09 紫陽花が咲く頃ころ(一)
──六月七日(金) 居残り練習後の帰り道。
暮れ泥む夕暮れの中、校舎の花壇に植えられた紫陽花が、時折吹く風にその身を揺らしていた。
人間というのは不思議なもので、一週間もすると、一二三は生まれた時から、“僕”を一人称にしていたかのような錯覚を覚えていた。
「今日、二年は体力テストだったんだけど、僕の握力、52kgになってたよ」
「さすが、センパイ! 凄いじゃないですか。アタシなんて、46kgしかなかったですよ」
「ふふ、八重はまだ一年なんだから、まだまだ伸びるよ」
一二三の透き通った声が、清らかな響きを伴いながら、八重の鼓膜を震わせる。
「はい! 筋トレ頑張ります!」
そう言って、八重がぐっと拳を作りながら、一二三の言葉に応じた瞬間だった──道路の向こうから、大型トラックが、勢いよく八重たちに向かって突っ込んできのだ。
反射的に一二三は八重の肩を抱き寄せて、歩道の脇に飛び退さり──。直後、トラックが二人の傍を掠めて、轟音を立てて走り去っていった。
「なんだよ、あのトラック! 危ないなぁ。完全に僕らのこと見えてなかったじゃん!」
ふと、抱きしめた八重を見下ろすと、八重は頬を上気させ、恥ずかしそうに一二三を見上げていた。
「あっ、ごめん。ずっと肩を抱いちゃったままで……」
慌てて一二三は、八重の肩から手を離した。
「……だ……ぃで…さい」
「えっ、何? 今、何て言ったの?」
「……アタシのこと……離さないで下さい……」
「……」
一二三は黙って、八重の肩に、そっと優しく、その手を戻した。
それに応じるように、八重は一二三の腰に手を回し、野花が風にたなびくように、ゆっくりと、一二三の肩に、頭を傾げた。
その日から、二人は恋人同士のように身を寄せ合って、駅までの道を歩いて帰るようになった。
──六月二十四日(月)
二限目が始まった頃から、雨が途切れることなく降っていた。
八重は、雨の日が好きだった。
傘を忘れた振りをすれば、一二三と一つ同じ傘の下に入ることが出来るからだ。
この日も、いつものように、二人、相合傘で駅までの道を歩いていると、一二三が徐に口を開いた。
「僕、もう女子レス部、辞めようと思っているんだ……」
「ぇっ……」
一二三は八重に負けたときから、ずっと退部のことを考えていた。
自分には才能がない。
この先どれほど努力を続けても、八重には決して届かないだろう。
それどころか、今のままではレギュラー入りすら絶望的な状況だ。
才能のない自分はさっさと身を引いて、聖なろう学園女子レス部のリソースを、才能ある者に明け渡すべきだ。
八重は立ち止まって、一二三を見つめた。
一二三も釣られるように立ち止まり、八重の瞳をじっと見上げる。
「アタシ……センパイに憧れて女子レス部に入ったんですよ。センパイと一緒にいたくて……なのに……」
「ごめん……もう決めたことなんだ」
八重の見上げる先──一二三の長く綺麗な睫が、悲しげに、伏せられる……。
「でも……」
八重は何か言おうとして口を開いたが、一二三の決意を翻せるような言葉を、何も絞り出すことが出来なかった。
そんな二人の間の空白を埋めるように、雨音が無言の空間に、穴を穿ち続けた。