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約束の日

 鳥は高く飛んだ。それを見て、彼も何か思ったのだろう。手元にあった石も高く飛んだ。大きな弧を描く投擲物は、当然の条理に従って無惨に近くの浅い川に落ちる。その間抜けな音がまた、彼の心に虚空を広げる斥力となっていた。

 風見原かざみはら洋介ようすけは もう一度石を掴んだ。今度は前へ。川の対岸は言葉にして崖であり、人にとっての壁であり、動植物にとっては生存を賭けたスタジアムの入場口である。

 二塁に向かうランナー、打球を送球に変えるショート。情景が浮かんだ。洋介は送球を受けてフォースアウトを取るように塁無き地面を踏みしめ、一塁に投げるつもりで正面の壁へと石を放つ。鈍い音と土の舞う山肌がアウトを告げているようだった。

 土埃が完全に消えた時、洋介は泣いていた。涙を流して泣き、しかし声は鳴けずにいた。こみ上げる熱く哀しい想いは膨大であるが、その正体を表すのであれば虚無であった。何もないその津波のような無が心を丸ごと飲み込んでいるような気分であるのだ。

「どうしてなんだ」

 ようやく突いて出た一声は虫の羽音ほどである。しかし蚊の不快な音がうなじを刺激するが如く、小さな小さな一声は感情のトリガーとなる。

「どうして今なんだ」

 洋介には祖父母がいた。逝った、と変換することもできる。つい先日のことである。二人とも持病の発作であった。どちらが先かは分からないが、どちらかが倒れそれを助けようとしたまた一方が、連鎖的に発作を起こしたようである。

 しかし洋介を苦しめる何かは身内の他界だけではない。祖父母がもしその日を持ちこたえたのであれば、先日の洋介は石ではなく本物のボールを投げていたはずなのである。蝉の絶叫が響く七月、中学三年生の夏といえば部活が終わりになる一つの転機と言えるだろう。夏の総合体育大会、すなわち引退のかかる野球部の試合が祖父母の命日その日に行われていたのだった。もちろん当日の洋介は石でもボールでもなく、線香の煙を棺へ投げていたはずである。

 チームは負けた。つまり、そこで三年は引退だ。その瞬間の映像を洋介のレコーダーは知らない。あまりにも虚しく、悔しくも祖父母の事を思うとなんとも言えない、いや、何とでもとれる自己矛盾に堕ちるのだ。

 ——何をすればいいのだろうか。

 勝てば嬉しいのは当然であり、負ければ悔しいのも当然である。しかし自分の見ていない場所で、理不尽に引き裂かれたその場所で、無慈悲に散ったチームメイトや自身の虚無感をどうしたらいいのか。解決法は見つからなかった。

「……、」

 洋介はもう一度ありったけの力を込めて石を握った。丸く大きく、それでいてボールより重量のある投げやすい形をしている。今度は送球ではない。ストラックアウトのように、破壊したい的に向けて力任せの一球を放った。


「速いな」


 後ろから何者かの声が飛んできた。実体のないものをキャッチするわけにもいかず、その声は洋介の鼓膜に直撃し振り向かせるまでに至る。

 そこにはにこやかに微笑をたたえた青年が立っていた。まるで自身の子供を見るように、懐かしいような、それでいて厳しい目つきをしていた。

 これが風見原かざみはら洋介ようすけ船倉ふなくら灸士きゅうじの最初の出会いである。彼は名乗る前に速度を褒めた。そして次に、問題点を指摘した。

「いい肩をしてる。だけどそれじゃ暴投だ。球を投げる時に余計な感情があると、心の芯のように曲がっていってしまう」

「あなたは」

「ああ、ごめん。船倉灸士ってんだ。高校まで部活で野球をやってて、今は草野球チームにいる。どうだ、ちょうどグラブも二つあることだし、キャッチボールでもしないか」

 そう言って彼はグラブを差し出した。ローリングスのロゴが入った、年季の感じられるものである。もちろん柔らかくボールを取るためのポケットは完成されていた。指が短めな事や広めの型から、恐らく内野手用に作ったものだろう。

 受け取っただけで、洋介はそのグラブが欲しくなった。革の質、完成された型、無駄を排したそのグラブは一度野球に触れたことのある人間ならば大いに賛美するはずである。

 改めて洋介はこの怪異な状態を見て、自分は夢を見ているのではないかと真剣に考えた。見ず知らずの人間にグラブを手渡され、キャッチボールを申し込まれる。そんな状況は一度も経験したことがない。

「ほら、いくぞー。初心者じゃないよな」

 灸士は白球を投げた。肩慣らしのための手首のみを使う投法、スナップスローである。徐々に距離を取り、大体塁間ほどの距離になった。

「あっ、すみません」

「いや良いって。俺のミスだ」

 時折洋介は暴投とまで言わずとも、決してコントロール出来ているとは言えない球を投げた。田舎の河原である。灸士のグラブに収まらないボールは不規則に跳ねてすぐどこかへ隠れてしまう。その度に洋介は申し訳ない気持ちにさせられ、普段楽しむキャッチボールもこの時ばかりは罰ゲームのように思われて仕方がない。

「何故そんなに球が泳いでいるんだ?」

 投げながら灸士は尋ねる。洋介の投げる球はどこか頼りなく、回転がしっかりしていなかった。迷い球はたとえ山なりの送球ができても、直前で沈んだり球筋が微妙に変化してしまったりする。

「いいえ、別に何でもありません」

 洋介は強がった。そうしないと表面張力で踏ん張る水面に洗剤を落とすように、瞳の関が決壊してしまいそうだったからだ。

「何があったのか知らないけど、球を見れば分かる。何でもないわけないだろう」

 灸士が放ったボールを受け止める。重く速く、しかし取りやすい球だった。グラブに収まる球を再び返そうとして、洋介は違和感に気付く。

 血まみれであったのだ。それも、ボールではなく手が。石を投げ続けて出来た擦り傷が、ゴム製の軟式球によって裂けてしまったらしい。ペンキのような血潮は美麗でもグロテスクでもなく、ただどこか諦めを感じさせるものであった。

「話す前に、そこで手を洗ってこいよ」


   ◇◆◇


 話し終えて、悪玉を吐き出したような気分にはなれなかった。まだ——本当に奇怪な表現であるが——虚無が、何も無いはずであるそれが蜘蛛の巣を張ったように動かないのであった。川の清水は手の傷口から確実に体内に入り込んだはずであったが、人間の秘奥の精神領域には何者をも拒む壁があるらしい。

「なあ、それ。俺に似てるよ」

 灸士はそう言って洋介の隣の岩に腰を下ろす。彼の瞳には情熱と憐れみが疼き、そしてまた微妙な自嘲も含んでいた。この微妙な自嘲のわけは洋介には理解できない。しかしきっと、これから知るのであろう。そんな気がしていた。

「よし、部活も終わり、中学生だからバイトも無いだろ。明日から予定は?」

「特には」

「じゃあ決定だ。これから一週間のうちにどこかで練習しよう。来週の明日、俺のいるチームも最後の試合になるんだ。だが欠員が出てこのままじゃ君みたいなことをメンバー全員が感じることになる。どうだ、出てくれないか」

 その誘いに、返す言葉はは出てこなかった。代わりに大きく頭を縦に振って、全力の同意を示す。洋介には最後のチャンスだと思われた。このままでは高校で野球をする気にもなれない、どこかでそう思っていたからだ。勝てば次がある。大会と同じだ。この試合で勝つことで、洋介は他ならぬ道しるべと、その先を塞ぐ迷海を裂くモーセの奇跡とを同時に得たように思えた。

「じゃあどの日に練習しようか。都合いい日で構わない」

「毎日で」

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