-母の死-
月明かりだけの海路は人の心まで沈ませてしまうほど不気味であった。
出航させてからというもののオールを漕ぐユアンも、膝を抱えて座るナスカもお互い何も話さない。
ナスカはただボーッと海を眺めては手元の本をパラパラめくる。その様子を見てユアンは気を遣い、本の話題を振った。
「さっき言ってたその本の台詞、実は私も知っているんだ」
「え!ユアンもこの本読んだことあるの?」
「いいや、ない。夢で見たことがあるだけ」
「夢で?」
首を傾げるナスカだが先ほどより目は輝いて見えた。
「……母親が死んでから、毎日同じ夢を見る。翡翠の瞳の猫が必ずそう言うんだ。」
「ふうん、変だね。これ読んだ記憶もない?」
「さっき図書室で仕掛けに使ったのと同じものだろう?布地で出来た本は見たこともない」
この暗闇の中でも一際黒い本にはとても目立つ金色の猫の刺繍がしてあり、下町で住むユアンが手に取ることもないような代物。
「作者の名前は?」
「それがね、書いてないんだよ。書き忘れたのかなあ」
確かにその本には作者の名前どころか、登場人物の名前すら書き記されていない。不思議に思ったユアンはオールを漕ぐ手を止めて、貸して欲しいと手を差し出す。ナスカはもちろん!と本を渡そうとユアンの手に触れたその時
ゴロゴロゴロ……
いつの間にか月明かりさえも消え去り、空は厚い雲がびっしりと敷き詰められていて、事もあろうかまったりしていた背筋を正すかのような、雷が落ちた。
「か、雷!?」
波は徐々に大きく荒れ始め、オールを漕ぐも前にも後ろにも進まず、必死に船へしがみ付くばかり。
「ナスカ!手を掴んで!」
ユアンは思いっきりナスカに手を伸ばすが、両手でやっと船にしがみ付いている体勢のため片手を離したら飛ばされてしまう。
そうこうしているうちにどんどん波は高くなり、焦ったユアンは自分の手を離して何とかナスカの元へ飛び移った。
「う、っぐ」
海水が2人の口の中へ入ってくる。
ナスカは既に気絶寸前で本だけを抱きしめていて、ユアンがその状態のナスカを抱きしめて船に捕まっている。
体中の傷口から大量の血が逃げていくのを感じて、ユアンの視界は真っ白になった。
「(クソッ……!)」
そして遂に手を離してしまい、そのまま2人の体は海へと投げ出された。流石にもう死ぬのかもしれない。そう思ったユアンの頭の中には在りし日の母との走馬灯が過った。
昔から体が弱く常に病床に伏していたユアンの母は、とてもおおらかで優しい人だった。
ユアンはそんな母を困らせたり悲しませたりしないように、騎士団で虐めにあっても毎日毅然とした態度で騎士として励み、城への住み込みを拒否して出来るだけ早く家に帰っていた。
父親はいない。ユアンが物心ついた頃にはもう居なかった。
決して寂しくはない。下町に帰れば母もいて、友達もいて、ある程度暮らせるお金はあって。とても幸せだった。
しかしユアンが14歳の冬、事件は起きた。
任務が終わりいつものように家に帰ろうと城を出ると、騎士団長に呼び止められ、今夜から明日の夜までの1日遠征を告げられる。
最初は拒否をしたがそれは敵わない。第一王子が狩猟大会に向けての訓練のため、危険な猛獣の多いゴラウの森に行くことになり、それの護衛だという。
家には一報をいれておくと言われ、渋々家に帰ることを諦めた。
その後護衛任務も終わり、森を抜ければ直帰で構わないと許可をもらったユアンは家に帰ろうと馬を走らせた。
空は曇天、今にも雨が降りそうだ。
何故か、嫌な予感がしていた。
家に辿り着くと、母の姿はなかった。
近所の者に聞いても、町の隅々を探してもどこにもいない。しかし一つだけ行っていない場所がある。
海岸だ。
ユアンはこれでもかというほどの冷や汗が出ていて、急ぐ足はもつれ、息がしにくい。
町を抜けると、やがて雨が降り注いだ。体を突き返すような風も吹く。
それでもユアンは海岸へ走り、息絶え絶えたどり着いた。だがそこにも母親の姿はない。
ピシャリと雷が落ち、反射的に光が走った方向を見る。
海に面した崖の上に、母親が居たのだ。
「お母さん!」
何度も呼ぶが荒れた海の波音で声はかき消され、こちらを向くことはない。ユアンはあんなところに何故、と考える前に走り出していた。崖を見ながら砂浜を駆けていると突然、紫色の落雷。ユアンは直感であの落雷は母を狙っているのだとわかった。心臓の音が早鐘を打つ。
走って走って、怪我しても走り、いつの間にか母のいる崖へと辿り着いた。
喉が切れ、痛みで声が出ないユアンはフラつく足を必死に奮い立たせ、不自然なほど落ちる雷も気にせず母親に近寄る。
「おか、……ざっ、げほっ」
母親は顔を歪め心配そうにユアンを見るが、崖の淵からは動こうとしない。あと少し、あと手を伸ばすだけの所で、紫の落雷がピシャリ。
2人の間へ落ち、その衝撃でユアンは吹っ飛ばされ、母親の立っている崖は綺麗に崩れた。
刹那、悲しそうに笑う母親の口元が動き、
"ご め ん ね"
ユアンの意識はそこで途絶えたのだった




