心の鍵、それはとても固く閉じて
前のめりで、言葉が出た。
「ど、どうしてこの家に」
「んな警戒すんなって。何もお前を取って喰おうなんて思ってないからさ。……神父じゃあるまいし」
「あ、あの、自分の宿に戻るんじゃないんですか」
「その前に、この屋根を直さなきゃな」
トンは、大穴が開いたシルビアの自室の屋根を指さして言った。たくさんの雨粒が床を叩いた後に広がって、家の中はめちゃくちゃに濡れている。
「安心しろって。普段はトンカチに釘をもって、いろんなところで修理修繕の仕事をやって食い扶持稼いできたからさ。 腕は確かだぜ。 まー、せいぜいお前んちの屋根を全開させる大工事にはならないように気を付けるよ、はっはっはー!」
きっとトンはシルビアの気をほぐそうと冗談を言ってくれたのだろうが、自分でも驚くほど表情は硬いままだった。
トンが続ける。
「……だからさ。とりま今日はよろしく、シルビア」
手。トンが、手を差し伸べてきた。
いままでいくつ、こんな優しい手を見てきただろうか。
そうしていくつ、こんな手に『鍵』をかけてしまっただろうか。
この手は握れない。
「……わたし、物心ついた時から『鍵』の異能に目覚めて。自分にしか使えない、すごい力に目覚めたんだって、知りました。
けれど違ったんです。
頻繁に暴走を起こして、一緒に遊んでいたお友達の体を、マヒさせたみたいに次々動かなくしてしまったんです」
苦い記憶に、心の傷が疼きだす。
シルビアは気づけば、自分の過去をポツリポツリと話し始めていた。
こんな独り語りを誰が聞くのか、と思いながら。
きっと、目の前の少年に聞いてほしいのかもしれない――――
「小さいころは、鍵の外し方が分からなくて。
大人たちが必死に鍵がかかって動かなくなった友達を何とかしてくれたんです。
周りのみんなに迷惑をかけて」
「わたしの周りに人はいなくなりました。みんな、わたしと関わると体が動かなくなるから近づくなって。
唯一母だけはわたしのことを理解してくれたけど、母も『鍵』の力が暴走して人に見つからないように、なるべく私を外に出しませんでした。
しばらくしてすぐに、この『異能』が、「真教連」の人たちが取り締まりの対象としてるって聞いて、わたしは母に匿われる形で家にますます引きこもりました。
噂を聞き付けた真教連の怖い大人たちが、毎日家の戸を叩いて、母はつらそうな顔をして追い払っていました。
そんな心労がたたって、母は……お母さんは、倒れて……」
帰らぬ人となった。シルビアの眦には、すでに涙で溢れていた。
「この鍵の力は」
止まらない嗚咽の中で何とか声を振り絞って、シルビアは言った。
「わたしにしか使えないすごい力なんかじゃない。
わたししか人に迷惑をかける無能はいない。
だからごめんなさい……その手、握れない……」
静かに聞いてくれたトンが、今度は静かにシルビアに語り掛けた。
「自分が持ってる能力が、人に迷惑をかけるかもしれないって悩む気持ちは、分かる。
ほら、俺だって世界中に嫌われてるハンマーを背負ってるからさ」
トンは背中に鎖で巻き付けた、“悪魔の槌”ベルグハンマーを親指で指していった。
「けどさ、確実に言えることは。
今日、お前は誰かを救けることができたんだ。
お前が『鍵』の力を使わなかったら、誰も救からなかった。
暴走したとかなんだとか、すっげー些末なことだと思わねえか?」
トンは明るく、強くシルビアに声をかける。
「過去の失敗に怯えるより、もっと、目の前の小さな進歩を拾っていっていいと思うんだ。
もうお前は分かってるはずだ、自分でも、外に出ていいんだ、前を向いていいんだって」
トンの言葉に、全部頷くしかなかった。
彼の言うことは正しい。自分は、過去からくる失敗を過剰に恐れすぎているのかもしれない。
「ってわけで、握手だ。
ほら。 大丈夫だから、握ってみろよ」
それでも。迫るトンの手を前にすると、どうしても過去の苦い記憶が揺り起こされる。
『シルビアちゃん遊ぼう!』
『おいで!シルビアちゃん!』
『一緒に帰ろうよ!』
そんな優しい手に、次々と『鍵』はかかって動かなくなっていったんだ……。
「ごめんなさい……」
シルビアは呟いた。
「わたしがいれば、きっとみんなの優しさを……悪意に変えちゃうんだって、分かったんです。だから、」
そこで言葉を切った。左の手を、ドアノブへかける。
シルビアは、意を決して自室の外への扉を開いた。
階段を駆け下りる足は止まらない。
自室から、逃げだした。