蠢く闇、投げられる槌
頭の芯まで響く痛みで、目が覚めた。
「うわ、あっぶね……」
木製の脚立から落ちそうになったトンは、慌てて踏み場に両手で掴まった。
まさか、これから屋根の修理だというのに脚立の上で自分は気を失っていたというのか。トンは小脇にしていたはずの屋根板と工具類が床にぶちまけられているのを見て、どうもそのようだとため息をついた。
“あの日”から一年経っていた。
曇天が日の落ちた空と相まって、教会の中は余計に暗い。しかもこの天気だと雨漏りの修理をなおさら急がねばならない。
トンは、≪リ・セイバー≫の仕事がない時は、「修理工」として糊口をしのいでいる。今は知り合いの神父から頼まれて、雨漏りの修理を行っているところだ。
そんな時だった。教会中央に固定した木製の脚立に座り作業する少年の背後で、何か人影が動いた。
誰かいる。それがこの教会の者だと仮定するには、息を殺し気配を隠して動いているのが不自然すぎる。――――ならば賊、≪ドレイグ≫か。
闇が、蠢く。放置しておくにはあまりに危険なそれ。どうする。
(当然、ブッ飛ばすしかねえよな)
トンは――――紛うことなき≪リ・セイバー≫だからだ。
そしてあの危険な匂いを放つ漆黒の人影に心当たりがあった。――――奴を見過ごすことなんてできない。だから。
トン・ビロードビレッジは、右手で回していた黒光りするトンカチを、腕を振って後方に投擲した。
まっすぐ空を切ったトンカチは、そのまま教会の入り口付近の闇に溶け込んで、肉を撃つ鈍い音を響かせた。
そして闇から響く、呻り声――――。
「いってええええええっ!!」
なんとも間抜けな。トンは呆れた。
闇の中から唸り声の主が出てくる。肌が黒く、ゴツイ顔立ちの中でも際立った厚めの唇、そして禿げ散らかした頭頂に微妙に金色の毛髪を残す彼は、この教会の主、セミョーン・ブーニンだった。カムラン王国の国教である「真教」を教え広める神父であり、全国的な信仰組織「真教連」に属する聖職者だ。
彼は、血相を憤怒の色に染め上げて怒鳴るのであった。
「……うおおい! 誰じゃ今トンカチ投げたのは!盗人ちゃうぞ!!」
普段からおちゃらけた人柄のため、心なしかあんまり迫力がない。トンは木製の脚立を半分降り、振り返って神父に怒鳴り返す。
「んなこたー分かっとるわ! ……人が汗水流して働いてる隙に色町繰り出そうとしてんじゃねーよエロ神父!!」
「な、なななな!!? だ、だれが色町に向かうだと!?」
「お前だコラ!」
“あの日”を終えて、気が付けばトンはこの教会に流れ着いていた。
彼女を失い。憔悴しきったトンは、この教会で初めて友人らしい友人に恵まれた。それがブーニン神父だった。彼の暖かな人柄を慕い、トンは≪リ・セイバー≫として全国を飛び回る傍ら、ちょくちょくこの教会にも立ち寄っていた。
「ちゃうちゃう、布教しに行くんだ!! 真教の清らなる教えを市井の人々に伝え、彼ら彼女らの心を安んじめようと……」
「こんな夜更けに僧服でもねえブランドものの一張羅に半径1km圏内オールレンジでむせ返るほどのフレグランスな香りを振りまいて挙句に行きつけの娼館のメンバーズカード握りしめてる四十路越えのおっさんが布教に行くつって誰が信じるってんだ!! この七つの大罪犯しまくりのエロデブハゲ神父ッッ!!」
「……いやいやいやいや待って待て待て、ハゲは七つの大罪犯してなくね? 別によくね? つか結構気にしてるからね? ――――っていやいや、ちょと待て違う違う違う! この髪型はトンスラというモノ! 真教の有名な修道士や聖人にあやかって敢えてこの髪型なのだ!!」
「無理やり否定してくる下りででもう見え透いた嘘だって分かんだよ! 天然なのはハゲだけにしろって!」
「誰がナチュラルハゲじゃハゲ! ワシにも毛ぇフサフサの時期があったわ! 誰が好き好んでこんな女受けの悪いザビエルハゲを晒すかっての……って ああああ」
「ほら! やっぱトンスラなんて嘘でただのハゲじゃねえか! めちゃくちゃ気にしてんじゃねえか!」
「……人にハゲっていってしもうた……」
「いやそっちかよ! 別に俺ハゲてねえから気にしてねえよ!」
「自分が言われて嫌なことは人に言わないっていう真教の黄金律を破ってしまった……。 私は、私は!神父失格ッ! 頭を丸めて謝罪の意を表さねばッ!!」
「この流れで急に敬虔な信徒っぽさを強調しなくていいんだよ! てかそう思うなら娼館行くのをやめろよッ! しかもその頭のどこに丸める毛があるんだよッ! ツッコミどころ多すぎて不覚にもアンタの人生羨ましいって思っちまったじゃねえかハゲッ!」
……トンは、神父のことをたぶん、いつも慕っていた。
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「……“悪魔の槌”がこの近くに?」
「はい。 いくらかの手の者からそのような報せが入っております」
屋敷の豪華な内装が、この男が使える主人の権勢を誇るように咲いていた。
男は報告を済ますと、主人の顔を仰ぎ見る。
「なるほど。 それは僥倖だ」
今呟く青年こそ、男が仕える剣士だった。青くたなびく美しい頭髪に隠れるくらい、小さく端麗な面貌。今でこそ略服だが、これが黄金の鎧を纏い剣を掲げる様は、古今の伝説に出てくる英雄たちにも並び称されるくらいの迫力があった。
主人の武名は、その属す世界の序列が示していた。即ち、≪リ・セイバー≫の序列四位、聖騎士アラン。一万人いるとされる≪リ・セイバー≫の中でも、その頂点に立つ四人のうち一人ということになる。
男は、重々承知していた。主人が更なる高みへ――――即ち序列一位になるために、“悪魔の槌”を討伐することが必要だということを。
男は、主人のために諜報部門を取りまとめる役を担っていた。手の者を放ち、各地で猛威を振るう≪ドレイグ≫の中でもめぼしい賊のアタリを付ける。時に主人に付き従い、実戦でサポートしていた。
隣には、男と共に諜報部門を取りまとめる同僚が一人並んでいる。仏頂面で寡黙な男だが、相当の手練れであるのは同じく武に通ずるものなら見ただけでわかる。
「出よう。支度にかかるぞ」
主人である聖騎士アランが手を打って声を上げる。
「し、しかし“悪魔の槌”です。 並の≪リ・セイバー≫が百人かかっても打倒せないと言われております。 慎重に策を練ってからご出立なされるがよろしいかと」
主の身を慮っての一言だったが、それが一万人の中で序列四位に位置する男にとっては愚にもつかない小言にしかならないことを、男は主人の激情を以て知る。
「私が……“並の≪リ・セイバー≫”と同じ、であると……?」
青い髪の下に隠れる大きな黒の双眸は、今紅く怒りを燃やす炎を滾らせていた。
主の靴が、大理石の床を叩く。跫音がまるで何かの秒読みをするかのように高く響いた。
「い、いえ、決してそのようなことは」
主を侮辱したわけではないと男は伝えようとしたが、時すでに遅かった。
先刻まで、アランの腰に収まっていた抜き身の剣が、男の頸に向かって放たれた。