歯車は噛み合っているのか、狂っているのか
「おはよう」
「おはよう」
青く高い空へ、若人の声が飛び交う。
重量ある教科書が詰まったごついリュックと長いバッグを肩に下げ、高尾いろはは下駄箱へ向かった。
おしゃべりにいそしんでいた同じ制服の女生徒たちが、ぴたりと口を噤む。いろはをそっと避けながら靴を履き替えいそいそと教室へ急いだ。
いろははそんな女生徒を一瞥もせず、リノリウムの廊下を進む。階段を上り、教室に入るとどかりとリュックを下ろした。細長いバッグは机に立てかける。そのまま両腕を組み、椅子に座って窓の外を眺めた。
教室では幾つかのグループが談笑している。いろはのように制服を着崩している者はあまりいない。ちらちらと視線がいろはの横顔へ刺さったが、羽虫ほどの痛痒も与えてこなかった。
くだらない。
いろはは、そんなクラスメートの態度を内心で一刀両断する。
私立満天星紅葉高等学校。共学で、それなりの授業料と学力レベルを誇る高校だ。故に通っている生徒は皆、一定以上の生活水準にいる家庭で育った者が殆どだ。
要するに育ちのいい生徒ばかり。その中でいろは浮いている。
いろはのように、粋がって不良ぶっている奴らがいないわけではない。どんなところでもそういった連中はいるものだ。狭い空間に閉じ込められた、学校という場所では特に。
いろはは、別に不良というわけでもなかった。単に輪からはみ出している。そして入ろうとも思っていない。それだけだ。
髪を染め、制服を着崩し、反抗的な態度を取るが、学年一の成績のいろは。
どうやら自分は美人の類で、周りからは一目置かれ、畏れられているらしい。
いろはは男女問わず、無駄に熱い視線を注がれる。中にはちょっかいをかけてくる輩もいた。返り討ちにしてやったら、いつの間にか頭扱い。教師ですら、いろはと目が合うと腰が引ける。
「おはよう」
誰もが距離を置く中、一人がいろはに近付いた。
窓から視線を剥がし、机の前に立った人物を見やる。薄い色合いの髪はゆるくウェーブがかかり、そこらの女よりも可憐な顔のそいつ。
龍田いづる。
いづるがにこにこと天使の笑みを浮かべ、いろはの前に立っていた。
「おはよう、いろはさん」
何も言葉を発しないいろはへ、いづるがもう一度挨拶を繰り返す。腹の中に何も抱えていないような無邪気な笑顔と声。
いろはの返答はやはり無言。腕組みをしたまま、いづるを静かに見上げる。
いづるは困ったように柔らかい眉を下げる。眉もまた、色素が薄い。癖のある髪も、長いまつ毛にふちどられた大きな瞳も、肌の色さえも薄いと思う。それは赤っぽい色合いのいろはの茶髪と違い、黄色みがかかったベージュだ。
ああ、やはり今日も可愛い。
自分とは真逆の人間。小さくて、華奢で、可愛らしく、庇護欲をそそる外見。
撫でたい。愛でたい。囲いたい。甘やかしたい。……そして……たい。
いろはは形のいい唇を吊り上げた。
「おはよう、いづる」
きつい眼差しが少し弛み、表情が動く。それだけでいろはの印象が激変した。取りつく島もない、何物も寄せ付けない空気がふっと華やぐ。
教室のそこかしこで、溜め息がさざ波のように広がった。
いろはは毛ほども自分が美人であることを武器だとは思っていない。自分の武器は、己の力だ。他者を黙らせる力。邪魔なものを排除する力。理不尽をねじ伏せる力。
いろはの表情は、また元のきついものに戻る。いづるは、挨拶が返ってきたことで満足したようだった。いろはへ小さく手を振って、自分の席へと戻る。
いづるの席の周辺にはクラスの女子がたむろしていた。彼女らは思い思いの『可愛らしい自分』を作り、いづるを迎える。
明るく朗らかで、天使の容姿、誰にでも分け隔てなく接して愛されるいづる。
高校という狭い箱の中で、いろはもいづるも一際目立つ存在で異質だった。