かわいそうな人
“わかったような口を聞くな!!!”
…遠い昔、父に怒鳴られた記憶がよみがえった。
“なんだその目は!!!”
…父の言葉と、彼の言葉が重なった。
…私だって、好きでわかっているわけじゃない。
…私だって、好きでこんな目に生まれてきたわけじゃない。
私の心の声は、いつだって表立って発信される事はない。
私の心の中で、ひっそりと出現しては、あてもなく消えていくのだ。
口から出ていくのは、
「…あっ」
「…ひぃっ」
…こんな短い悲鳴だらけ。
…どうしてだろう?
父が亡くなって、もうどの位たつのだろう?
よそで男を作り、私がまだ小さい頃に蒸発した母に瓜二つだと言われた私は、父にとって憎むべき母と重なり、成長するにつれて、父の暴力は酷くなっていった。
それでも私が家から出ていかなかったのは、私には父しか居ない。
そして、父には私しか居ない。
…そう思っていたからだ。
父は、ひとしきり私を殴った後、決まってガタガタと震えだす。
恐怖に見開いた目、震える手で、幼子のようにワンワン泣きながら、ここで初めて私を私だと認識してくれる。
私の身体を抱き締めながら、私の名前を呼び、ごめんなぁ、ごめんなぁ、…と繰り返し言うのだ。
…そう、これはよくある可哀想な虐待を受けた経験のある一人の少女の話である。
皆、他人事だろう。
厄介で、面倒くさくて、関わり合いをもとうとさえしてくれない。
でも、それは正解だと思う。
本当の事なんて、私自身にもわからないし、結局の所、当事者になって初めてわかる事もあるからだ。
当たり前の事だと思う。
私は、そんな父を可哀想な人だと思っていたし、心の底から憎み、嫌いになる事が出来なかった。
私の身体に、どれだけ傷が増えても父の気が晴れるのならいいと思っていた。
痛みを感じる時、暴力を受ける時、不思議と殴られている自分と、それを客観視している自分が居た。
父を怖いとも思わなかったし、嫌いだとも思えずにいた。
…でも、私はそんな自分が大嫌いだった。
父が突然の病でぽっくり亡くなり、一人ぼっちになった私に救いの手を差し伸べてくれたのは、彼だった。
私は、父が亡くなり何を感じたと思う?
…虚無感だ。
彼は、優しく私に接してくれた。
親切ないい人。
彼の世間からの評判だ。
いつもニコニコしており、穏やかで真面目な彼は人望もあつい。
彼は完璧だった。
彼は私の恋人となり、彼と同じ時間を過ごす中で、彼は彼の努力が無駄だという事を悟った。
しかし、それを認めようとはしなかった。
正解には、認めたくなかったのだ。
…きっと。
きっかけは、忘れてしまうような些細な事だったと思う。
今となっては、それさえも思い出せない。
私の頬を、彼は叩いた。
そして、ハッと我にかえり、泣きながら私に謝ってきた。
“ごめん、ごめんな。”
…と。
私はその時に気が付いてしまった。
…それから、彼は私に頻繁に暴力をふるうようになった。
そして、決まって暴力の後で、泣きながら謝り私を抱き締める。
彼は、私が憎いわけではないのだと思う。
誰かと重ねて暴力をふるう訳ではなく、純粋に私に暴力をふるう。
私に暴力をふるっている際は、本気で私が憎いのだと思う。
私は、決して彼の思い通りになるという事はなく、それでも彼はそれを私に望んでいる。
私は、人形のように彼に殴られ、それでも彼の思い通りの私を演じてあげる事さえ出来ない。
不器用で、どうしようもなくて。
私は、彼から暴力を受ける事によって初めて自分の存在価値を見出だした。
否、暴力を受けている時に生きている事を実感し続けてきたのだ。
この、どうしようもない虚無感は父が居なくなった事により、自由になってしまった自分に対して、解放された自分に対して…。
私は…解放を望んでいなかった。
それこそが、恐怖だった。
いつまでも、“暴力”…という行為での、逃げられない呪縛の中でしか、生きているという実感が出来なくなってしまったのだ。
それ以外、私は生きる術をしらない。
他人から見れば、私の人生は不幸かもしれない。
可哀想なのかもしれない。
それでも、私はそうは思わない。
だって、私の人生は私だけのもの。
…だから、そんなに泣かないで。
遠くなっていく意識の中、涙でぐしゃぐしゃになった彼の顔が見えた。