第1章 事件の始まり
街灯がほぼない暗い道を、少女は歩く。
「遅くなったわね……」
溜め息混じりの声が、夜道に溶けた。
「まったく。あそこのおばあちゃんが話長いの、忘れてたわ」
自分以外は誰も聞いていないのを承知で、少女は愚痴を落とす。
「次は店長に行ってきてほしいわね」
はあ、と大きな溜め息をひとつ、また吐いた。
少女が小さく項垂れた時、背に流していた髪がひと房、頬にかかった。月明かりと少ない街灯しかない夜闇の中では、茶色の髪が濃く見える。それを、少女は鬱陶しそうに振り払った。
「家に着いたら、さっさと寝よう」
夜闇でも輝く黄色の瞳が、力強く前方を睨んだ。
街灯のほぼない道を、少女はひとり、ひたすら歩く。陽は既に落ち、時刻は夜となっていた。
背の半ばまで伸びた髪は、夜闇の中では濃い茶色。優しげな面立ちには、疲れの色が強く滲んでいた。黄色の瞳が、暗い道を見据える。
そんな少女の名は、カティアといった。
カティアは今、仕事場からの帰り道である。普段なら、こんな遅い時間に帰ることはない。沈みかける夕陽を浴びながら、自分と同じように家路を辿る人々と挨拶を交わしつつ帰るのが日常だ。
それが、今日だけは違った。帰りがけに、仕事場の店長から用事を頼まれたのだ。
カティアは、家がある村の隣街で働いている。仕事場は薬屋だ。もっとも、カティア本人は薬師ではなく事務方だし、薬師見習いの一歩目を踏み出したばかりのような状態である。
今日の営業を終えて、さあ帰ろう、というところで、彼女は店長に呼び止められた。
『帰るついでに、これを届けてきてくれ』
そう言って渡されたのは、数日分が入った薬袋。届けるだけだし、と安請け合いしたのが失敗だった。
家を訪ねて、出てきた老齢の女性の顔を見た瞬間に思い出す。
――このおばあちゃんか!!
その老女は、話が長いことで有名な人だった。気さくで明るいのはいいのだが、なんせ話が長い。頃合いを見計らって話を切り上げようとしても、うまく躱されて次の話題に移ってしまうのだ。さらには、お節介なところもある。
いい人なんだけど、積極的に関わりたくはない。そんなおばあちゃんだった。
そして案の定、カティアは老女の長話に捕まり、解放された時には陽が沈む寸前である。そこからどんなに急ぎ足で帰ろうと、家に着く頃には夜なのであった。
「もう、まったく、あのおばあちゃんったら。早く帰らないと夜になるよ、なんて言うんなら、もっと早く帰してほしかったわ」
こんなに帰りが遅くなってしまった経緯を思い出していたら、愚痴が再燃してしまった。老女本人にはぶつけられない言葉をこぼしながら、カティアは歩く。
「早く結婚しないと嫁の貰い手がなくなるよ、なんて、ほんとに失礼だわ。わたしはまだ十八よ。そりゃあ結婚はできる年だけど、成人してないのに」
カティアが生まれ育ち、住まうこの国では、男女共に十八歳から結婚ができる。ただし、成人は二十歳だ。十八歳で結婚できるというのは、あくまでも『子どもを作って産んでも問題ない』と考えられているだけである。実際には、二十歳を迎えてから結婚するのが一般的だ。
「ああ、もう。次は絶対に店長に行ってもらおう」
ここにはいない店長への怒りと愚痴があふれる。それを聞いているのは相変わらずカティア本人しかいないが、それでよかった。
カティアの家がある村は田舎だからか、道に街灯が少ない。いつもなら民家が多い道を通って帰るのだが、今日は早く着きたい気持ちから、近道になる森の中を歩いていた。
森とは言っても、ちょっとばかし木の本数が多い並木道、といった場所である。街灯は少ないし、民家の明かりもないが、満月に近い月の光が道を照らしてくれていた。
人の気配はカティア以外にない。それがなんとなく心細い。だから、愚痴をこぼす声の大きさも、独り言にしてははっきりしたものだった。
「ああ、もう。早く寝たい……」
大きな溜め息と同時に項垂れた、その時だった。視界の隅に、かすかな光が見えた。
「えっ!?」
カティアは慌てて顔を上げ、夜闇を凝視する。木立の向こう、枝葉が重なり合う地面近くに、ほのかな光があった。
「なにあれ……」
カティアの背が、ぞわりと粟立つ。
この辺りに、民家はなかったはずだ。街灯もない。昼間ならまだしも、夜になれば月明かりぐらいしか頼るものがほぼないから、人も通らないはずだ。
そんな所に、なぜ、光が?
理由に見当がつかない。心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
「なんで、あんなとこが、光ってるの?」
光を凝視したまま、そろそろと近づいていく。じっと見つめていると、その光はほのかに橙色で、時折ゆらりと揺れているようだった。
「あれは……蝋燭……?」
踏み締められた道の端、森の際との境まで来て、その光が蝋燭の灯火だとカティアは気づいた。枝葉でできた垣根の向こうを見透かす。地面に、手燭が置かれていた。
「蝋燭だわ。なんであんな所に。ていうか、危険じゃないの?」
そう言って、彼女は眉を寄せる。
謎の光の正体がわかった途端、カティアの中の恐怖は消えていた。その代わり、小さな怒りが生まれる。
「まったく、こんな所に火を放置して。火事にでもなったらどうするつもりなの」
呟く声が険しい。だが、カティアの言葉は最もなことだった。
この辺りは木が多い。もう少し行けば民家があるが、その家々も木造だ。蝋燭の小さな灯火とはいえ、火は火である。もし、万が一、下葉に落ちた火が、燃え広がってしまったら。
その時は、最悪の結果が待ち受けているだろう。
「忘れ物? それとも、近くに誰かいるの?」
どちらでもいいが、火を消してしまいたい。
手燭を取ろうと、枝葉に腕を突っ込み、顔も半ばほど埋めた瞬間、風が吹いた。
その風に乗って声が届く。
「……本当に、殺すしか方法はないのか?」
次の投稿日は9/7(火)です。