかの地域の視察を残すばかりとなっていた。
「なにか、困ったことや、こうしてほしいという要望はあるかな?」
「そうですねえ……。若様がいらっしゃる前に、他の者にも聞いてみたんですが……いざとなると浮かんでこないですね」
問われた男性は、首を傾げ唸る。
「そうだね。まあ、なにかあれば、その都度、遠慮なく言ってくれればいいよ」
「そう言ってもらえると助かります」
レオは優しく微笑んだ。それに対して、麦わら帽子の男性は、軽く頭を下げる。
ピリアーの視察も、特に問題はなかった。もう少し、この辺りを見て回ってから帰ろう。そう決めて、それを伝えようとレオは足を止めた。隣の男性と、無言で後ろに従う青年に向かい、口を開く。
「今日は、大麦の収穫と田植えの準備で忙しいところ、案内をさせてすまなかったね」
「いいえ。事前に連絡をいただいておりましたし、こちらこそ落ち着きのない中を……」
申し訳なさそうに頭を下げようとする麦わら帽子の男性を、レオが止めた。
「いや、むしろ、私としてはこれがよかったよ。おかげで領民たちの実際の生活を見れた。なあ、ロイ」
「はい」
レオは、隣の青年にも話の矛先を向ける。ロイと呼ばれた黒髪の青年は、言葉少なに同意を示した。
「私たちはもう少し、この辺りを見て回ろうと思う。ここまでの案内、ありがとう」
「もったいないお言葉です。……お見送りは?」
「かまわないでくれ。私たちも、時間ははっきりとは決めていないから」
にこやかに別れの挨拶を交わす。
収穫の時期を迎えたピリアーに、爽やかな風が吹く。それはまるで、風景画にでもなりそうな、穏やかな景色だった。
「火事だー!!」
誰かの叫び声が、響き渡るまでは。
次の投稿予定日は10/13(月)です。