新年記念外伝 ぼーい・めっと・おーが! 【中編】
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彼の顔は、とても悲しそうだった。
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その人を初めて見たとき、第一印象として残っているのは体の大きさでも顔でもなく、細められた目から見てとれる悲しげな光だった。
その感情は周りの皆が騒ぐほどに強くなっていったが、彼がある一点を見た時だけそれが和らいでいた。
自分たちが一生懸命に育てた、花たちだ。
それを知り、私は丹精込めた花たちが人の心を癒せるということを確認できてうれしく思い、同時に花を純粋に愛でることができる彼に興味を持った。
だから話しかけ、彼が思った通りの優しい心を持っていると知り、またうれしくなった。
なぜならそれは、私自身が欲してやまなかったものだったから。
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「――ぁぁああアアアアアアアァ!!」
彼女へとりあえずの謝罪を済ませ、そして来たる衝撃に対して目を瞑った瞬間、そんな叫び声が僕の耳に突き刺さり、そして僕のすぐ隣を何かが通り抜けていくような風の流れを感じた。
いきなりの事に驚いて目を開けてそちらの方を見るが、
……あれ? 誰も、いない?
おかしい。
本来ならばそこには僕をバットで狙っていた先輩がいたはずなのに、その先輩もいつの間にかいなくなっていた。
いや、よく見ればこの場からいなくなったわけではなく、少し離れたところで他の先輩の下じきになって倒れている。
その二人は気絶しているらしく、先ほどからピクリとも動かなかった。
そしてすぐに、上になっている先輩が先ほどまで鬼々島さんのそばに立っていた人だということに気が付き、何かあったのかと彼女の方を見れば、彼女はうつむいたままそこに立ち尽くしていた。
……無事、か……。良かった……?
彼女が何事も無く立っているのに安堵したのち、僕は違和感を覚えた。
最初は『どこかが変だ』という思いでしかなく具体的な部分はわからなかったが、彼女の手元を見てその違和感の正体に気が付いた。
……ガムテープの、切れ端……?
今まで拘束されていたはずの彼女の手は今や完全に自由となっており、その残滓のようにガムテープの切れ端が手首にぶら下がっている程度であった。
その切れ端の断面は荒らく、まるで力に任せて無理矢理引きちぎったようにも見えて――
「――――ない――」
うつむいたことで前傾姿勢になっている彼女の口から、小さな言葉がぼそりとこぼれた。
それはあまりにも小さく、しかし聞き逃すのをためらうような気迫に――鬼迫に満ちているようで――
「ゆるさ、ない……!!」
先ほどよりもほんの少し大きな、しかしより強い気持ちがこもった声が響いたのと同時に、彼女は顔を上げる。
いつもにこやかな笑顔を浮かべているその口は何かを耐える様に引きしぼられ、獣のように歯を向いていた。
そしてたれ目がちだった目はカッと見ひらかれ、血走った眼を獰猛に光らせている。
まるでその姿は、
「鬼……?」
そう僕がつぶやいたのと同時に、彼女はふらりと前に傾き――
「――――!」
勢いよく大地を蹴った。
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いつものはかなげな少女の姿は完全になく、それは地を駆ける猛獣のように前へと進み続ける。
激しく、しかし速やかに獲物へと近付き、力任せに胸ぐらをつかむと、叩き伏せ、振り回し、適当な方向へ放り投げる。
放り投げられた獲物たちは物理法則に従い宙を舞い、校舎の壁へ突き進んで行く者もいれば、敷地を取り囲むフェンスへとぶつかってしまう者もいた。
「――アァァアアアアアアアアアアァァ!!」
その姿は、人間というよりは嵐や竜巻と言った天災を彷彿とさせるほどであり、周りにいる者達はただその流れに身を任せる事しかできていない。
「――よくも、よくもよくもよくも……!!」
ただ一方的に吐き出される感情に巻き込まれ、悲鳴を上げる間もなく叩きつぶされる。
そんな惨状が、一学校の校舎裏で繰り広げられていた。
「あなたたちみたいな人は――」
なんとかその中から抜け出すことに成功した一人が逃げようとするも、すぐさま襟首を掴まれて動けなくなってしまう。
「――っひぃ!?」
哀れな獲物はそのまま振り回され、地面に叩きつけられて伸びてしまう。
それでも猛獣は容赦しようとはせず、拳を振り上げてとどめを刺そうとして――
「あなたたちみたいな人は、生きている価値なんて――」
「そこまでだよ、鬼々島さん。それ以上は口に出しちゃいけないことだ」
後ろから、抱き止められた。
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「……河原、さん?」
暴れまわる鬼々島さんを取り押さえるのは一苦労だった。
ただでさえ近付くのが大変なのに、それに加えて先輩たちが投げ飛ばされてくるのを受け止めなくてはならなかったからだ。
何とか全員致命的な傷を負わせることなく受け止めることができたが、フェンスにぶつかった人は受け止めきれなかったので早く病院に運んだほうが良いだろう。
「離して、ください! なんでこの人たちを、かばうんですか!? この人たちは河原さんを――あんなに優しい河原さんを……! この人たちは、許せません! だから私が――」
「駄目だよ、鬼々島さん。その言葉は、何があっても口に出しちゃいけない。誰にもそんなことをする権利はないんだから」
暴れる鬼々島さんを抱きしめて抑える力は強くしても、なるべく言葉には力をこめないように、優しく静かに話して行く。
そのほうが、彼女も落ち着きやすいと思うから。
「でも――!」
「いいから。僕は大丈夫、大丈夫だから……」
「大丈夫なんかじゃ、ないですよ!! あの人たちは、河原さんの、内面を知ろうとも、しないで……!」
「でも、鬼々島さんはちゃんと見てくれた」
そう言うと、彼女の抵抗はぴたりと止まった。
僕を不思議そうな目で見てくる彼女に、僕は本心からの言葉を伝えていく。
「僕をちゃんと見つけてくれたのは、鬼々島さんが初めてだったから。今まで僕を外見でしか見てくれなかった人たちの中で、鬼々島さんだけは僕を僕として見てくれた。それは僕にとってとっても嬉しい事で、幸せな事だったんだ」
鬼々島さんにもう暴れ出しそうな様子はない。だから僕は少しずつ腕の力を緩めながら、
「僕は、僕を幸せにしてくれた鬼々島さんがつらそうにしているところなんて見たくない。だから、」
――いつも通り、笑っていて下さい。
そう言った途端、鬼々島さんは一瞬驚いたような顔をして、それから悲しそうな顔になり、
「……私は、また……?」
そう呟くと、全身の力がすとんと抜けて、気絶してしまった。
周りに上級生たちが気絶し、その真ん中で気絶した女の子を抱えているというこの状況に一瞬どうしたらいいかわからなくなったが、とりあえずは、
「……保健室に、連絡しなきゃ……!」
そう呟くと、携帯を取り出して職員室に電話をかけることにした。
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「……本当に、ここが鬼々島さんの家、なの?」
思わずそんなことを呟いてしまうほど、目の前の光景は受け入れがたい物だった。
何せ、僕の前に広がっているのは武家屋敷もかくやというほどの立派な木製の門であり、その左右に広がる壁はそれぞれ数百メートルも続いていて、ここからでは端かすんで見える程だ。
その壁は塗り直したばかりなのか真っ白であり、それだけでも堂々たる雰囲気をにじませている。
「そうだよ、ここが鬼々島さんのお家。まあ、初めて見たら誰だって驚くだろうけどね」
そう言って僕の隣に立つのは、濁音 はく先生。
今の見た目はスーツを着たどこにでもいそうな優男だが、学校では白衣を着こなす養護教諭だ。
この人の所に行くとなぜか気持ちが安らぐと評判の先生であり、カウンセラーも兼任しているすごい方である。
ちなみに、僕が倒した先輩たちを介抱してくれたのも、ここまで僕と鬼々島さんを車で送り届けてくれたのも、全部この人だ。
「でも、本当にいいのかい? 今日の事は全部自分がやったことにしてほしい、だなんて……」
「はい、構いません。元々僕が招いた事態ですから、鬼々島さんが罰を受ける事はありません」
それに、
「それに、本当の事を話したところで到底信じられるとは思えません。もし僕が真実を学校側に伝えたとしても、それは鬼々島さんが僕をかばったということになるでしょう。結果が同じなら、悪いのは僕だけでいい」
『小さな女の子がいきなり怪力を発して三年生たちを全員叩きのめした』だなんて、実際に見ていても信じてもらえるかわからない真実を僕に対して悪い噂しか持っていない生徒たちが知ったところで、僕のありもしない武勇伝がまた一つ増えるだけだ。
だったら今回はそのことをあえて利用する。
普通ならばだれもが興味を引く真実を、ありふれた僕の悪行として埋もれさせてしまえば、真実にたどり着ける人なんてほとんどいなくなるだろう。
「……君がそれでいいのなら、僕はその通りにするよ。とりあえず公式な記録としては君の言い分を残しておく。その代り、信用できる先生たちには本当の事を伝えておくから、少しは罰が軽くなるはずだ」
「ありがとうございます」
「まあ、今回の事は正当防衛――いや、過剰防衛ぐらいになると思うから、そこまでひどい事にはならないと思うけどね」
「そうですか……。でも、本当に申し訳ありません。こんなことに付き合わせてしまって……」
「なに、構わないさ。これも仕事の内だし、何より君たちには感謝もしているからね。君たちのおかげで、かなりの上物が手に入った」
そう言いながら濁音先生は僕の横を通り、門の横に取り付けられたインターフォンを押し、しばらくして聞こえてきた声に対応し始めた。
少し話してから向こうの音声が消え、そしてすぐに門に取り付けられた小さな門が開くと、中から着物を着た中年ぐらいの女性が出てきて先生に頭を下げた。
「ようこそ、鬼々島家へ。私はここでお手伝いをさせて頂いております、魈子と申します。どうぞ、こちらへおあがりください」
そう言われて門を指し示めされたので、僕は彼女に従って門をくぐり、彼女の家に入った。
「――ぅうん……?」
と、門をくぐったときの振動が伝わってしまったのか、ずっと僕の腕の中で眠っていた(あの乱闘の後から今までずっと、彼女は寝たまま僕の制服を掴んで離さなかった)鬼々島さんが目を覚まし、寝ぼけた目で僕をじっと見て、次に周りの光景をざっと眺めて、しばらく何事かを考えるように虚空を見つめ、
「――っは!? も、申し訳ありません河原さん!! あの、えっと、その、わたしっ!!」
やっと完全に目が覚めたのか、顔を真っ赤にしてじたばたと暴れ出した彼女を何とかなだめ、まだ調子が戻っていないであろう彼女を抱えたまま、僕は魈子さんに導かれるままに進んで行く。
少し歩くと、くもりガラスに木製の格子が付いた引き戸がはめられた出入口が見えてきた。
先に立っていた魈子さんが扉に手をかけガラガラと音を立てて開くと、『どうぞ中へ』と言い、僕たちを中へいざなった。
どこぞの旅館とも見まごうばかりの大きくきれいな玄関を通り客間へと案内された僕たちは、お茶を出された後、
「……では、鬼々島の当主に知らせてまいりますので、少々おくつろぎくださいませ」
と言って魈子さんが静かに出て行ったのを確認すると、僕は緊張の糸が少しだけ緩んで『ふぅ』と息を漏らした。
少しだけ生まれた余裕はすぐさま好奇心へと変わり、僕は改めてこの部屋を見回す。
四方を障子で仕切られた二十畳ほどの和室の中心には、木製の見事な卓袱台がドンと置かれており、僕らはその長方形の卓袱台のそばに置かれた座布団の上に正座している。
物珍しげに周囲を見ている僕に、隣に座っていた鬼々島さんはすまなそうに顔を伏せて、
「堅苦しい家で申し訳ありません。なにぶん歴史だけは古いもので、格式ばった空気がいまだに濃く残ってしまって……」
「いや、それは良いけど――?」
何でもないことを告げようとしていると、どこからともなくどすどすという重たい音と共に、
『――お? お嬢が帰って来たか? 無事なんだろうな? もし怪我一つでもあったらただじゃおかねぇぞ!』
という低くておどろおどろしい声が近付いてきた。
少ししてどすどすという音がすぐそこまで近付いてきたとき、障子に目をやった僕はぎょっとした。
……え? なにこの影……?
紙と木でできた障子はその向こう側に立つ人物の影を映し出していたが、その形はありえない物だった。
まず、体格は僕以上もあり、髪の毛は逆立つように伸びていて、さらには丸太のように太い腕には何か包丁のようなものも携えていた。
そして何よりもおかしいのは、その人の頭の上にある二つのでっぱりで――
「一鬼さん、お客様の前です! 静かにしてください!!」
と、その様子を僕と一緒に見ていた鬼々島さんは何やら血相を変えて障子の向こうへ呼びかけた。
僕が突然の大声に驚いて鬼々島さんの方を見た瞬間、障子が静かに開いて、
「失礼いたします。お騒がせして申し訳ありません。私、当家で庭師を務めさせていただいております、一鬼と申します」
和服を着た二十代前半ぐらいの男性が顔を見せた。
彼は短髪に優しそうな顔をした中肉中背の見た目であり、先ほど障子ごしに見えた影からは想像もできない姿をしていた。
もちろん、頭には何もおかしい所はない。
……あれ? 何かの加減で影が歪んで見えたのかな……?
そう考えた僕は黙って座礼すると、一鬼さんも僕に軽く礼をして、それから鬼々島さんの方へ向き直り、
「おかえりなさいませ、お嬢。見たところ何のお怪我も無いようで、安心いたしました」
「心配をかけて、ごめんなさい、一鬼さん。見ての通り、私は大丈夫です。他の方たちにも、このことを伝えて、あげてください」
「わかりました。他の皆も安心することでしょう。――では、お客人の方々、当主もじきに参りますので、しばしごゆるりとお過ごしくださいませ」
そう言って再び頭を下げた一鬼さんに頭を下げ返すと、彼はにこりと笑ってからふすまを閉め、そして立ち去って行った。
そしてこの場には、何やら安心した様子の鬼々島さんと、いつも通りにこにこ笑っている濁音先生、そして僕の三人が残された。
沈黙が流れる中、少々気まずかった僕は鬼々島さんに話しかけようとして、しかし何を話していいかわからずに口をつぐむことを繰り返していると、
『――稀輝が帰ったってのは本当か!? 怪我ぁしてねえんだろうな!?』
と、先ほどの一鬼さんとはまた違う低くてガラガラした声が響いてきた。
『オ、親父! お客人の前だ、その姿はまずいですって!!』
『んなもんわかってるに決まってんだろうが!! 馬鹿にすんじゃねえぞ!!』
そんな何人かの声が聞こえてきて、そして一人の影が障子の前に立つと、間髪入れずにガラッと荒々しく開かれ、
「稀輝ぃ! 怪我ぁしてねえかぁ!?」
甚平姿の男の人が現れた。
その人は先ほどの一鬼さんとどこか似た雰囲気のある三十代ぐらいの人で、短髪であることも中肉中背であることもよく似ていた。
また、甚平の合わせや帯が少し緩んではいるが、それも一つの着こなしだと納得させてしまうような迫力を持っている。
だが、その顔は赤く、足取りも少々おぼつかない事から、酔っているのだという事ははっきりわかった。
「――おお、稀輝! 怪我はねぇようだな! ……ん? 誰だこいつは? まさかお前を襲ったっていう大馬鹿野郎かぁ!?」
「ちょ、お父様!? そんな失礼なことを言っては――」
その人――鬼々島さんの言葉を信じるのなら父親――は僕の方をすわった目で睨むように見て、そんな危険な勘違いをした。
あわてた鬼々島さんが声を上げるも、
「うるせぇ! お前は黙ってろ!! 俺が今すぐこいつらを叩きのめしてやるぜ!!」
言うが早いか、その人は『ドンッ!』っと足を踏み鳴らすと、床を蹴って一気に僕の方へ駆けてきた。
その動きは、どことなく今日見たばかりの鬼々島さんの動きに似ていて、やはり親子なのだなぁと他人事のように考えて――
「ダメです、お父様!!」
眼前に迫った拳が数センチの間を空けてピタリと止まり、僕はようやく驚いて飛び退くことができた。
急いで安全地帯まで引いてから見ると、鬼々島さんが突然現れた男の人の手首を両手で抑えて、突きをとどめていた。
「稀輝ぃ、てめぇ親のやることに何手ぇ出してるんだぁ? おい!」
「間違ったことを、しているのですから、止めるのは、家族として当然、っです!」
互いに譲ろうとせずに、二人は手首を中心としてにらみ合っていたが、やはり男と女では地力が違うのか、鬼々島さんはお父さんが腕を振り上げると同時に振り切られ、勢い余って部屋の隅まで吹き飛ばされてしまった。
お父さんはそれを見て『フン』と鼻を一つ鳴らし、そして僕の前へ歩み寄ってきた。
「さて、邪魔が入ったが、てめぇをぶちのめすのには良い準備運動になった。さあ、歯ぁ食いしばって――」
「――謝ってください」
今はそんな場合ではないとわかっていても、それでも言わなければいけないと思った。
だが、お父さんは聞き取れなかったのか、怪訝な顔をして、
「ん、なんだって? 男ならもっとはっきり言ったらどうだ? あ゛ぁ?」
「彼女に、謝ってください!!」
聞き返してきたお父さんに、僕は腹の底から声を絞り出す。
「彼女は何にも悪いことをしていません! なのに暴力を振るうなんてひどすぎます!! 今回の件で、悪いのは全部僕です。彼女は何にも悪くない。だから、早く彼女に謝ってください!!」
そう言われたお父さんは一瞬呆けたような顔をして、それからすぐに顔を真っ赤にすると、
「てめぇ、偉そうに俺に指図しようってか? 生意気なこと言ってんじゃねぇよ!!」
そう叫び、先ほどと同様に拳を振りかぶり、叩き込んできた。
だが、先ほどと同じ攻撃だったために軌道を読むことはたやすく、『バシン!』という衝撃音と共に、僕は重ねた両掌でその拳を受け止めることに成功した。
その事実に驚きを隠せない様子のお父さんに、僕はもう一度叫ぶ。
「お願いです! 彼女に謝ってください!!」
その言葉にお父さんは拳を引くと、感心したように笑って、
「へぇ、最近の若いのにしちゃあなかなか活きがいいじゃねぇか」
そう言うとお父さんはうつむき、両手に力を込めだして、
「――じゃあ、これくらいやっても大丈夫だよなぁ?」
そう呟くと、『オラァァ!!』の雄叫びと共に、その輪郭が変わりだした。
酒気を帯びて赤かった肌はますます赤く。
平均的だった身体つきは、筋肉がはっきりわかるほどに膨らみ。
そして何より、その額からは大きな二本の角が真っ直ぐ生えてきて――
「――え?」
いきなりの事が連発しすぎて何が何やらわからない僕は、何もできずにその変化を見ている事しかできなかった。
「お父様、それは駄目!!」
「鬼々島さん! それ以上はいけません!! その少年は――」
吹き飛ばされた鬼々島さんと、彼女を介抱していた濁音先生が叫ぶ中、お父さんだったモノは、体にぴったりとなった甚平姿となり、血走った目でゆっくりと僕を見て、
「……どうした、ガキィ? お前もさっさと本性を出したらどうだ?」
「――え? 本性って、え?」
パニック状態になった僕を見て、それは苛立ったらしく、
「てめぇ、俺程度にはそのままで十分とか馬鹿な考え持ってるんじゃねぇだろうなぁ? だったらそのままでいい。俺にぶんなぐられて後悔しなぁぁああ!!」
そう叫び、先ほどと全く同じ軌道で拳を放ってきた。
僕はまたそれを受け止めようと動いたが、同時に頭の隅では受け止めきれないということも理解していた。
目の前のモノは明らかに僕の力以上の力を持っており、それが本気で殴りかかって来る以上受け止めた掌ごと砕かれるのはわかりきっていた。
だから僕はそれを覚悟して、掌を構えてから目を瞑り――
「……あれ?」
何も起きないことを不思議に思った僕は、細く目を開けて前を見た。
すると、掌の数ミリ前で拳が止まっているのが見えた。
寸止めにしたのかとも思ったが、姿勢を考えても明らかに拳は振り切られており、加減した様子は全くなかった。
「……アァ? どういうこった、これはぁ?」
拳を放った本人も疑問だったのか、しばし何が起こったのかを考え、そして理解が及ぶ前に――
「……なにやってるんだい、あんた?」
その場に新しい声が響いた。
「――ヒィッ!? そ、その声は!?」
「おや、あんたまさかあたしの声も忘れるほど酔っ払っちまったのかい?」
僕は明らかに狼狽し、ふるえてすらいる様子のそれを見て、そしてその後ろにいるもう一人の存在に気が付いた。
膨れ上がった肉体の陰に隠れるようになっていたその人は、三十代ぐらいの妙齢の女性であり、着物姿も凛々しいその人の右手は、前にいるモノの襟首を掴んでいる。
どうやら拳が当たる直前に襟首を掴んでそれの体をそこに留め、僕に手が届かないようにしたらしい。
「さて、見た感じ随分と面白そうなことになってるみたいだけど……」
そう言いながらその女性は部屋の中を見渡し、濁音先生に会釈をし、鬼々島さんには心配そうな目を向け、そして僕にはにっこりとほほ笑んだあと、
「まずは、この馬鹿にお仕置きと行こうかねぇ……?」
襟首をつかんだままのそれに対して、冷たい声を放った。
「ま、待ってくれ! これにはいろいろと事情が……!!」
「だまらっしゃい!! どんな事情があろうとも、実の娘に手を挙げていい道理があるもんかね!!」
それの言葉をそう切って捨て、彼女は襟首をつかんだままもう一度僕に笑顔を向け、
「ああ、そこの貴方。悪いけど、そっちの外に面しているふすまを開けてくれるかい?」
「……これ、ですか?」
なんとなく有無を言わせないような彼女の言葉に従い、ふすまを開けた瞬間に、僕の横を風が通り抜けた。
「え?」
何事かと思い外を見ると、先ほどまでは部屋の中にいたそれが庭の地面に転がっていた。
「ぉおお、イテェ……」
しりもちの姿勢から起き上がろうとしているそれのもとに、外にそれを放り捨てた彼女が歩み寄る。
その事に気が付いたそれは、いっそ哀れなほどに取り乱し、
「ま、待ってくれ!! 俺はただ稀輝をいじめたそいつをしかりつけてやろうと――」
「娘の事が心配だからってしこたま酒かっくらって、話もろくに聞かず人を殴りつけ、あまつさえ娘に手を挙げた大馬鹿者のいう事に聞く耳を持つ気は無いよ」
冷たくそう言い放った彼女は、それの腕をガシッと掴むと、
「少し、頭冷やして来な!」
一方的に制裁を加えた。
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訳の分からないまま、女性がそれを振り回し、叩きつけ、殴りつけ、吹き飛ばしている様子を眺めていると、隣に鬼々島さんが駆け寄ってきた。
「か、河原さん! 大丈夫、でしたか!?」
どうやら僕の心配をしてくれたらしく、しきりに僕の手をうかがっている。
その不安をなくそうと、まだ少ししびれる手を無理矢理動かして安心させる。
「大丈夫、これぐらいなら大したことはないから。だけど、あの人は一体……?」
そう言いながら、庭にある池で人間水切りを行っている女性を見ると、鬼々島さんは顔を赤らめて、
「お恥ずかしい、所をお見せしました……。あの二人は、私の両親で、そして――」
その続きを、彼女は一瞬言いよどみ、そして意を決したように、
「私と同じ、鬼です」
そう言った。
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庭で盛大な夫婦喧嘩が行われている間、僕は鬼々島さんからいろいろな話を聞かされた。
彼女たち鬼のこと、この家のこと、人外についての事。
本当にいろいろなことを教えてもらい、実感がわかないながらもなんとなく納得しようと頑張っているところへ濁音先生が近寄ってきて、
「……さて、僕はそろそろお暇させてもらうよ。鬼々島さんは送り届けたし、最低限の話も済んだ。後は君達同士の問題だからね」
そう言うと、荷物をまとめて部屋を出て行こうとして、
「ああそれと、鬼々島さん」
「なんで、しょう?」
不意に振り返り、鬼々島さんに声をかけた。
「いや、大したことはないんだけどね。君のおかげで良い物が手に入ったから、そのお礼をしておこうと思ったんだ。彼らの事は私に任せておいてくれ。体も心も、完全に癒して見せるよ」
「……お願い、します」
「うん、お願いされた。じゃあ二人とも、気を付けてね。さようなら」
そう言い残し、先生は去って行った。
「なんだったんだ、いったい……?」
そろそろ頭の処理が追いつかなくなってきていたが、ふと外の様子を見るとお母さんが池に叩き込んだ自分の旦那をぶんぶん振り回しているのが見えた。
どうやら脱水のつもりらしい。
そうこうしているうちに満足のいく出来になったのか、ぐったりとしたお父さんを引きずりながら部屋に戻ってきた彼女は、僕に笑顔を向けて、
「さて、貴方からもいろいろとお話を聞かせてもらうわよ。いいわね?」
「はい!」
反射的に肯定してしまった僕は、間違っていないと思う。
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「改めまして、鬼々島家現当主、鬼々島 魎太です。先ほどは大変失礼をいたしました」
「そして、その妻の鬼々島 魅緒と申します。私からも、お詫び申し上げます」
そんな自己紹介から始まったお話の内容は、当然今日学校で起こったことについてだ。
僕は今日会った事を子細に話し、鬼々島さんはその足りない部分を補ってくれていた。
責任の部分は互いに譲り合えずにごたごたしたが、大方話し終えた後での魅緒さんは、
「我々としては、先ほどの事も加味し、貴方を責めることは致しません。安心してください」
と言ってくれた。
「また、先ほどは人間の貴方に対し、当主が無礼を働きましたこと、改めて謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
そう言うと、魅緒さんと魎太さんは深々とあたまを下げてきた。
「や、やめてください! こちらこそ、無礼なことを言ってしまいましたし」
あわてて頭を下げ返そうとしたが、
「受け取ってあげてください。でないと、私達としても立つ瀬がありませんから」
と言われてしまったので、とりあえず気にしていないと告げ、顔を上げてもらった。
そして、互いに謝罪も済んだところで、魅緒さんは僕の目を見て、告げた。
「それでは、稀輝から大体の事を聞かされたようではありますが、改めて私たちの事を説明していきたいと思います。勝手ではありますが、ここまで見られてしまった以上、話さないわけにもいきませんので、しばしの間おつきあいくださいませ」
「……はい、お願いします」
もうここまで来てしまったのだから引き返せないのだということは、僕にもよくわかっていた。
だけど、鬼々島さんの事をもっとよく知れるというのは、僕にとってはとても魅力的なことに感じた。
だから僕は、成り行き任せではなく、自ら進んで聞くことにした。
それが、僕たちの為にもなると思ったから。
「ではまず、私達鬼についてですが――」
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それからの事は、ここでは語らないでおくことにする。
なぜなら、この先で起こることはごくありふれた、普通の人間同士でも起こりうることだからだ。
彼女が鬼で、僕が人間であることなんか何の伏線にもならない、当たり前の日常。
互いの家に出入りして、いつの間にか名前で呼び合うようになり、いつの間にやら互いの気持ちに気が付き、不器用ながらも近付いて行って――。
特筆すべきことなど何一つない。
そんなものはわざわざここに記すまでも無く、書店の恋愛小説を読めば出てくるだろう。
……唯一の例外としては、稀輝にせがまれて熊の子ども――後にゆうたと名付けられる――に会いに行ったことぐらいだろう。
その時、彼女は何かをしていたようだが、詳しいことは話してくれない。
いったい、何をしていたのだろうか……。
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