アレッタ・後
狩人は家に着くと閂を下ろし、まずランプと暖炉に火を点した。
暖炉の火と、小さなランプの灯り。
薄暗い部屋に揺れる、オレンジの光──部屋は閉めきってあるぶん外よりも暗い。
だがそれらは……籠の中は勿論、昨日泊まった村の小さな社よりも、強く安心感をアレッタに与えてくれる。
文明と、人の香り。
幸い巫女のケープと雪の質から服はあまり濡れなかったが、狩人はブランケットまで渡してくれた。
一緒に、蜂蜜の入った温かく、甘い飲み物も。
それはアレッタがまだ飲んだことのない味がする。おもわず「美味しい」と口にすると、狩人は柔らかく笑った。
(悪い人ではない)
そう思いながらもそれを確信に変えられないのは……彼を知らないからでも、アレッタが幼いからでもない。
外の人間とは、怖いもの──その考えが、強く根付いているから。
ブランケットと温かい飲み物を渡した後、暫くアレッタは放っておかれた。
狩人は特に何を話すでもなく、家のあれこれをしているようだ。目が届く程度の範囲で、急ぐでもなく動き回っている。
狩人は待っていた。
アレッタの気持ちが落ち着くのを。
飲み物で身体が温まったあたりで、狩人は適度にアレッタから離れたところに座り、口を開く。
それは、アレッタには俄に信じがたく……そしてそれが真実ならば、とても絶望的な内容だった。
「君は売られたんだ。……君だけじゃない、巫女の少女は皆」
「──うそ」
体温の戻った筈の身体が、スウ……と冷めていく気がした。
それをじっと見つめる狩人の表情は、無表情だが……感情を無理矢理に圧し殺したよう。だが決して、アレッタから逸らすことはしない。
「信じられないだろうし、信じたくないだろう。ただこれは事実だ。村はそうやって、飢えを凌いできた」
狩人はヒースと名乗り、そこで初めてアレッタにも名を聞いた。
彼は少し悩んだ後で、自分の事を村と娼館の『仲介者』だという風に話す。その様はどことなく納得のいっていないような、歯切れの悪さがあった。
先程の男達は娼館の者ではなく、それを装った別の人間だという。
最初『娼館』の意味すらわからなかったアレッタに、それを説明するのは些か憚られたが……およその事は察していたようだった。
「君が嫌なら別の仕事を斡旋するが、村の取り分は減る。……どのみちもう村には帰れないんだ。明日の朝までゆっくり考えなさい」
「……はい」
そう答えたが、一体なにを考えたら良いのかすら、よくわからない。なにしろアレッタの今までの常識が全て、覆ってしまったのだ。
暫くの間、ただ放心した。
──信じていた神は、いない。
私は、売られたのだ。
だが神がいないのなら。
売られたことによって、村は確実に助かる……それは『神にとっての己の価値』を考えていたアレッタにとっては酷くわかりやすいものの様にも思えた。
……ただやはり、それをすんなりと受け入れることは出来ない。
信仰も、信頼も、村に戻る権利も……全て失ったのだ。
これから先、なにを信じたらいいというのか。
ぼんやりと暖炉の炎が揺らぐのを、ただ見つめていたアレッタの目に、フト空になったカップが目に付いた。
(……甘くて美味しかった)
飲んだことのない飲み物の味。
体温を取り戻した身体。
(生きていたい)
考えは纏まらないし、纏まりそうにないが……それだけは確実なこと。
ブランケットを置いて立ち上がったアレッタは、空のカップを持ち、台所でなにかをしているヒースのもとへ向かった。彼は昼食の準備をしているようで、アレッタは手伝うことにした。
ヒースは少しだけ瞠目したが、はにかんで礼を言い、それを受け入れた。
(この人は、信じてもいいだろうか)
彼の言うことが嘘である必要性も感じないが、こんなにしてくれる理由もよくわからない。これが『仲介者』の役目だというなら、そうかもしれないが……
──どのみち村には帰れないのだ。
アレッタは一先ず考えるのを止めた。
棚にはアレッタが見たことのない調味料が並んでいる。最初は不思議そうな瞳でそれを眺めるだけだったアレッタも、ひとつをヒースが説明すると自ら気になる物を尋ねながら作業を行う。
出来上がったスープは、やはり食べたことのない味がした。
「──あの」
「なんだい」
「聞いても、いいですか。幾つか」
「……いいよ、勿論」
アレッタは他の巫女のことをまず、尋ねることにした。
自分以外の巫女の、選択を。
「俺が知ってる限りになるが」
そう前置きした上で、ヒースは話を始めた。
彼が知っている巫女は4人。
一人は受け入れて娼婦になり、
一人は他の仕事を選ぶも、結局娼婦になり、
一人は自ら死を選んだという。
「もう一人は?」
「…………逃げた。その後はわからない」
少しだけ訪れた沈黙の後、ヒースは食器を下げ、代わりに茶を淹れてきた。
先程の甘いのではなく、ごく普通の茶だが、それもまた村にはないもの。
茶をゆっくりとすすり、一息吐いた後でヒースは再び口を開く。
「……なにも、俺が娼館の者だからこう言っている訳じゃない。ただ、村から出た何も知らない娘が働くのは、娼婦になるより遥かに難しいんだ」
「…………」
彼の言っている事はアレッタにもなんとなく理解できた。
現に今だって、この狭い家の中ですらアレッタが見たことがない、知らないものばかりなのだから。
「娼館も……悪いところじゃない。ほかの地と比べて、とかは俺はよく知らないが……少なくとも特に差別されるとか、そういうことはない」
彼の来た町は、村に比べたらずっと規模は大きいものの……他の地と比べたら然したる規模でもない。ただ、大きな港町から王都にかけての通過点にあたる。
通過点の、片田舎の町──長居する者は少なく、新たに根付く者もまた少ない。
娼婦の需要はそれなりにある割に、なり手は常に不足している。
単価はそう高くない代わりに、職としての息も長く、また、周囲から蔑まれることも少なかった。
だからといって簡単に受け入れられることではない。『職業に貴賤はない』などは綺麗事だ。貞操観念が高い者にとって春をひさぐことには、理屈ではなく強い嫌悪感がある。
巫女の一人が絶望し、死を選んだとしてもなんら不思議なことではなかった。
──村にはそんな考え方すら、存在しないのだから。
村の娘は皆、結婚するまで処女。寡婦にでもならない限りはただ一人の相手と添い遂げるのが教えだ。
しかもアレッタは、初潮がきてまだ間もない程の、少女。
「──閂は、私を逃がさない為?」
「いいや、獣がいるからだ。逃げたいなら開けてもいいが……」
そもそも背負われて来たのだ。
この格好では森から出るのすら難しいだろう。
混ざり合う気持ちの中、それらのひとつひとつをアレッタは丁寧に抜き出していった。
疑問は多いが後に回すことにした。
村や皆への気持ち。
巫女の役目。
これからの自分。
──生きること……それだけは決めている。
神には祈りと感謝を捧げるだけ。
願ってはいけない。
願うなんて、畏れ多く、身の程を知らない愚かなこと。
(…………生きている)
──神は、いるのかもしれない。
急にアレッタはそんな風に思った。
元々願ってはいけないのだ。
願いを叶えるのは、自分自身……自分はその選択の機会を与えられた。
あのまま知らない人間に拐かされていたのなら、与えられなかった筈の機会を。
「……私には、なにができますか?」
ポツリ、とアレッタは言った。
顔を上げるとヒースと目が合う。アレッタは勢いよく質問を口にした。
「町で生きていくのには、なにが必要ですか?私が私の身体と同じ価値になるには、どうしたらいい?」
「…………それは」
ヒースは言葉を失った。
アレッタが選んだのは、村の教えの根付いた者にとって、できそうでできない選択。
以前それを選択した一人は、厳密に言うと自ら選択をしたわけではない。他の者もそうだった。
小さな村の中で閉じ込められていた彼女等には、村の教えこそ全て。
籠の中程の小さな世界……それが世界の全て。
巫女の一人は巫女の役目を全うするためだけに、運命を受け入れた。
ただ泣くだけの一人には、違う仕事を与えてみたがどうにもならず……町に慣れた頃に他人に勧められて春をひさぐことを選んだ。
そして、絶望した一人は生きるのをやめた。
籠の蓋が開けられるまで、自ら出てはならないのが巫女の決まり。……彼女等は籠から出たあとも尚、村の教えの中に囚われていた。
──だが全てを受け入れるのに時間を要するのは、仕方のないこと。
「……娼館で、働きなさい。娼婦としてではなく。幸い君はまだ幼い……客をとらなくても当面は許されるだろう。上に話は付けておく。……猶予は一年か、二年くらいだろうが……」
ヒースはそう言うと、必要となるであろうことを彼女に説明した。
読み書き、計算、振る舞い、言葉使い──沢山の事を覚えなければならなかった。
町は農業が盛んじゃないから、肉体労働だけの仕事は少ない。……そうヒースは言う。
大きい農場はないでもないが男ばかりで、まだこれから成長していくアレッタには逆に危険といえた。働き手としての価値も小さな娘ではないに等しかった。
金銭を扱う仕事では、計算ができなくては話にならない。
「違う仕事もないではないが、そこでなら力になれるし……他では結局難しい」
何も知らない少女にとって、困難であることは目に見えていた。
それでも強く頷くアレッタに、ヒースは念を押すように尋ねる。
「君は売られたんだ。わかっているね? 」
「はい」
先の事などわからない。
ただアレッタは幾つかの選択をした。
やはりアレッタも他の巫女と同様に……村を、教えの全てを捨てることなどできやしなかった。
だからアレッタはこう考えたのだ。
──これが神のお導きならば、自分の意思に従うべきだ、と。
次の日アレッタはヒースと共に家を後にした。ヒースは狩人でもあるが、彼自身述べたように元々は娼館の人間。
当面はアレッタと一緒に娼館にいてくれると言う。
雪は止んで陽射しをキラキラと反射していた。
ヒースの背の上、雪の積もった木々の間からアレッタは何気なく空を眺めた。
「──あ」
「どうかしたか?」
「……いいえ、なんでもないの」
遥か上空の青 ──
そこにアレッタは神を見た気がした。
これでアレッタの話は一先ず終わりですが、実はまだ続くのです……(´・ω・`)
色々語られてないので、もやっとされた方も多いのでは、と思います。ですが、このお話はアレッタがメイン。
ただでさえ共感しづらいと思われるアレッタの境遇の中であれこれ語っちゃうと台無しかな~と。
そしてその語り手であるヒースのあれこれが長くなっちゃった、というのも組み込むのをやめた理由のひとつ。
そんなわけで次回からはヒースの話。
ヒース回では色々語る予定です。