さよなら
崩れ落ちる自らの体。
それに重なるように“シルビア”の悲鳴が聞こえて、彼女は立ち上がりトンを護るように立ち塞がった。
やめろ、“シルビア”。
痛みで声を発することができない代わりに、心で叫んだ。
逃げるんだ。殺される……。
トンの意識が、暗転した。
意識はすぐに戻った。
「良かった……無事だね……」
“シルビア”の声。
トンの体を胸で受け止める彼女の体は、全身の流血で濡れていた。
さらに、トンは瞠目した。
彼女の腹部を巨大な『螺子』が貫いていたからだ。
鮮血が、鋭い先端から滴り落ちている。
その背後から迫る、漆黒の人影。毒々しい光を放つ金の頭髪に目線が隠れているが、口元に歪な笑みを浮かべているのは離れていても分かった。
“シルビア”は、奴の魔手からトンを護り切ったのだ。そして致命傷を負った彼女の顔に、穏やかな表情が戻っていた。
なんで。どうして。
嗚咽の止まらぬトンの、叫びにも似た問いかけに、
――――だって、決めたんだもん。トンを護るって。
だからってこんなに傷ついて。バカだろ、お前。お前が傷つく姿見て、護られたいなんて思うわけねえだろ……!
――――それでもわたしはトンを護れたから。これがわたしの夢だった。今、わたしの夢、叶っちゃったんだあ。
ごめんな。何もできなくて。お前の笑った顔、ずっと護りたかったのに……!
――――それなら、大丈夫。ほら、見て。わたし、今微笑っているから。
トンは彼女の顔を見られなかった。彼が護りたかったものは、そんな哀しい微笑みではなかった。
項垂れるトンを見て、彼女は優しく彼を抱きしめようと手を伸ばしたが、果たせなかった。
彼女には、それだけの力も既に残されていなかった。代わりにトンが、彼女を抱いた。やはり頭一つ分背の高い彼女の肢体を、強く暖かく、その腕に納めた。
漆黒の人影が動く。頬に見える紅十字の刺青が近づく。奴が“彼女”を傷つけ、いたぶった
男だ。
トンはベルグハンマーの柄に手をかけた。怒りと憎悪が体の内で炎となって猛り狂っていた。
だが、同時に冷静にもなっていた。あいつには勝てない。この目で奴と“彼女”の戦いを見ていた。
こちらの攻撃を全て奴は弾き飛ばし、無効化していた。いくら伝説の槌を以て挑んでも
トンの持つどの技もが奴の『力』の前には通じない。
逃げよう。深手を負った彼女を担いで、どこか、追撃を受けない場所へ。
そう思ってトンは体を動かそうとした。しかし、動かなかった。腕も足も、指先も足のつま先までもが動かせずに、トンは呆然とした。
間違いない、これは天地人能力。
そして、この力の主は。
トンの眼は、驚きに剥かれて“彼女”を見た。なんで。どうして。ここから早く逃げないと。このままでは、後ろから来るあの男に、二人とも殺される。
それでも彼女は。少年が何度も恋し焦がれた、その白く薄い微笑みを浮かべて。
――――ずっとずっと、あなたと一緒にいたかった。
脳裏に焼け付く言葉を残して、自らの腕を少年の頭上に掲げた。
その手には、細く鋭い短剣が握られていた。
――――さよなら、トン。
そして腕が、振り下ろされた。
――――◇――――◇――――
あの日を、トンは生き延びた。
短剣で貫かれたはずなのに、なぜかは分かっていない。
“彼女”のすべての行動にも、納得がいかない。
剣を振り下ろした瞬間など、嘘であってほしいと願うたびにトンの記憶から何度も呼び起こされる。
ただ一つ残された事実は、“シルビア”は死に、トンは生き残ったということだ。
そして「漆黒の人影」も、どこぞかに潜んでいる。
すべてが最悪の結末に終わる中。
トンはこの一年後、“失った相棒”と同じ名前、同じ容姿を持つ、
引きこもりの少女と出会うのであった。