苦悩と葛藤
何故、みんな俺を見る。
俺には、無理だ。
― 深夜の最終電車、座席に座る男は周りからの視線に苦悩する。
俺には、出来ない。
― 車内は男の他には、数人の座席に座った乗客達がいる。
俺にあれを拾えというのか。
― 男の正面の座席には、見事に禿げ上がった男が、下を向いたまま眠っていた。
― そして、その足元には……毛が落ちている。
何故、俺なんだ?
確かに、俺は正面に座っている。落ちた瞬間に『あっ!』と言ってしまったのも事実だ。
しかし、正面に座ったのは偶然であり、何かが落ちれば『あっ!』って言うだろ?
俺で無くてもいいじゃないか……
やめろ、見るなっ!!
― 周りからの視線が、男には強くなったような感じた。
だいたい、拾ったとして何て声を掛ければいいんだ。
『これ、落ちましたよ』と言えとでもいうのか!
― 男は苦悩する。
何故、俺の前で落とすのだ。いや、奴を悪く言う事は出来ない。
明日は我が身だ……。
― 男は将来の自分を重ねる。
それに、俺は知っている。
周りの奴らが気付いていない、事実を。
奴は、――寝ていない。
そう、寝ていないんだ。
奴はあれが落ちた瞬間に、間違いなく起きた。
俺は、一瞬奴の目が開いたのを間違いなく見た。
そうだ。奴も困っているのだ。
……拾うに拾えない。
奴は間違いなくそういう状況なのだ。
だから、俺が拾う必要は無いはずなんだ。
― 男は自分に言い聞かせる。
やめろっ!! 見るなっ!!
― 男は心の中で絶叫する。
お前らだって、逆の立場だったらどうだ?
そっとしておいて欲しいだろ?
やめろ。何だ、その咳払いはっ!
― 男は、一つ離れた席に座る女の咳払いに敏感に反応する。
くそ、何故こんな目に……。
こんな遅くまで仕事して、最後にこんなことがあるなんて。
― その時、電車が駅に着き、静かにその鉄の車輪を止めると、ブザーと共に扉を開ける。
何だ?
― 扉が開いた瞬間、正面の男は突然顔を上げると、足元の物を握りしめ、目にも止まらぬ速さで電車を降りていった。
……
― 男の苦悩、そして葛藤は終わった。