眠れない夜
――暑い。
それだけが今、杏を支配している。
ベットの上で体の向きを変えたり、毛布をパタパタしてみたり、足の置く位置を変えてみたり、暑さをどうにか出来そうな方法で色々やってみたが、それは杏を満足させる程の快適さを与えなかった。
一応、網戸にしているのだが風が入ってきている感は皆無。今朝壊れたエアコンを恨む他なかった。
「暑っ……エアコンが壊れるとかマジ最悪」
時間を確認するため、憂鬱な気持ちで枕元に置いたスマホを手に取る。暗い部屋にスマホの光だけが浮かぶ。そのスマホの光のせいで目に痛みを覚えた。暗闇に慣れ過ぎていた目は、唐突な光を拒んだのだ。しかし、見ないという訳にもいかないので、目を凝らしながら時間を確認した。
『2:00』
白く太くゴシック体で表されている文字が、杏に時間を教えた。
――丑三つ時じゃん。
「嘘でしょ~、もうこんな時間なの~?」
思わず一人で叫んでしまった。こんな静かな時間に大声を出してしまうと、杏の住む壁の薄いアパートでは声が隣人に筒抜けだ。
杏は唇を噛み締めて、ゆっくりとベットから起き上がる。
――とりあえず水でも飲もう。
そう考えて、杏はベットから降りる。フローリングの床は、ひんやりとしていた。しかし、すぐに杏の熱を吸収して熱くなる。一歩踏み出せば、またひんやりとしてすぐ熱くなる。それを繰り返してキッチンにまで到着した。
そして、ふとあることを思い出した。
――このキッチンで前の住居者の人が自殺したんだっけ……。
唐突に何故こんなことを思い出してしまったのか杏自身もよく理解出来ていないが、恐らく丑三つ時であることを確認してしまい、杏の中に眠る恐怖心が顔を出したからであろう。
「やだやだ、今までなんてことなかったじゃん。変なこと考えてる暇があったら寝よ」
杏は大きく首を振って蛇口をひねる。そして置きっぱにしていたコップを水へと差し出した。あっという間に程よい量になった。これ以上増えても困るので慌てて水を止めた。
そして、その恵みの水を一気に喉へと流し込む。カラッカラの砂漠で湖を見つけた気分になる。見つけたことないけど。
「かぁ~生き返る!」
まるでビールを一気飲みした中年の男性の声を出す杏。職場で清楚系美人として名高い杏のこんな姿を誰も信じないだろう。
一瞬ですっからかんになったコップを、杏は適当にシンクに投げ入れた。ガンガンガンとコップの転がる音が響く。
少し前まで恐怖に怯えていたことも忘れてもう眠ることで頭がいっぱいだった。が、恐怖はすぐさま呼び戻された。
ベットへと戻ろうとした時だった。
「うぅ……」
女性の乾いたような、今にも消えてしまいそうな声が耳元で聞こえた。
「え?」
杏は本能的に思わず、その声のした方へと振り返る。しかし、当然ながらそこには誰もいない。
「聞き間違いかな……」
聞き間違いであって欲しい、杏はそう願った。ここで実際に自殺があったとはいえ、杏には霊感なんてものはないし、ましてや今まで何もなかったのに急にそんな体験なんて信じられないし、信じたくない。
なんだか一気に冷えてしまった体、そして今杏が抱えている恐怖を増幅させるような暗闇に鳥肌が止まらない。気のせいだ、気のせいだと言い聞かせても、本心では違うと否定してしまう。
とりあえず、ここで震えていてもしょうがないのでベットに戻って動画でも見ようと、ゆっくりと足を進める。さっきまで全然耳にも入っていなかった床のきしみが気になって仕方がない。
杏は、逃げ込むようにベットへと飛び乗り毛布を被った。暑さとかそんなのとっくに消え去っている訳で、心理的な寒さと恐怖から身を守ることで頭がいっぱいだった。
「うふふ……」
そんな杏に追い打ちをかけるかの如く、先程の女の笑い声がした。夢じゃないし、幻じゃない、紛れもない、すぐそこにいる誰かの声。
杏は、かたく目を閉じてベットの上で体操座りをするように縮こまった。外の空気が入って来ないように、毛布にくるまる。あんなにウザかった暑さが今では杏を安心させる暖かさへと変わっていた。
しかし、そんな見えない安心を嘲笑うかのように、ミシッ、ミシッ、ミシッ、とこちら側に近付いて来る足音。
――やだやだやだ! 私が一体何をしたって言うの!?
声に出せず、心の中でそう叫んだ。そして、無慈悲にも足音だけがこちら側に近付いて来る。眠っている杏をまるで起こしに来るかのように。
もうある意味、杏は覚悟を決めていた。もうどうしようもないし逃げようもないから。一体何をされるのか、そんなことを考えながら時間の経過を待ち続けていた。
そして、足音はもうすぐそこにまで迫っていた。あと数歩で杏のいるベット、きっと毛布を外せばそこには、得体の知れぬ奴がいる。本能的にも道理的にも分かっていた。
手を強く握って、息を止めた。だが、
――あれ? 足音消えた?
何があったのか、忽然と足音は消えた。一応よく耳を澄ましてみるが、足音らしき音もきしみも聞こえない。
杏は、恐る恐る毛布の隙間から外の様子を確認する。そこには、女の目が――――――なんてことはなく、普段通りの部屋が広がっていた。
すっかり安心して緊張の糸が解けた杏は、勢いよく毛布から出て、体を起こす。外の空気が新鮮で、涼しいなんてことはないのだが心を落ち着かせるのには十分だった。
周囲を見渡しても、横に振り返っても、後ろに向いても、映画やドラマのように女性の姿はない。
――あぁ、やっと寝れる。
神経を使い過ぎた杏には、これが丁度いい薬になった。疲れ過ぎたせいでぐっと眠気が襲ってきたのだ。
「ふわぁぁ~……」
杏は、大きな口を開けて欠伸をした。そして空気を吸い込むのと同時に、ベットに再び寝ころんだ。杏の頭が枕に着く、その瞬間だった。
「おやすみ……」
耳元ではっきりと聞こえたその声は、杏から安心を一瞬にして奪い去った。
「いやああああああああああああああああああっ!!!」
そして、杏は気絶した。
この部屋には杏以外に人はいない。でも、杏が来るずっと前から住み着いていた者は自分が死んだ時間になると、苦しみを理解して貰おうとずっと声を出し続けていた。
今回やっと気付いて貰えたのだと、理解してくれるたのだと、住人は分かってくれる人なんだと、血に塗れた女は笑っていた。
女にとって、杏が恐怖のあまり気絶しているかどうかなど大したことではなかった。自分の存在に気付いてくれたことだけが一番重要な出来事であった。
女は待ち続ける、杏が目覚める時間まで。自分の声をちゃんと聞いて、受け入れてくれる時まで女は待ち続ける。