素晴らしき愛をもう一度
一万五千字以内を目指して書いてます。
お楽しみ下さい。
ぐるぐる回る
くるくる回る
回って落ちると
迷路があった
「あれ、ここはどこだろう」
真っ暗だった視界を、瞼を押し上げることで開放した。光がスッと入ってきて、ここだよって情報をくれている。でも、僕にはわからなかった。そこがどこなのか。ここがどこなのか。
ぐるぐるっと見回してみる。見渡す限りに壁、壁、壁。道があって、空は青い。どこかの庭にいるんだと、そんな気がした。
くるくるっと確認する。道は四つに分かれてた。前と後ろと右、左。真っ直ぐに伸びていて、奥にはやっぱり壁がある。ここはどこなのだろうか。ぼんやり空を眺めてみた。
時々雲が流れてくる。真っ青な色をふわふわと白い消しゴムが滑ってく。でも、消しゴムなのに青が消えることはなかった。そりゃそうか。そう思いながらも消えない青が嫌になってきた。そんな事を思っていると雲が段々黒くなって、たくさんたくさん空を覆った。
雨が降る。そんな気がした。開けたこの場所ではずぶ濡れだ。だから僕は急いで進んだ。前の道を。とりあえず。壁に当たるまで進む。壁にぶつかったら適当に右か左に逸れた。走って走って走ると苦しくなってくる。ともかく屋根のある場所が欲しい。
あった。道の先に扉がついていた。壁ではなく扉が。屋根とかはなかったけど、とりあえず部屋らしきところだ。雨を凌ぐ何かがあるかもしれない。僕は扉を開けて中に入った。
中に入ると屋根があった。部屋だった。木の部屋だ。木の良い香りがした。暖炉が燃えていて暖かい。そして中央には机があった。机の上には紙と水の入ったコップがある。僕は気になったのでまず紙に書いてあることを読んでみた。
【問題。コップの中にはどれくらい水が入っているでしょう】
そう書いてあった。簡単だ。満杯だ。注ぎ過ぎだ。今にもこぼれそう。でも、ちょっとだけ考える。どれくらいってどう答えるべきなんだろうって。つまり、何mlとかで答えなきゃいけないのかなって。だとすると、コップが200mlだと思うから200mlくらいだ。くらい、じゃダメなのかな。1ミリ単位で答えなきゃダメなのかなって。コップは本当に200mlなのかなって。
ちょうど、喉が渇いてた。さっきいっぱい走ったから。だから僕は飲み干した。目の前にある水を。一滴残らず飲み干した。勢い余って滴り落ちる。コップの中身の量が変わってしまったけれど、これでもう迷わなくても良い。だって中にある水の量はゼロだから。
「こんにちは。私は美樹って言います。貴方は」
彼女と出会ったのは婚活パーティーだった。僕ももう二十五になるからそろそろ少しずつ考えなきゃいけない。そう思って思い切って行ってみた。何より親がうるさく言うからね。そこで彼女と出会ったんだ。
「美佐雄です。宜しくお願いします」
緊張した。あんまり女性と話したことはない。しかも、美樹さんはとても美人だった。さらに見たところ若い。こんな所へ来なくても十分出会いがありそうだった。
「私、まだ二十三なんですけど。仕事に溺れたくなくて、こういうところに来てみたかったんです」
笑顔が素敵だった。笑窪が笑窪を呼んで更に笑窪だった。えっと、つまり笑っている顔のパーツがそれぞれ更に笑っているように見えたってことね。なんか本の中に出てくる女神様みたい。
「どうしてこんなところに。そんなに美人なのに」
純粋な気持ちで聞いてみた。だって、やっぱりおかしいもの。こんな素敵な女性がここにいるなんて。
「あら、やだ、美佐雄さんってお上手ね」
ケラケラケラっと可愛く笑う。つられてこっちまで笑顔になってきた。なんか気分が良い。
「いや、だって、モテそうじゃん」
僕は素直に思ったことを言う。
「ありがとうございます。でも、仕事が忙しくて。出会いもないですし」
仕事を聞くと、看護師だそうだ。それも精神科の看護師。なんか色々大変なんだって。
「不躾ですが、どうして僕なんかに」
こんなこと聞いて良いのかわからないけど、聞いてみる。なんかこの人とはなんでも話せそうだったから。
「えっ、なんとなくですよ。恋って理屈じゃないって言うじゃないですか。だからフィーリングです」
彼女はそれとなく髪を掻き上げる。すると、なんか良い香りがしてくる。顔が赤くなってきた。どきどきが高鳴ってくる。
「良ければ、連絡先交換しませんか」
彼女の方から声を掛けてきた。僕はなんて女々しいんだ。なんか自分に腹が立ってきて、思わず声に出す。
「はい。今度デートして下さい」
どうだ、言ってやったぜ。
でも、言ったらめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。彼女はというと、きょとんとしている。
「ふふふっ、はははは。いいですよ。デート。しましょ」
彼女は満面の笑みで、僕は満面しぼんだゆでだこだった。でも、まあ、女の笑顔を作るのも男の務め。やってやったぜって頑張って自分を褒め称える。はぁ、でも、かっこ悪いな。
僕はさっきも言ったけどいい大人だ。でも、僕はいつだって夢見てる。たぶん、子どもしか行けないようなワンダーランドにも僕ならいける。世間を知らないとかそういうのじゃないんだけど、僕には理想の夢があるんだ。
僕の夢、お金持ちになる事。お金持ちになってたくさんの人にお金を恵んで、幸せにするんだ。
僕の夢、ヒーローになるんだ。弱っている人を助けて、虐める者をやっつける。身体だって鍛えているんだぞ。
僕の夢、お医者さんになるんだ。病気で苦しんでいる人を治してあげるんだ。将来は名医だぞ。僕の手にかかればなんだって治せるんだ。でも、頭は良くないんだよね。
どう。僕の夢。立派でしょ。未だに医学部に入れなくて悩んでいるんだけど、男なら初志貫徹。理想に生きなきゃね。でも、婚活なんてしていいんだろうか。親に強く勧められたから来たんだけど。まだ浪人中の身だしな。
僕の親はお金持ち。だから正直僕は不自由なく育ったんだ。仕事に就かなくても大丈夫みたいなことよく親が言ってるけど、それは違う。僕も一介の立派な大人だから、しっかり働かないと。医者になるって立派な夢もあるしね。ああ、早く受かるといいな。
最初のデートは動物園だった。
「私、ああいう場所初めてで、最初はやっぱり年が近い人が良いなぁって思って係の人に聞いたら、あなたが近いって紹介されて、声をかけたんです。やっぱり価値観が近い方が良いような気がして。年が近い方が価値観合いやすいでしょ。それに悪い人じゃなさそうだったし」
動物を眺めながら、時折子どものように可愛いって駆け寄る彼女。なんかそういう仕草をする君が一番可愛いよなんて思っちゃったりする。
「僕もああいう場所初めてでした。緊張しちゃって全然話せなくて、美樹さんがしゃべりかけてくれたから安心しました」
そう言いながらも僕は今、緊張している。女性とデートする機会なんてあんまりなかった。でも勘違いしないで。付き合ったこととかはあるよ、一応。キスだってちゃんとしたことあるから。でも、リラックス出来たことはない。いつもなんか違うなって感じちゃうんだよね。若いからかもしれないけど、愛を感じられなくて。愛のない恋なんてただの遊びでしかない。恋するならやっぱり愛がないとね。でも、愛ってなんなんだろうね。
「病院勤めって、看護師って聞こえはいいかもしれないけど、出会いとなると全然なんですよ。お医者様は基本的に妻子がいるし、患者さんはほら、ね。私の担当の人って変わってるし、仕事は忙しいから、出会いという出会いは無いに等しいんです」
病院勤め、か。仕事が忙しい、か。僕としてはうらやましい限りだ。でも、なんかお医者さんと結婚したい夢とか持ってそう。つまり僕がちゃんとお医者さんになったら、彼女の願い叶うんだろうな。頑張ろう。ただ、今はしがない浪人生。いいのかな、僕で。
「僕、実は仕事に就いていないんです。浪人中で、将来はお医者さんになりたいって思ってます。なんか、こんな僕ですみません」
正直に言っておこう。こういうのは大切だと思う。
「そうですか。お医者さんに。じゃあ、もしかしたら私はお医者さんのお嫁さんになれるのかな。わー可愛い」
何かすごくドキドキすることをさらっと言われた気がするけど、すぐにかき消されてしまった。彼女が可愛いと飛んで行ったのはライオンだ。畜生、ライオンめ、覚えていろ。
でも、ライオンなんかを可愛いなんて変わってるな。
「知ってます。ライオンってネコ科なんですよ、これでも。百獣の王なんて言われてますけど、自由で気ままな猫の仲間なんです。強い猫ってところですかね。自由で気ままで強いって最強じゃないですか。私、ライオンになら食べられてもいいかも。食べられたらライオンと一緒になれるかな」
なんか最後は寂しそうに呟いてた。ずっと笑顔だったからその悲しげな顔が印象的に映る。なんか悩みでも抱えているのかな。
と、それは束の間の出来事で、彼女はすぐに明るくなって僕に質問した。
「人間って理性があるっていうけど、美佐雄さんは理性派、本能派」
急に聞かれて尻込みする。理性とか本能とかあんまり考えたことがない。理性的ってのは理路整然としてて、計算するのが上手い人のことかな。逆に本能的ってのは起きて、食べて、寝るってことに忠実な人のことなのかな。お医者さんならきっと理性的な方が良いんだろうけど、今僕は卵にすら成れてないしな。詰まるところ、消去法で本能的な人なのかな。起きて、勉強して、食べて、勉強して、寝る。なんか近い気がする。
でもこれって、浮気しやすいかどうか聞かれてるんじゃないかな。本能的ってことは出会う女の子には必ずって言うほど手を出して、浮気なんて当たり前って事なんじゃ。そういう意味では僕は違う。愛する女性は一人で十分。何よりもそれが愛だろうから。そんな僕はじゃあやっぱり理性的。
そんなことをぐるぐる考えていると、くるくるっと可愛い笑い声が聞こえてくる。
「もう出ましょうか。近くの公園でお散歩しましょ」
彼女が率先して歩いて行く。僕もそれに続いて歩いて行った。
「でも、凄いですね。何回落ちてもチャレンジし続けるなんて。私なら出来ないな。どこかで妥協しちゃう。なんでお医者さんにそんなになりたいんですか」
動物園を出て暫く歩いていると、彼女が聞いてくる。
「僕はヒーローになりたいんです。弱き者を助けるヒーローに。悪い奴をやっつけて、弱い人を助けるんです。で、それが出来るのがお医者さんだなって思って。絶対名医になります」
僕はエッヘンと胸を張って説明した。彼女はきょとんとした表情になる。
「お医者さんならお金持ちにもなれるしね。お金持ちになったら募金とかいっぱいして困ってる人たくさん助けたいんだ」
僕はさらにエッヘンと胸を反らした。彼女はここがどこかわからないような顔になり、そして、焦点が合うとぷふふっと笑いをこぼした。
「いいですね。それ。すごい良いです。因みにですけど、どこの大学受けているんですか」
「桃大です。桃大一択です」
日本で一番難しいとされてる国公立大学だ。
「えっ、桃大だけですか」
「はい、桃大だけです」
彼女が急に押し黙る。僕を見つめる目がパチクリパチクリと数度開け閉めした。そして、それが段々笑いを帯びてきて爆発する。
「あはははは。なんで、そんなに桃大にこだわるんですか」
「それは、名医になる為です。やっぱり日本一の場所で学んでこそ名医になれるというものです。なんで笑うんですか」
「だって、それは・・・・・・。たぶん、大学の難しさと名医は関係ないと思いますよ」
何、新しい情報だ。一体どういう事だろう。
「私は現場にいますけど、出身大学って全然関係ないです。むしろ、学歴の高い方って変に鼻についてあまり印象良くない方多いですよ。美佐雄さんくらい立派な志があるなら、大学の難しさで選ばないで、自分に合った大学で学んで、早くお医者さんになった方が良いと思います」
彼女は笑っていたけれど、どこか真剣な声音で話しかけてくれた。
なるほど、微塵も考えてなかった。現場だとそうなのか。なんか良い発見をしたような気分だ。
「綺麗ですね。桜。日本は四季がしっかりあって、美しいですよね」
落ちてくる桜の花びらを手に取り、彼女はそう言った。僕もなんとなく久しぶりに上を見る。すると、たくさんの桜の花びらが僕を迎えてくれていた。
「知ってますか。昔の人って、四季の移ろいを恋愛に例えていたみたいなんですよ。春に出会い、夏に燃え盛り、秋には飽きて別れて、冬は寂しく一人で過ごすんですって。秋とか冬は嫌ですね。美佐雄さんはどう思いますか」
うーん。はっきり言って僕は平等に考えてしまう。春の出会いとか、夏の盛り上がりとか良い印象があるけど、合わなければ別れるのは正解だし、一人が好きな人だっている。正直僕も、将来は結婚したいとは思っているけど、今に関しては実はそこまでである。やっぱり目の前に受験があるってのが第一だ。
それでも、こうして美樹さんに出会えた事は良かったと思ってる。僕の知らない情報をくれたし、まあそれが無くてもなんか久しぶりに人らしい自分に戻れたような気がした。春の出会い、は捨てがたいのかな。夏のように燃え上がりたい気持ちもある。でも、今はやっぱりちょっと冷めたような秋が良いのか、いや、もっとはっきり冬が良いのか。
「もう、暗くなってきましたし、帰りましょうか。この後、夜勤なんです」
結局答えないままその日は別れることになった。
次に会うことになったのは、それから一か月後だった。僕は受験勉強があるし、彼女も仕事であまり暇を作れないようだったからだ。次会う時は、一日空いている日が良いってことでそれがたまたま一か月後になったという訳だ。
僕としては彼女に会うのは楽しみだ。目の前のことがあるからしょっちゅうは会いたくないけど、こうしてたまになら調度良い息抜きになる。きっと彼女も息抜きみたいな気持ちで会いに来てくれるんじゃないかと思う。
とは言え、本当にそれでも良いのだろうかとも思う。なんだったら僕らが出会ったのは婚活パーティーだ。少なからずそれを意識しての付き合いだってことだ。今の僕には収入がないし、このまま真っ直ぐ進めても三十過ぎまでは仕事が出来ない。つまり結婚もし難い。
もちろん彼女はしっかり仕事してるし、看護師なら給料も悪くはないんだろうけど、彼女のお金に頼るのは格好悪い。彼女はどこまでそれを意識しているのだろうか。
「うわー綺麗。海の中にいるみたい」
大きなガラス板の向こう側に立体的な青い空間。そしてそこには、大小様々な魚たちがゆらりゆらりと泳いでる。それまでの小さなガラスケースにでも、駆け寄っては眺め、駆け寄っては眺め、二人で楽しんでたんだけど、この広い空間に来て駆け寄る場所がなくなった。むしろ、遠くから眺めている方が全部見れて良いかもしれない。
それでも、遠くにいるだけでは満足できなくて、引き寄せられるように近づいていった。そしたら正に今、自分自身も海の中にいるかのような気分になる。目の前の魚たちにつられて二人でゆらゆらした。
「水圧ってあるけれど、こうして水の中の魚たち見てると本当にあるのかなってくらい自由だよね」
彼女の語尾が前よりもフランクになっている。ちょっとは距離が縮まった気分だ。
「上にも行けて、下にも行けて、ゆらゆらゆらゆら。大空を飛び回るよりよっぽど自由に見える。ねぇ、私がもし人魚だったらどうする」
恒例の質問だ。僕はいつも答えられない。
人魚って言うと良いイメージが湧いてくる。美しくて歌が上手いってイメージだ。さながら美樹さんも美しいから似合っているようにも思える。
しかし、伝説を紐解くとそうでもない。その美しい歌声は船を沈没させるとか、陸に上がると泡となって消えるとか、人になったのに喋れないまま恋が終わってしまうとか。
恋が終わってしまうってことは、僕との恋も・・・・・・。
恋か。僕はやっぱり恋しているんだろうな。彼女もデートに来てくれるってことは恋してくれているんだろうか。ちょっと気になる。
というか、そもそも人魚は人間じゃない。美樹さんは人間だし、陸に上がっても大丈夫、喋れないことはない。だから
「もう、時間、だいぶ経ちましたね。暗くなってきたんで、タワーの上から街を見ませんか」
答えようと思ったけど、やっぱり答えないまま会話が終わってしまった。考え過ぎてるのかな。優柔不断なんだな、僕。そういえば、選択問題はよく間違えるな。時間足らないこと多いし。
僕らがいたのは東京タワーの下にある水族館。もともと夜景が見たいって言ってたから東京タワーにしたんだけど、どうせなら下にある水族館も寄ろうよってことで水族館に来てたんだ。
入場料は掛かるけど、一番高いところまで行くためのチケットを買う。こういうところで出し惜しみするのは格好悪いからね。もちろん費用は僕持ちだよ。って言っても正確には僕のお金ではない。親からのお小遣いだ。二十五になってもお小遣いをもらってる。しょうがないよ、まだ働けないんだから。
「うわー」
彼女はすぐにガラス板に駆け寄った。そして、目をキラキラさせながら眺めている。水中の次は大空だ。
ふと、思ったんだけど、ガラス板さえなければ僕らもあの板の向こう側の世界に行けるんだろうか。板というものでどうしても現実に戻されちゃうけど、僕も彼女も板の向こうにある世界に胸を高鳴らせて憧れている。似た者同士は良く集まるって言うけど、実はこういう部分が似ているのかな、僕たち。
「わっはっはー。科学の発展は夜に眩いばかりの光を生み出した。見よ、この景色を。街が星のようだ。はっはっはー。ふふふっ、こういうのやってみたかったんだ」
僕はにやっと彼女を見る。やっぱり、この人とは合う気がする。
「美佐雄さんといると、なんか自分自身になれる気がする。なんか、気ばっか使う社会から解放されたみたいで」
えへへって笑う彼女は一番綺麗な顔だった。なんか、笑う顔を見る度に綺麗になっていくような気がする。
「でもなんで看護師になろうと思ったの」
気になったので聞いてみる。そういえば、聞いたことがなかった。すると、彼女は少し「うーん」と悩んだ。
「実は私、極度の拒食症だった時期があって。中学生の時だったんだけど」
少し苦しそうな顔になる。聞かない方が良かったかな。
「いじめられててさ。たぶん、そこまで太ってなかったりしなかったんだけど、それでもデブ、とか、ブス、とか。親がいなかったからかな。我慢したけどやっぱり耐え切れなくて。我慢すればするほど、その我慢でお腹一杯になっちゃって」
僕の方を見ずに、外に目を向けた。遠く暗い空の先にある何かを見つめているようだった。
「そこから病院通って、病気治して。その時の看護師さんがとても良く接してくれて。だから私もああなりたいなって。ありきたりかな」
そう言って、無理な笑顔でこっちを見る。別に無理なんかしなくていいのに。
彼女は大きく深呼吸をした。
「星空も綺麗だけど、人の作った光も綺麗。美佐雄さんはどっち派」
また、質問をされた。話の流れ的にはかなり意味合い深い質問だ。それとも、話題を変えるために振った話なのか。ちょっと頭が混乱する。もし、意味があるとしたらどういう意味だろう。
星空は自然なもの。人の作った光は人工物。しばしば科学の発展は自然を壊すとして非難されている。
壊す。
人工物は自然なものを壊す。つまり、ありのままの自分ではいられなくなるという事なのかな。じゃあ
「ほしーー」
「ホテル行こう。私を抱いて。なんか寂しいの。心細いの。私を慰めて」
答えようと思ったけど、また打ち切られる。唐突な言葉に驚きを隠せない。でも、そうしてあげたい。慰めてあげたい。愛おしい彼女のために。できることがあるなら、やってあげたい。僕はヒーローだから。
そんなこんなで二人でホテルに入って部屋を取った。道中は全然喋らなかった。ただ、僕は彼女の手をぎゅっと握ってた。彼女は少し僕の後ろに付くようにトボトボと下を向いて歩いていた。時折、どこか震えるような感覚が伝わってくる。
部屋に入ると、彼女は「お風呂入るね」っと、一人で浴室に入っていく。僕は婚活パーティーに行った時くらい、いやそれ以上にガチガチになっていた。なんか勢いでこうなったけど、本当にこれでいいんだろうか。シャワーの音が少し聞こえてきて、さらにガチガチになる。今の僕はロボットになってるんじゃないかな。
彼女はバスタオルのまま出てきた。そして、どうぞって僕を促す。促されるまま僕も浴室でシャワーを浴びた。手と足が上手く動かずに、ウィーンウィーンと動いていた。
さっと、流した程度ですぐに上がった。軽く身体を洗った程度だ。たぶん。垢とか汗とかはちゃんと落とせていると思う。ただ、一つ一つの行動が終わるたんびに心臓が爆発しそうなほど脈打っていた。なんか、やばいかも。自分のやっていることがわからない。
浴室から出ると、彼女が顔に手を当て、天を仰ぎ見るような形でベッドの上にいた。バスタオルは巻かれていない。いよいよ僕の心臓は収まり切れなくて飛び出しそうになった。が、すぐにおかしな事に気付く。
「美佐雄さん。待ってたよ。来てぇー」
彼女は僕に気付くと満面の笑みになり、艶めかしく僕を誘惑した。何かが違う。彼女であって彼女でない人が目の前にいる。と、僕は彼女の手に白い粉の入った袋があるのを見つけた。
ほとんど反射的だった。その袋を掴み取り、トイレに持って行って捨てて流した。そうしなければいけないと思った。
「何するのよ」
一瞬おどけていた彼女が追い付いてきて、袋の行方を見るなり声を張り上げる。振り向くと、彼女の顔を被った悪魔がそこにいた。
「こんなもの吸っちゃだめだ」
僕は負けじと張り上げた。
「高かったのよ。美佐雄さんにも分けてあげようと思ったのに」
「そんなもの僕はいらない」
「だからって、人のもの勝手に取って捨てるんてどうかしてる」
「どうかしてるのは君だ。なんでこんなもの」
「こんなものじゃない。これは大切なもの。私が私として仕事をするために、社会に出るためには必要なもの」
「必要ない。そんなのおかしい。君はちゃんと夢を叶えているじゃないか」
「叶えたよ。薬の力で。薬が私を救ってくれたの。薬が私を看護師でいさせてくれるの。どうせわからないよ。美佐雄さんには。理想と現実の違いなんて」
「理想を現実にするんだよ。そのためにみんな頑張るんだ。こんなものに逃げちゃだめだよ」
「そんなの出来ない。社会に出ていない貴方にはわからない。現実はそんな簡単には変わらない。私は結局病人でしかないの」
「うん、今の君は病人だ。一緒に病院に行こう。僕が治してあげるから」
「私を、私の夢を奪わないで」
バシンっっと、頬を思いっきり叩かれた。そして、彼女は上着を羽織って、そのまま出て行った。去り際に言葉を残して。
「あんたみたいな馬鹿は一生社会に出られないのよ」
僕は、何も返せなかった。
ぐるぐる回る
くるくる回る
回って落ちると
迷路があった
部屋をよく見ると、もう一つ扉があるのに気付いた。特に行くとこも無いので開けて進んでみる。するとそこはコンクリートの部屋だった。
中央には先程と同じでテーブルがあり、上にはやっぱり紙が置いてある。それを手に取って読んでみる。
【問題。1+1はな~んだ】
簡単な問題だ。2だ。
いや、でも小学生の時は田んぼの田なんて言われて冷やかされたりもした。もしかしたら、そういう変わった答えを聞かれているのかもしれない。
【ぶー、時間切れー】
どこからともなくブザーが鳴って、意地悪な声にはずれを言い渡される。
すると、足元が急に無くなって、黒い闇の中に落とされてしまった。
ぐるぐる回る
くるくる回る
回って落ちると
迷路があった
それから夏が過ぎ、秋が来て、冬になって、受験が終わった。彼女の言った通りに自分の身の丈に合った大学を受けると、難なく合格できた。とても嬉しかったけど、でも、頭の中ではまだ彼女のことが忘れられないでいた。
春になって入学して、友達とかもできると、その友達が合コン行かないかって僕を誘ってきた。初めは行く気がしなかったんだけど、相手はみんな看護師さんという話だった。びくっと心臓が跳ね上がる。もしかしたら、会えるんじゃないか。そんな期待が込み上げてきて、僕も参加することにした。
当然、いるはずがなかった。でも、友人が気を利かせてくれたのか僕の年齢に合わせてみんなからは少し年上の看護師さんも連れてきているようだった。名前は美鈴さんって言うらしい。美鈴さんは奇しくも彼女と同じ二十四歳だそうだ。彼女から見たら年上が僕しかいないってことで、よく絡んできた。
「連絡先交換しません。今度動物園とか行きましょうよ」
動物園。これも皮肉なのか、彼女と初めてデートした場所だ。行きたくない気持ちもあったのだけど、もしかしたらいるんじゃないかなってどこかで思っちゃって、「うん」って返事をした。
「精神病の患者って本当大変なんですよ。会話できる人もいるけど、ほとんど会話にならないの。会話できる人だって、時々変なこと言うから困っちゃう。ずっと顔つき合わせているとこっちまでおかしくなっちゃうのよ」
美鈴さんはよく喋った。でも、ほとんどが仕事の愚痴だ。よっぽどストレスが溜まるんだろう。そして、これまた奇しくも美鈴さんは美樹と同じ精神科を担当しているようだった。
「基本的に精神科の患者さんの相手はどこかで不真面目にならないとだめね。真面目な人はたぶん病んじゃう。実際そういう人多いのよ。ミイラ取りがミイラになるなんてこの業界じゃ普通なのよね」
動物園にこそいるけど、果たして動物園である必要があったのだろうかと思うほど、美鈴は愚痴を続けていた。僕はそれを横目にぼーっと辺りを見回している。
「まあ、実際話を聞くと可哀そうな話はいっぱいあるのよ。同情はするな。あそこまでおかしくなっちゃうほど追い詰められたってことだから。でも、会話ができない人なんかはどうしてなったんだろうって考えさせられちゃうわよね。そういう人が一番可哀そうかも。自分の事を誰にもわかってもらえないから」
右を見ても左を見ても家族連れや、カップルばかり。やっぱり一人で来るようなところではないんだなって改めて思う。
「あっ、そうだ。美佐雄さん。ねぇ美佐雄さん」
ぼーっと周りばかりを見ている僕を美鈴さんが揺らして注目させる。
「あっ、ごめん。何」
「もう、もっと楽しみましょうよ。さっきからボーとして」
「ごめんね」
「まあいいけど。で、さ。質問です。人間って理性があるっていうけど、美佐雄さんは理性派ですか、本能派ですか」
「えっ」
目がかっと大きく開かれる。どこかで聞いたことある質問だ。
「心理テストってやつね。ちょっと違うけど、それみたいなもの。さあ、どっち」
あの時僕はどちらを答えるべきだったんだろう、結局答えず仕舞いだったけど、答えるとしたらどちらだったのだろう。
「早く。時間切れにしちゃうぞ」
「本能かな」
暗い穴に落とされるのが嫌で、ともかく答えてみる。これで良かったんだろうか。
「へぇー、本能派かぁ~、浮気しそう~」
じとっとした目で美鈴は見つめてきた。僕はつい顔を逸らしてしまう。
「まあいいや。動物園も飽きたし、公園で散歩しましょ」
と、美鈴は僕の手を引いて動物園から連れ出していく。
公園か。なんかやっぱり思い出しちゃうな。
「やっぱり自然っていいですよね。空気がおいしい。でも、もう桜は見れないみたいですね」
桜並木の下を歩きながら、美鈴がそう言う。軽く伸びをして胸を強調させているようでもある。
「昔の人は四季を恋の移ろいに例えていたって知ってます。春に出会い、夏に燃え盛り、秋は飽きて別れて、冬は寂しく一人になる。なんか一年以内に出会ったり別れたり、昔の人って浮気性って感じですよね」
そして、またもや聞いたことのある言葉を話す。僕は立ち止まって、固まってしまった。
すると、それに気付いて美鈴さんも振り返ってこっちを見る。首を傾げていた。
「私の担当する患者さんが言ってたんだけど、どうしたの」
「その人の名前は」
「えっ、美樹さんだけど。元々私の同期だった子なのよね。でも、ある時様子がおかしくなって、検査をしたら薬物反応が出て、問い詰めたら発狂しちゃって。それからは廃人になっちゃって」
「どこにいるの。今」
「病院よ。入院している。それがどうしたの」
「知り合いなんだ。お見舞いできないかな」
「えっ、そうなの。あの子、親がいないからお見舞いに来るような人もいなくて、そう言う事なら良いけど」
「ありがとう。明日行く」
「って明日。そんな急に。どうしたの。すごい顔して」
「お願い。すぐに会いたいんだ。明日、必ず頼むね」
「う、うん。ってちょっと待って」
僕は居ても立ってもいられずにその場を立ち去った。別に今すぐ会う訳でも、会える訳でもないんだけど、ただ、ただ、落ち着いていられなかった。頭の中を整理しなきゃいけない。僕はいつも答えられなかった。時間切れになってしまった。何を聞かれても、何が起こっても答えなきゃいけないんだ。
「ここだよ」
明くる日、美鈴さんに連れられて彼女の病室の前まで来た。彼女は個室に入れられているようだ。患者の中でも他の人に危害を加えてしまったり、迷惑をかけるような人はこういう個室に入れられてしまうらしい。美鈴さんが道中説明してくれた。
「私、ずっと彼女が失恋したんだと思ってた。浮気されて、それで薬に手を出したんだって。でも、相手が美佐雄さんなら、その美佐雄さんの様子なら違うのかもね。たぶん、普段から抱えるストレスがあったんだろうな。彼女真面目だったし。もしかしたら、患者さんと話してて昔の自分と重ねちゃうことも多かったりしたのかな」
美鈴さんの方は昨日一日で整理がついているようだった。ごめんね、美鈴さん。
「まあ、二人の間に何があったか知らないけど、お話し相手になってあげて。あっ、そうだ。言ってなかったけど。まともだった時のあの子だと思わないでね。こんなこと言いたくないけどたぶん忘れてる。会話もちゃんとできないから。何か危なくなったら入り口のすぐ近くにボタンがあるから。大声出してもいいわよ。駆け付けるから」
そこまで言って、美鈴さんは白い空間が広がる白いドアを開けた。
いた。
彼女がいた。
座ってた。
地面に座ってた。
地面に座って積み木で遊んでた。
石ころを積むかのように、白い服に包まれて、
どこか楽しそうでもあり、それでもやっぱり苦しそうに積んでいる。
僕は、ゆっくりと歩が動いた。
目の前まで来て、しゃがんで、僕は一緒に積み木を眺めた。
彼女は気付いていないのか、積んでは崩し、積んでは崩しを繰り返していた。
「美樹さん」
積み木を眺めたまま、ぽつりと言葉を漏らす。そこで初めて彼女は僕を発見し、目をくりくりさせて、首を傾けた。
「おにいさん、だれ」
説明を受けた通りだ。どうやら僕を覚えていない。
「初めまして、美佐雄って言います」
「みさお」
彼女は言葉に出して考える。でも、どうやら検索には引っ掛からなかったようだ。
「はじめまして、みきです」
礼儀を正してしっかりと答えた。
「みきさんは、将来何になりたいの」
きっと、今、目の前にいるのは子どもの時の美樹さんだ。
「かんごしさん」
彼女は満面の笑顔で答える。
「なんで」
知っているが、敢えて聞いてみる。確か本当だと中学生の時になりたいと思ったようだが、今の彼女の年齢は四歳が関の山だ。
「かんごしさんってすごいの。なんでもなおしてくれるの。わたしのびょうきもなおしてくれたんだよ」
「そう、みきさんは病気なんだ。どんな病気」
別に治療目的って訳じゃないけど、何故か聞かなければって僕を後押しする何かがあるんだ。
「ごはんたべたくないの。みんないじめるから。おやなしめーとか、デブーとか、きもいーとか」
「そうなんだ。みんなひどいね。みんなはどこにいるの」
「学校」
「みきさん、学校に通ってるんだ。どんな学校」
「中学校」
「それじゃあ中学生なんだ」
「ちがうよ。わたし、にじゅうよんだもん」
どうやら彼女の中で年齢がごちゃごちゃになっているようだ。
「ああ、ごめんね。じゃあもう立派な看護師さんだね」
僕がそう言うと、彼女は急に黙りこくる。下を向いて、むせいで、泣き始めた。だんだん大きくなり、割れんばかりの泣き声が個室を満たした。いや、個室に留まらずに世界に広がる。
「どうしたの」
美鈴さんが駆けつけてくる。
「大丈夫です。ちょっと話していただけです。気にしないで下さい」
美鈴さんが何か言いたそうだったが、僕がきっと見ると、喉につかえていたものを飲み込んで静かにそこを去って行った。
「わたし、かんごしさんじゃないの。きれいなかんごしさんじゃないの」
「看護師さんだよ。美樹さんは綺麗な看護師さんだよ」
「ちーがーうーもーんー」
「看護師さんだよ」
僕は思わず声を張り上げる。すると彼女は驚いて泣くのを止めた。
「看護師さんだよ」
僕はもう一度優しく言う。
「かんごしさん。ほんとう」
「うん。美樹さんはちゃんと治してくれたんだよ。僕の病気」
「わたしが」
「うん。無限浪人って病気を治してくれた」
「むげんろうにん」
「美樹さん。覚えてないかな。美佐雄です。僕です。婚活パーティーで出会った」
僕は耐え切れなくなって彼女の身体を掴んで揺らす。彼女は僕を人形のような目で見て揺れていた。
「みさお。ミサオ。美佐雄」
すると、段々と焦点が合ってくる。そこには久しぶりに見る彼女の姿があった。
「美佐雄さん。あれ。何でここに。何で私」
彼女はきょろきょろと辺りを見回した。自分がどこにいるのかわからないようだ。
「思い出した。僕だよ」
僕は思い出してくれたことに、元に戻ってくれたことに感激して飛び上がって顔を近づける。
しかし、彼女は段々と自分の立場を理解し始め、それどころではなかった。
「いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
彼女は頭を抱えて縮こまった。何度も何度も頭を振って、そして、そのまま気を失った。
ほんの一瞬だった。もしかしたら一瞬だけ僕が夢見ていただけかもしれない。それぐらいすぐに泡となって消えてしまった。
「みさお」
むくっと起き上がった彼女は少し前の彼女に戻っていた。
何か、とてつもなく、とてつもなく青く、黒いものが身体の底から込み上げてきて、僕はそれを消すことが出来なかった。
「美樹さん。僕、みきさんのこと、好きなんだ。だから、だから、付き合って、くれないかな。僕、君の、全てを、受け入れるよ。だから、だから」
込み上げてくるものをなんとか押さえつけながら、とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。
「みさお。なんでないてるの。おなかこわしたの。わたし、かんごしさんだからなおしてあげるよ」
「ううん。だいじょうぶ。大丈夫だよ」
僕は頭をくしゃくしゃにかき乱した。もう何が何だかわからない。どうしたらいいかわからない。
「みさお。ないちゃダメ。そうだ、1+1はなーんだ」
はっとした。彼女からの質問だ。早く答えなきゃいけない。
「いち。1+1は1。僕たちだ」
頭に過ぎった。質問の答え。僕と彼女を合わせて1だ。二人で一つになるんだ。そうなりたいんだ。
「うん。いいこいいこ」
僕が泣き止んだからか、正解を言ったからか、彼女は満足そうに僕の頭を撫でている。
「僕ももっと大人になる。だから、みきももっと大人になろう。一緒に」
僕がそう言うと、彼女は満面の笑みを浮かべて抱き付いてきた。
「いいよ」
「1+1は1だけど、2にも3にもして、いっぱい幸せになろう」
僕は強く彼女を抱きしめて、お願いのようにそう言った。
「うん。いちたすいちはじゅうー」
彼女は痛がりもせずに、楽しそうにそう叫んだ。
ぐるぐる回る
くるくる回る
回って落ちると
迷路があった
迷路を進むと
彼女がいたんだ
小さく弱い彼女がいたんだ
僕は抱きしめ
キスをした
そして手を取り
ゴールした
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