08 ツバメが飛ぶころ(二)
「センパイ、少し、いいですか?」
部室の窓の外が、茜色から藍色へと変わる、夜の始まりの時間帯──。
四月の頃より、随分と緊張が取れた滑らかな口調で、八重は話を切り出した。
「何?」
「もし、今日のスパーリングでアタシが勝てたら、一つだけセンパイにお願いを聞いてもらってもいいですか?」
少し逡巡した後、一二三は「いいよ」と話を受けた。
一二三は既に八重に勝てないことを、十分過ぎるほど自覚していた。
それでも、嫌だとは言えなかった。
勝負から逃げることが、これまで積み重ねてきた自身の努力を、自ら否定することのように思えたからだ。
卍
卍
卍
スパーリング開始のベルが鳴り、立ち合いながら、手と手を組みあう。
その瞬間。組み合った手の平から、絡まり合った指と指から──八重の実力が、無慈悲なほどに一二三に伝わる。
この時点で、八重には絶対に勝てない──そのことを一二三は、冷静に自覚する。
それでも、持てる力の全てを、一二三は出し尽くした。
十秒後──一二三はあっさりと八重にフォールを奪われていた。
一二三は仰向けになり、乱れた呼吸で天井を見つめた。
吐いた息が、天井まで届くことなく、自身の顔に落ちてくる。
負けたら泣くかと思ったけど、不思議と気持ちは落ち着いていた。寧ろ、全力を出し尽くせた清々しさすら感じられる。
やがて呼吸が落ち着くと、八重が優しげにも、寂しげにも、気まずそうにも見える微妙な面持ちで、一二三に手を差し伸べた。
その手を掴み、一二三がゆっくりと起き上がる。
しっかりと一二三と目を合わせ、だけど少し言いづらそうに、八重が話を切り出した。
「あの、センパイ……その……お願いなんですが……」
「うん。約束だからね。何?」
一二三が意識して、口角を上げ。答える。
「これから、アタシと二人っきりの時だけでいいので、一人称を“僕”にしてもらえませんか?」
「っえ?!」
この日から、一二三はボクっ娘として生きていくことになった。