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良い事さん

作者: 葱田金鹿
掲載日:2010/12/14

  ***


 僕が通う大学の同じ学科には、不思議な噂を持つ友人がいる。

 その友人は周りから『良い事さん』と言われている。皆、彼女の名前を言う時は「イーコトさん」と呼んでいるけれど、彼女の本当の名前を僕は知らない。

 名前の由来はひどく単純で、彼女に何か一つ恩を売ると、その代わりに一つだけ『良い事』を教えてくれるのだ。たとえば彼女が、経済の授業でその開始五分前から授業終了の十分後まで寝ていたとき、その授業の板書を写したノートのコピーを持って行くと、彼女は「ありがとう。お礼に一つ良い事を教えてあげる」と言って、何か一つ、『良い事』を教えてくれる。

 不思議なのは、この『良い事』というのが教えられた人にとって必ず良い事であるということだ。

 僕の聞いた中での具体的な『彼女から教えられた良い事』は、その日の朝に無くした財布の場所だったり、意中の異性に近づくためのアイテムだったり、どうしても単位が貰えそうにない必修科目の欠点回避の方法だったりと、枚挙に暇ない。

 しかし、実は彼女に恩を売れることはかなり稀なことだ。試しに誰か友人に恩を売ろうと考えてみれば良い。他人に恩を売るなんて言うのはなかなかできることではない。

 だから、知りたい事や不安な事がある、つまり、彼女から良い事を教えられたい連中は、大抵がいつも良い事さんの周りにいるし、虎視眈々と彼女に恩を売る機会を見逃さないようにしている。といってもいつも彼女のすぐ傍にいるわけではなく、遠目に眺めている程度だ。まあ、中には本当に必死なやつもいて、それこそ必死に彼女のすぐ傍で恩を売るチャンスを窺っていたりするのだけれど。

 そんなふうに適度に身の周りが騒がしいことになっている良い事さんは、何かと一人でいることが多い。彼女自身が留年しているということもあるのだろうけど、それにしたって一人でいる時間が長い。ときどき一緒にお昼ご飯を食べたり、講義室を一緒に移動するメンバーはいるみたいだけど、基本的に彼女は一人だった。

まるで知り合いはいるけれど、友人はいないといった感じだ。僕にとって彼女は友人だけれど、彼女にとって僕が友人なのかは分からない。彼女にとって友人とは、おそらく大学においても何の魅力も無いものなのだろう。

 大学における友人は高校生までにできた友人とは重要性が違う。ノートを見せてもらったり、わからないことを聞くということはもちろん、サボりたい出席点の高い授業の代返、つまり出席率が成績に響くけれどサボりたいがためにその授業を代わりに出席、或いは返事をしてもらったり、将来的に見て絶対に読み返さないような要らないテキストを割り勘で買って必要最低限のページをコピーし合ったたり、課題やレポートを写させてもらったり、友人の友人伝手からもたらされる、たとえばどの先生はどういう授業をするだとか、その成績の付け方とか、定期テストの過去問だとか、そういった大学生活を円滑かつイージーに進めるための情報や手段をもたらしてくれるのが、大学での友人なのだ。

 確かに良い事さんには必要ないかもしれない。彼女自身が何か不利な状況に陥っても、周りの恩を売りたい連中がこぞってそのフォローをするだろうし、恩を売る一環としていろいろな話をそういった連中から聞けるかもしれない。

 それにしたって、不自然なくらい一人だった。あんなにいろいろな人から話しかけられるのに、彼女はその人たちと深く関わろうとはしないのだ。

 まるで他人を拒絶しているかのように。

 まるで孤独を求めるかのように。

 僕はふと、良い事さんが他学科の女子達に『定期テストが悪くても文化と文学の科目で優を取る方法』を教えているときに、そんなことを考えた。ちなみにその他学科の女子生徒達は、始めは不安げな表情だったのに、良い事さんから話を聞いただけで上機嫌になり、お礼も言わずに彼女に生物学実験レポートのコピーを渡すだけ渡して、さっさと講義室から出ていった。

 良い事さんはそれを見送って、レポートのコピーを鞄に仕舞った後、机に突っ伏した。どうやら物理の講義は寝るらしい。

 良い事さんとあまり親しくない連中、良い事を教えてもらいたいだけの連中からしたら、彼女なんかは言ってしまえば体の良い占い師。それも百発百中の、である。

 でも、彼女から『良い事を教えられる』という事を除いたら、一体なにが残るのだろうか?

 周りからだって『留年している、占いが得意なちょっと変わった女の子』くらいにしか思われていないだろう。

 まあ、大体はそれで合っているのだから仕方が無い。

 でも、大体しか合っていない。

 つまり、少しだけ合っていない。

 それがどういうことかというと、言葉にしてしまえば簡単な事で、

 良い事さんについて皆が知らないことがある、ということだ。

 そんな良い事さんの秘密を、光栄なことに、彼女と比較的話す機会の多かった僕は知ることになった。

 どうして僕なのかは、教えてもらった時は分からなかった。

 だけれど、全てが終わったときは、その理由は自明だった。


  ***


 良い事さんが一年留年しているのは、良い事さんが『良い事』を人に教えるという事実の次に彼女について有名な話だけど、その理由を知っている人はほとんどいない。少なくとも僕の周りには良い事さんが留年している理由を知っている人はいないし、僕の友人たちもそれは同様だった。

 噂話として流れてくる理由は、教授を殴って停学になったとか、中東に語学留学しに行ってたとか、子育てのために産休していたとかそんな面白くも無い与太話が大半だけれど、実際は必修科目を落としたのか、休学していたかのどちらかだろう。現実なんて、そんなふうにつまらないものだ。

 だいたい、良い事さんはどこにでもいるような女子大学生だ。でも、少し背は高いかもしれない。同い年の女子の平均身長を僕は知らないので絶対的な評価は難しいけれど、相対的な評価、つまり僕と比べるなら、だいたい同じ背丈だから、百六十センチ前後だろうか。髪の毛は黒のショートヘア。肩に髪がかからないくらいに短いし、前髪もヘアピンでとめるような長さではない。少し大人っぽい顔立ちの頬には、ちょっとだけそばかすが目立つ。たぶん、メークをそんなにしていないからだろう。

 服装は、これも僕がファッションに疎いので何とも言えないけれど、基本的には地味なものが多いと思う。普通だけれど、少なくともファッションセンスがあるとまでは言われないようなレベル。だいたい、彼女自身がそれに興味がなさそうだ。

 喋り方だって普通だし、普段の人との会話の内容だって、そんな特別に面白いわけでもない。つまり、彼女はどこにでもいる普通の女子大生であって、他の同性と比べて人と関わることが極端に少ない事以外は、どこにでもいるような人だ。

 でもそれは良い事さんの、あの予言じみた言葉を除いての話である。

 良い事さんは日常的に他人に対して、大なり小なりいろいろな予言をする。予言と言うような大仰なものではないけれど、僕にはそれ以外に適当な言葉が思いつかないので予言としか言いようがない。

 たとえば、僕が聞いた中で一番凄くて、もはや予言と言っても過言ではないだろうと思ったのは、『あなたの探している人は、明後日の十八時に阿ヵ坂駅の東口改札に現れる』というものだ。それを教えてもらったのは僕たちと同じ学科の三年生で、その時は彼女の両親が強盗か何かに殺されたとかで、学科内では結構な有名人になっていた人だった。

 事件後の二週間は大学を休んだ彼女は、突然ある日大学に来て、自分と同じ学科の後輩である良い事さんがいる教室までわざわざ会いに来た。そこで一言二言彼女は良い事さんと言葉を交わし、良い事さんから『良い事』を教えてもらって、彼女は一年生の教室を後にした。

 彼女が具体的に良い事さんにどんな貸しを作り、良い事さんが彼女に教えた『探している人』というのが誰なのかは分からなかったけれど、彼女の両親が亡くなった事件はその後まもなく解決した。でも、少なくとも『犯人逮捕』という形では解決しなかったし、その事件が解決する少し前から、その三年生は大学には来なくなった。

 あと、もう一つ僕が聞いた中で印象的だったのは、僕の友人が良い事さんに教えてもらった『迷ったらB、分からなかったらC』というものだ。言われた時の友人は唖然としていたけど、その二ヵ月後に受けた英語の資格試験のときにその言葉を思い出したらしい。

 その結果は、友人曰く、

「選択肢絞って二択で悩んだら絶対にBがあんのね。だからBを選んでさ。そんで見当もつかない問題は全部Cにしてみたんだよ。そしたら正答率八十五パーセントだった。嬉しさのあまり泣いた。良い事さんマジで神」

 ということだったらしい。

 それ以来、彼は良い事さんの信者である。


  ***


 そもそも僕が良い事さんと話すことになったのは偶然だった。

 大学に入ってちょうど一年が過ぎた頃。友人が熱心にあるお菓子について僕に語っていたのを、たまたま近くに座っていた良い事さんが聞いていて、それについて何気なく僕たちに質問したのだ。

「それ、美味しいの?」

 一瞬、僕には誰が誰に向けて発言したのかわからなかった。そんな僕とは違って、友人は耳ざとくそれを聞き逃さず、間髪入れずに『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』の素晴らしさについて良い事さんに語り始めた。このあたりの対応の早さとコミュニケーション能力は友人の素晴らしいところなので、僕は黙ってそれを聞いていた。

 このときから既に、彼女が『良く当たる占いをする、良い事さんと呼ばれている女子』だということを僕は知っていた。

「へー。山葵せんべいにチョコレートって、合うんだ」

 良い事さんが僕の友人の話を聞いて言った。

「うん、これが意外と美味いんだ。なあ?」

 予想外に話を振られたので、僕は自分の心に正直になって首を横に振る。

「え、どっちなの?」

 眉をひそめて首を傾げる良い事さん。

「鶴木の味覚が特殊なんだよ」

 僕は良い事さんに言った。鶴木というのは今まさに『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』について熱弁している僕の友人である。

「お前、人に勧めておいてそれは無いだろう」

 鶴木が変な顔で僕を睨みつけながら言った。

「あれは、だから鶴木は味覚が特殊だから、こういう変りダネのせんべいが好きそうだと思って持ってきたんだよ」

 鶴木が熱弁することになった『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』は、実は以前に僕が彼のために持ってきたものだった。僕の地元は全国的にせんべいが有名なところで、いたるところに煎餅作りの老舗があるのだ。それだけではなく、煎餅専門の販売店まであって、そこには結構いろいろな種類のせんべいが売っている。その中に『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』がある。

 大学に入ってから知り合った鶴木は、どうも常人と味覚が違うらしく、何かと奇抜な味のする食べ物を好んだ。 僕が知った範囲での信じられない鶴木オススメの組み合わせベストスリーは、焼肉味ののど飴、爽やかミント風味のミルクキャラメル、カレー味のコーヒーゼリーである。特にカレー味のコーヒーゼリーは許せなかった。

「信じられる? カレー味のコーヒーゼリーだよ?」

 僕が話の勢いで良い事さんに訊ねると、彼女はくすくすと笑っていた。

 このとき僕は、ああ、彼女も普通に会話できるんだな、なんてかなり失礼な事を考えていた。

「信じられるも何も、実際に美味いんだからしょうがない」

 そんな変った味のものが好きな鶴木を面白がって、僕は地元にある少し変ったせんべいをいくつか彼にプレゼントしたのだ。

 その中にあった『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』を、鶴木はえらく気に入った。

「話を聞いている分には、美味しそうだけれど」

 良い事さんがそう言うのを聞いて、僕はできる限り早いインターバルで首を横に振る。

「いや、美味しいよ」

 鶴木はゆっくりと頷きながら言った。

「? 結局、どっちなの?」

「食べてみればわかるよ」鶴木がゆっくりと頷いたまま言った。「そうだ、今度また買ってきてくれよ。俺もまた久しぶりに食べたい」

「ええー。久しぶりって、先週食べたばっかじゃん」

「いいから、買ってこい。金ならいくらでも出す」

 鶴木は胸を張って得意げに自分の懐事情の良さをアピールしたが、完全にそれは虚言なので、僕はそれに触れることなく良い事さんに訊ねた。

「えっと、君も食べる?」

 流石に初対面なのに面と向かって『良い事さん』と言うわけにはいかない。

「え? いいの?」

「別に良いよ。一人分も二人分も変わらないし」

「一人分? 俺が一人分で満足すると思っているのか?」

 鶴木は心外だと言う表情で僕に言った。

「とりあえずそういうことは、先週の五人分のせんべい代を払ってから言おうか」

 こんなやりとりがきっかけで、僕は良い事さんと話すようになった。話すようになったといっても、たまたま講義の席が近かったり、大学へ行くまでの道でたまたま出会ったり、食堂の席が空いていないときに相席させてもらったりとか、そういった偶然があって、初めて会話が発生するのだけれど。

 つまり僕も良い事さんも、お互いに自分から話しかけるようなことは無かった。それでも何かきっかけがあれば、話しかけるくらいのことはしていた。

 最初の二ヶ月はそれくらいだった。

 その二ヶ月の間に、僕は良い事さんに変りダネせんべいのプレゼントを三回した。鶴木と違って代金は貰っていない。一度に五人分も頼むような真似は流石に彼女もしなかった。

 それでも結果として、良い事さんは『チョコレートコーティングされた山葵せんべい』を気に入り、その神秘的な味の虜になったようだった。


  ***


 学び舎に通う者としては、夏休み前になると決まって行われる恒例イベントがある。大抵それは僕らの意思や希望を一切無視して自称指導者たちが僕らの日ごろの勤勉さ、或いは怠慢さを測るために行う全国的な紙とインクと電力の無駄遣いイベントであり、僕ら学ぶ者にとってみれば、それは時間と気力と体力を一方的に見えない何かに搾取されるだけの拷問でしかない。そんな苦痛行事は僕らが制服を着るようになる前から始められているのに、制服なんて着ない年齢になった今でも絶賛実行中だった。

 機会があれば話す程度だった良い事さんとの仲が劇的なまでに進展したのは、そんな時期の莫迦みたいにお天道様とやらがオーバーワークに励んでいた夏のある暑い日だった。

 その日最後の講義である英語の授業が終わり、講義が終わるのを今か今かとまるで目の前の餌を待たされている犬のように忙しなく待っていた聴講生達が教室からパラパラと退出する中、僕は教室の壁際にある柱の下に座り込んでいた。

「何をしているの?」

「ケータイの充電」

 答えてからふと顔を上げて、僕は抜いたばかりの電源プラグを落としそうになるくらい驚いた。

 何故なら、僕に話しかけたのは良い事さんだったからだ。

 このとき、僕が大学に入ってから一年と三カ月が経過していた。四月の時点で一年生にもかかわらず他学科の先輩たちに『良い事』を教えていて、そのせいで学科内ではいち早く有名になった良い事さんは、同じ学科の僕らが知る限り、自分から他人に話しかけたことは一度も無かった。それなりの頻度で一緒に食事をしている女子グループや、周りに比べれば比較的仲が良いといえるであろう僕でさえ、それは例外ではない。少なくとも良い事さんと話すようになってからの三ヶ月間はそうだった。

 それが今、彼女は自分から僕に話しかけたのだ。

 これがどんなに劇的であるかというのは、おそらく同じ学科の中でも僕のように比較的良い事さんに関心のある人にしかわからないだろう。

 比較的彼女とよく会話していた僕だからこそ、僕という他人に自分から話しかけてきた良い事さんのその言動にひどく驚かされたのだ。

「充電器、わざわざ持ってきているの?」

「うん。今日はケータイのバッテリィが無くなるって分かってたからね」

 平静を装って僕がそう答えると、僕の返事の中の微妙なニュアンスを感じ取ったのか、良い事さんは眉を顰めながら首を若干左に傾けた。

「わかっていたって、どういう事?」

 傾けたままの首の角度で、良い事さんは僕に訊ねた。

「ちょっと今日は朝から友達とメールしてて、それでバッテリィが無くなるだろうなって思って、充電器を持ってきたんだよ」

「へぇ、そうだったんだ」とりあえず納得したように良い事さんは頷いた。「彼女?」

 僕は本気でケータイを落としかけた。

「違うよ」

 僕は冷静になろうと良い事さんから目をそらしてバッグの中に充電器を仕舞った。仕舞おうとバッグを取ろうとして、心の動揺のせいか、僕がバッグの中身を床にばら撒いてしまった。

 僕がばら撒いてしまったプリントやノート、ルーズリーフなどを拾っていると、良い事さんもそれを手伝ってくれた。

 その途中で、僕は自分のバッグに仕舞ったままだったあるコピーを思い出した。

「そうだ、良い事さん」

 僕は別の話題を提示しようと無理やり話を変えた。ちなみにこの頃の僕は周りのみんなが呼ぶように、もちろん彼女に許可を貰って、彼女のことを『良い事さん』と呼ぶようになっていた。

「今日の授業のテストの過去問、いる?」

「え?」良い事さんはまた首を傾げた。少なからず顔も驚いている。「どうして持っているの? あの授業の先生って、うちの大学に来たのは今年からでしょう?」

 普通、大学で行われるテストは、高校の時以上にその点数の持つ意味は大きい。日ごろの授業態度だとか素行を ほとんど関知しない大学は、学生の成績を出席率とテストの成績で決めるのだ。中には出席を取らない授業も存在する。つまり、テストの点数でその科目の成績が決まるのだ。

 そのため、大学では『過去問』と呼ばれる定期テストのバックナンバーが重宝される。大学では基本的にその授業毎に担当の先生は固定されていて、どの年も同じ先生が同じ講義を担当するためである。また科目にはその先生よって一貫性があり、問題傾向も把握しやすい。特異な例でいえば、前回と全く似たような問題が出ることもある。

 さらに、大学のテストには解答が存在しない。そのためテストを受けた後に学生の手に残るのは問題用紙だけである。そういった事情の中、過去問の多くは上級生、つまり先輩による解答が製作されている。

 そういう意味で、大学においていかに過去問と解答を手に入れるかが、大学における成績、単位の取得率に大きく関わってくるのだ。

 ただ、これはそのテストを行う科目の担当が以前から大学にいる場合であって、たとえば新任の講師の場合は当然ながら過去問が存在しない。今季から転任してきた先生も同様である。

 さっきまで英語の授業をしていた先生も、今季からうちの大学に来た転任の先生だった。だから、正規のルートでは過去問は存在しない。

 でも、別ルートなら手に入るのだ。

 その説明を、僕は良い事さんにすることにした。

「この授業の一番初めにさ、先生、意見公募としてメールアドレスの載ったプリントを配ったでしょう?」

 うんうんと頷く良い事さんに、僕は過去問の入手経路について説明する。

「この先生、来たばっかりのときだったから、まだうちの大学からアドレスを支給されてなかったみたいでさ」

 普通、生徒に教えるようなメールアドレスはドメイン名が大学のものが多い。特に不特定多数の生徒に教える場合はそうだ。

 しかし新しく転任してきた先生には、うちの大学のドメイン名の入ったメールアドレスの支給が遅れていたらしい。

 つまり、一番初めの授業で配られたプリントに乗っていたメールアドレスは、先生が去年まで勤めていた大学のものである可能性が高いのだ。現にそのメールアドレスが載ったプリントが配られた時、僕はそのドメイン名を見て先生に「先生って、前はD大学にいたんですか?」と質問をした。ドメイン名がそのD大学のものだったからだ。

 先生から帰ってきた答えは肯定を示すものだった。

「で、そのD大学って、僕の地元にあるんだよね」

 僕の家からそのD大学までは歩いて行ける距離にある。僕は地元の駅から電車で自分の大学に通っているので、その駅に向かうたびにD大の学生とすれ違うのだ。

「つまり、知り合いが多い?」

 良い事さんが僕に訊ねる。流石に勘が良いと、僕は思った。

「うん。中学校の同級生とか、高校の同級生なんかがそこに結構な人数通っていたりするんだ」

 外語系で有名なD大学は、それ以外の文系学部のレベルは平均的な大学だった。そのため、地元の知り合いはわりと手軽な感覚でその文系学部に入っていたし、外語系には高校の同級生が何人か入学していた。

「試しにメールしてみたら、一人だけその先生の授業を去年受けてた」

 英語の先生は前の大学でも外語系の学部で英語を教えていたらしい。その授業を高校の同級生が受けていたのだ。

「だから、そいつにメールをして、過去問を回してもらったんだ」

 僕はバッグからその過去問を取り出し、良い事さんに渡した。

「あ、本当だ。綾瀬守って書いてある」

 綾瀬守というのは英語の先生の名前だ。これで先生が一致した。ついでに言うと、この講義で使われるテキストも、授業中に配られる補助プリントもD大学の時と同じようだった。

なので、今回の過去問の信憑性は高い。

「どう? いる?」

「あ、うん。これを貰って良いの?」

 良い事さんが過去問の印刷された紙を示す。

「良いよ。どうせPDFで持ってるから」

「ありがとう」

 良い事さんは嬉しそうに笑いながら僕にお礼を言った。

「あ、じゃあお礼に良いこと教えてあげよう」

 最早定型句になったその言葉を彼女は言う。

 ふと思って、僕は嫌味にならないように丁寧な口調と表情を心がけて言った。

「いいよ、別に」

「え?」

 良い事さんは驚いた表情で固まった。それこそ今まで見たことが無いくらいに驚いた表情だった。まるで『良い事』を教えることを、初めて断られたかのような驚きようだった。

「いいよ、別に教えてくれなくても」

 僕は善意で彼女に過去問をあげたのだ。それに対する見返りとして彼女から『良い事』を教えてもらうという事は、まるで僕自身がそれを期待して彼女に借りを作ったみたいで、嫌だった。良い事さん自身は気にしないかもしれないけれど、そう彼女に思われるのが僕はどうしようもなく嫌だったのだ。

「その代わり、一つだけお願いがある」

 だからその代わりとして前々から考えていた提案を、僕自身の素直な願いとして彼女に伝えることにした。良い事さんは僕の提案に再度驚いた表情になってから、少し思案して、どことなく不安げな面持ちで、彼女は僕にその願いを訊ねた。

「これからも、僕とこうやって会話してくれる?」

 一瞬、僕の言葉の意味がわからなかったようで、良い事さんは始めきょとんとしていた。けれど、少ししてから僕の言った言葉の意味がわかったらしく、魅力的な笑顔と同時に、過去問の印刷された紙束を胸に抱いたまま、彼女は口から息を吹き出した。


  ***


 僕の積極的な提案の成果もあってか、僕が良い事さんと話す機会は飛躍的に増えた。彼女から僕に声をかけてくれることが多くなったし、逆の僕から彼女に声をかけることも比較的多くなった。話すといっても、授業のことや、教授やティーチングアシスタントの愚痴や、そういうたわいもない話だけれど。

 それから、僕は良い事さんと学校外でも会うようになった。これは僕の人生では結構珍しいイベントで、そう言う意味では、大学に入ってからは貴重になった適度な緊張を得られる数少ないイベントだった。

 その日は午前中から僕たちの大学のある駅から三つほど隣にある宇久瀬自然公園というところに来ていた。

 何となく散歩して、近くの喫茶店でお昼ご飯を食べているときに、お互いの趣味の話になった。

「僕の趣味? うーん、なんだろう……」

「読書とか、音楽とか」

言われてみてから、そんな趣味が自分にあったのかと考えてみる。そういえば僕は本も読まないし、音楽も聴かない。今更になって自覚したけれど、自分でも驚くぐらい無趣味だった。

「ないかも。そういえば本とか読んだことないね」

僕がそういうと、良い事さんは驚いたよう目を少しだけ大きくした。

「私は結構読むよ」

「そうなの?」

 僕が疑うと、良い事さんは若干気分を害したらしく、最近読んでいる本のタイトルを列挙し始めた。どれも僕は読んだことはおろか聞いたことのないタイトルで、当然ながらその作者の名前も知らなかった。

 良い事さんが話しているのを、僕は黙って聞いている。

 最近になってから分かったことだけれど、良い事さんはよくしゃべる人だ。大学の教室や食堂ではほとんど一人だし、意識的に他人と話すようなことは滅多にないけど、話してみると意外と饒舌で多弁だった。

「へえ、意外に本を読むんだね」

 僕が言ったその感想がまた気に入らなかったらしく、彼女は少しだけむっとした。

 その後、僕たちは喫茶店を出て公園を少し歩くことにした。

「あれに乗ろう」

 そう言って彼女が指差したのは、公園のど真ん中にある、とても綺麗とはいえない大きめの湖に浮かぶ時代遅れのボート貸しだった。どうやらお金を払えば乗れるらしいけれど、とてもお金を出す価値があるとは思えないくらいボロボロのボートだった。

 それでも何故か彼女は乗り気で、ぐいぐいと僕の腕を引っ張って、ついにはそのボートの貸し出し所まで来てしまった。

 彼女のその積極的な行動に敬意を表して、僕は一つ分のボート代を払い、そのよくわからない赤っぽい色をしたボートを借りた。

 良い事さんはもう先に乗っていて、船上で僕に優雅に手招きをしている。

 もうどうにでもなれ、と思って、僕はそのボートに乗った。

 二人でボートに乗り、僕がオールをこいでボートを湖の中心まで動かす。その間、僕も彼女も一言も話すことはなかった。さっきまでの饒舌な彼女は僕の目の前からどこかに行ってしまったらしく、僕が見ているのは、大学内で遠目に見るようないつもの物静かな彼女になっていた。

 彼女に気を使いながら、僕はゆっくりとボートを湖の岸の近くに止めた。

「実は、お願いがある」

 僕がオールを漕ぐのをやめてしばらくしてから、良い事さんが真剣な表情で、俯きながら僕に言った。

「なに?」

「私を助けてほしい」

 一瞬、僕には彼女が何を言ったのかわからなかった。

「え? ごめん、どういうこと?」

「そのままの意味。私を助けてほしい」

「事情は言えない。でも、あなたにしかできないことなの」

 彼女は首を横に振りながら言った。

 僕は良い事さんの言った言葉の意味を考える。

 私を助けてほしい?

 彼女が何か、今不利な状況に置かれているのだろうか? でも、僕が知る限りでは頻繁に大学で彼女を見るし、その振る舞いはどこにでもいる、少し孤独を好むような女子大生でしかない。

 とてもそんな、他人に、少なくとも僕に助けを求めるような状況に陥っているとは思えない。

 それになんだ?

 僕にしかできないだって?

 胡散臭い、という形容詞が頭をよぎった。そんな陳腐な言い回しは、今時テレビドラマにだって存在しないし、日常生活では絶対に耳にしない。もしかしたら、彼女がよく読むという小説にならそういう言い回しが好んで使われるかもしれないけれど、それを実際に口にするのはまた別の問題だろう。

 良い事さんを見る。彼女は今にも泣き出しそうな表情で、僕の目をずっと見ていた。直観的に、演技だ、と僕は思ったけれど、よくよく見ればそれ以上にその表情は今まで見た人間の中で、一番、真剣で、まじめで、本気の表情だったように僕には見えた。

 ここまで、十数秒。

「詳しいことも言えない。私の言うことを信じて、私の指示に従って、私を助けてほしい」

 そんなことを考えている間、僕は何も言えなかった。

 外から見れば、迷っているように見えただろう。

 でも、僕の中では判断は決まっていた。

「いいよ」

「……本当に?」

 自分から提案したことのはずなのに、良い事さんは僕の返事にひどく驚いたようだった。

 その表情に、思わず僕は吹き出した。

「ちょっと、何? どういうこと?」

 良い事さんは泣きそうだった目をこすりながら、安心した様子で、だけど少しだけ不愉快そうに僕に聞く。

「いや、なんでもないよ」

 僕は笑ってごまかしながら、良い事さんから詳しい話を聞いた。

 どうやら、僕は彼女を助けなければいけないらしい。

 まるで、白馬の王子様のように。

 だけど、彼女から聞いた話はどこか現実味じみていて、とても王子様のような気分で彼女を救いにいくことはとてもできそうになかった。

僕は良い事さんからその店の位置と、何をするべきか、そして何を守るべきかを教えてもらう。

「ありがとう。お礼に最後に良い事を教えてあげる」

 良い事さんが無理やりと言って良いくらいぎこちない微笑みで、僕に言った。

「覚えておいて。君に勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー」


     ***


 良い事さんに場所を教えられて入ったその店は、明らかに光の量が不足していた。まるで地下にあることを象徴するかのような暗さで、もしかしたら電気代の節約のために照明を蝋燭だけでまかなっているんじゃないかって、来客者にそう思わせるくらいに暗かった。

 階段を下りた先に扉があり、それを開くと暗い店内に入る。店内には入って直ぐに新聞ラックがあった。でも、そこには新聞は置かれておらず、その後ろにある観葉植物に覆われて存在感がまるでなかった。入って右手がカウンター席で、左手がテーブル席だった。カウンター上にはクリスタルの灰皿に、吸いかけの煙草がいくつか紫煙を出しながら置かれていた。カウンター席には誰も座っていないのに、火のついた煙草だけが自分の席だと主張するかのようにそこにあった。吸わないのなら消せば良いのにと思ったけれど、もしかしたらその煙草の主はトイレに立っているだけなのかもしれない。

カウンターにはこの店のマスターらしき男がグラスを磨いている。その後ろには壁一面に棚があり、さまざまな瓶が置かれている。ほとんどの瓶は色が不透明でラベルが英語だった。そのため中身は窺い知れない。多分、アルコールの類だろう。

 そして店の奥には扉があり、そこに男が一人立っていた。それも大男で、スーツ姿でサングラスをかけている。この薄暗い店の中でサングラスをかける意味が僕には分からなかった。もしかしたら目が義眼なのかもしれない。これは完全に僕の想像だけれど。

僕はカウンターにいるマスターらしき人物やテーブル席に座っている常連客のような男に軽く会釈をした。それに答えるように彼らはそろって僕を睨んだが、睨まれるような覚えのない僕は、努めて彼ら以外を見ないようにした。

 店内には煙草の煙が充満していて、少し薄暗い。否、かなり薄暗い。照明の量か数の問題、あるいはその両方だろう。店の中を歩いているとき、僕は服と髪に煙草の臭いが付かないか心配だった。店に入る前にも感じたし、店の前にあった階段を下りる前からも感じていたけれど、明らかにここは僕のような大学生が来るところではない。

店の奥に進み、例の大男のいる扉の前まで来た。近くで見るとかなり大きい。僕の頭の位置が彼の胸のあたりだ。僕の身長は百六十センチ程度なので、大男は百九十近い身長らしい。

僕は黙って、大男に良い事さんから貰った知らない人の名刺を見せた。

「彼女の紹介で来た」

 名刺を見て、男は言う。

「金はあるのか?」

僕は黙ってプラチナ色のカードを見せる。

 大男は僕を一瞥してから、大きな図体にふさわしくない繊細な動きで背後にある扉を開けた。

 開けられた扉の先には、排水管だとか空気口だとか室外機だとかそういったものに加えてよくわからないパイプや鉄格子、金網などがあり、その中にまた階段があった。非常階段のようなデザインだったけど、ここは一応屋内、というか地下なので少なくとも非常階段ではない。今度の階段はコンクリートではなく鉄製の板で、緑のペンキが塗られていたらしかった。らしかったというのは、ペンキの塗装が剥がれているか鉄が錆びているのかして元の色の判別が上手くつかなかったからだ。もしかしたら青だったかもしれないし、黄色だったかもしれない。

そんな錆びたような鉄の板でできた階段を、ゆっくりと僕は降りた。不安で思わず手すりを掴んで慎重に降りてしまう。手すりを使って慎重に階段を下りていると、子供の頃に公園の滑り台から落ちたことを思い出した。その時の僕は、何故か一人で廃墟となった公園の滑り台に上っていた。滑り台を滑ろうとしたのだ。それなのに台が予想以上に汚れていたから、僕は登ってきた階段を引き返そうとした。その引き返すときに落ちたのだ。その滑り台の上り階段は腐食していて、降りる際の僕の体重を支えきれなかったらしい。大した怪我は無かったけれど、それか

ら数年の間は、階段を下りるという行為が人生で二番目に嫌いだった。

 そんなことを思い出しながら、僕はなるべく慎重に階段を下りた。あの頃よりも体重は増えたけれど、流石にここの階段は腐っていないだろう。

 途中、踊り場のようなところを二回折り返した。空気が乾燥していて喉が痛かったし、少し肌寒かった。もともと地下だった店からさらに降りたわけだから、気温が下がっているのかもしれない。

 三回目の折り返しにあった踊り場は、今までのよりもやや大きかった。そこからさらに下る階段は無い。どうやらここで終点らしい。

その踊り場の向かいには大きな扉があり、その前にはさっきの暗い店の中にいたような大男がまた立っていた。黒いスーツにサングラス。体格や服装どころか、髪型まで一緒だった。頭上の蛍光灯の光に照らされて、サングラスが光っている。蛍光灯は男の頭上にしかなく、他の照明が無いため、男のいる所だけが不気味に目立っていた。

 踊り場に降りて、僕はその男の前で立ち止まった。

 大男は立ち止った僕を睨んだ。サングラス越しで視線なんかわからないはずなのに、確信的なまでにそう思えるレベルで、彼は僕を睨んでいるような気がした。

「ここが何をするところかわかって来ているのか?」

 大男が訊ねる。

「欲しいものが簡単に手に入るところでしょ?」

 僕がそう答えると、ふん、と大男は息を吐くように一瞬笑ってから、背後にあった重そうな扉を開けた。

 扉を開けるとそこは小さな部屋になっていた。部屋、というよりは箱に近いかも入れない。正方形の琥珀色の床、四方の黒い壁。入ってきた扉の対面の壁にはまた扉があり、左右の壁には背もたれの無い、革張りのシックな長椅子があった。待合室のようだけれど、誰もいない。

 僕はそのまま部屋を横切り、奥の扉を両手で押した。両開きだった。

 そして僕が開けた扉の先には、今まで見たことの無い世界が広がっていた。


  ***


 まず驚いたのはその大きさだった。玄関口として機能しているあの暗い店からは想像ができないくらいの大きさだ。部屋というよりも会場と言った方が正しいくらいの広さで、いつか行った友人の結婚式の時の会場よりも広い。下手したらうちの大学の体育館くらい大きいかもしれない。そんな巨大な空間が、この地下にはあった。

 そして、先ず目についたのは無数のシャンデリア。白だか琥珀色だかに輝くそれは、明らかにこの場の雰囲気を演出するのに一役買っていたし、その雰囲気の大黒柱みたいな存在だった。そのシャンデリアが付いている天井や、部屋の所々にある柱は、構造的にとても複雑で、明らかに耐震耐久性というよりはデザインに特化したようなものだった。絨毯は暗いけれど落ち着いた色のマーブル模様が幾何学的に配置されたデザインで、それが部屋の雰囲気に自然と合っていた。

左右の壁にはいろいろな動物のはく製が首から上の部分だけ壁から飛び出ているか、高そうな瓶が置かれている棚があるだけだ。その棚の前にはカウンターテーブルがある。入口の店のような暗い雰囲気ではなく、どことなく高級感のあるバーカウンターで、高そうな服を着たバーテンダーがもっと高そうな酒を客にふるまっている。

 そんな大きな会場の中にはいろいろなテーブルがある。円、三角、長方形、扇形、中には普段は絶対に見ないような奇妙な形の、アルファベットで言えばCの形をしたテーブルもあった。台の表面はグリーンカバーで覆い、その外縁を木枠で囲んでいる。大まかにくくってみると、雰囲気としてはビリヤード台みたいな気もしたけれど、グリーン一色というテーブルはほとんどない。あるのは数字やアルファベットごとに区切られて線が引かれていたり、円形や長方形のマス目が並んでいたりと、まるでそこに何かを置くことを前提に作られた物ばかりだった。

 カジノ。

 テレビや映画でしか見ないような空間が、僕の目の前に広がっていた。

 その雰囲気にのまれそうになって、僕は思わず身体を支えるために近くにあったテーブルの端に手を置く。

それぞれのテーブルには木製の高そうな、背もたれの無い円形で一本足の椅子がいくつもあって、そこにいろいろな人間がいろいろなモノを持って座っている。いろいろな人といっても、変化に富んでいるのは髪型だとか服装だけで、ほとんどが三十代から五十代くらいの男性だった。中には若い男の人や、女性もいるけれど、ほとんどが中年から老人に当たる男性だった。

 大部分の人間は、高そうなスーツやジャケット、あるいはドレスを着ていた。腕には例外なく高級ブランドの時計が巻かれているし、時々見られるアクセサリーだって、きっと高いのだろう。

彼らが手に持っているのは、トランプ、紙幣、コイン、チップ、サイコロ、火のついた煙草、液体の入ったグラス。

 そしてその全員が、それぞれの座っているテーブルの上を愉快気に見ていた。テーブルの上に置かれているチップの量や札束から考えて、それがどう見ても僕らのような普通の人間が一生お目にかからないような金額であることが分かる。そんな大金を彼らは目の前から没収されても顔色一つ変えず、むしろ愉快気に、ゲームを再開させている。

 そんな大部分の、いわゆる富裕層のような人たちに対して、場違い的な人たちが一部いる。服装は、今の僕と同じように街中で見るような普通の私服か、よれたスーツだ。首には高そうなネックレスは巻かれていないし、当然、腕にも高そうな時計は巻かれていない。

 まるで『普通の一般人』が、こんな異空間に迷い込んだようで、それがひどく、この場所では浮いている。

 そんな普通の人の全員が、まるでそこで自分の運命が決まるとでも言わんばかりに、必死の形相でテーブルを見つめていた。

 不思議に思いながら、ぼんやりとそんな光景を眺めながら、ゆっくりと大部屋の中を歩いていると、

「おや、新入りとは珍しい」

 と、あきらかに僕に対して話しかけた声がした。

急にした声に驚いて僕が後ろを振り返ると、そこには真っ黒のジャケットを着た若い男が立っていた。歳はおそらく二十代後半で、黒の短髪で銀縁の眼鏡をかけている。

「こんにちは。えっと」

 僕が後ろを向いてそう言うと、一瞬、男は表情を硬直させた後、口元に手を当てて籠った笑い声を上げた。それから彼はお腹と口元に手を当てたまま、しばらくの間は笑っていた。

「?」

「ああ、そうだな」ようやく落ち着いて、普通に話せるようになってから男が言った。「こんにちは、だな」

「何がそんなにおかしいのですか?」

「いや、失礼。完全にこちらの都合だ」そう言っている間も、彼はときどき思い出したように笑っている。笑い上戸みたいだ。「挨拶なんて文化は、この場所には存在しないからな」

 どうやらこの地下カジノでは挨拶は行われないようだ。

「ここは基本的に金持ち連中が欲しいものがあって来るだけの場所だ。客同士で挨拶を交わすなんて作法は存在しない」

「その割には、僕のような普通の人もいるようですけど……」

 僕は店の中を見渡す。

「そうだ。たまに君のような一般人がどういうわけかここの場所を知ってやってくる。ここの会員にたぶらかされたか、知らない誰かの紹介とかでな」

 男のその言葉を聞いて、僕は表情を変えないように努める。

「たぶらかされた、というのは?」

「さあ? そういうのは本人に聞いてくれ。こちらは一切関与しない」

「こちら、ということはお店の方か何かですか?」

「ああ、すまない。私はこの店のオーナーの橋元だ」

「オーナーの方でしたか。これは失礼しました」

 僕は、と名前を言おうとしたところを、橋元オーナーは手で制した。

「名乗る必要は無いよ。君はミサキの紹介で来たんだろう?」

 良い事さんから教えられたその名前を彼の口から聞いて、僕の思考は一瞬、停止してしまった。

「ああ、やっぱりな」

 どうやら驚きが顔に出てしまったらしい。橋元オーナーは僕の顔を見て口元を上げた。

「……どうしてわかったんですか?」

「なんてことはない。入口のガードマンに聞いただけだよ。あまり怖い顔をしないでくれ」

「すみません」

 僕は素直に謝った。どうやら今度は警戒心がまた顔に出てしまったらしい。

 しかし、だからといって彼を警戒しなくなったわけではない。

「で、彼女にはなんて言われてきたんだい?」

 彼女とは『ミサキ』という人物のことだろう。良い事さんが言うには、ミサキという女性はここのカジノの常連らしい。でも僕は彼女のことをよく知らないので、良い事さんに言われた言葉をそのまま口にした。

「『ここに来れば、欲しい物が手に入る』と聞いてきました」

「ああ、間違ってないね。その通りだ」

 橋元オーナーが近くのテーブルでゲームをしている人たちに軽く手を振りながら言った。話の途中で近くに来るウエイトレスやディーラーは近くに来ると例外なく彼に頭を下げている。どうやら彼がオーナーだというのは本当らしい。

「ここのようなカジノ、日本における裏カジノっていうのは、君のような一般人が思っている以上に存在するんだよ」

 橋元オーナーはジャケットのポケットから煙草を取り出しながら言った。一本勧められてしまったので、僕はそれを受け取り、高そうな純金のジッポ・ライターを借りた。

「たいていは暴力団が経営していたりするのだけれどね、中には海外のVIP用の特別施設もある」

 橋元オーナーは自分が吐いた煙で目を煙たそうに細めた。

「ここはどちらなんですか?」

 僕も煙草を一口含む。今まで吸ったことの無い味でとても辛かった。どうやらハイライトのようだ。

「うちも大まかには暴力団経営だけれど、厳密には彼らがここを経営しているわけじゃない。元締めは別の組織だ」

 まあ、暴力団と変らない連中だけどね、と橋元オーナーは言った。

 オーナーというわりには、彼は随分と若い。ここの利用客よりも、僕との方が歳は近いんじゃないかってくらい思えるほど若かった。それに、話し方も随分とフランクで、初対面のはずの僕と親しげな口調で話している。少なくとも、僕に対しての第一印象は悪くないということだけは分かった。

 そういった相手側の認識は上手く使うに限るので、僕はさらに質問する。

「どうしてそんなことを僕に話すのですか?」

「おや、不快だったかな。そうだったのならすまない」

 ウエイトレスが持ってきたクリスタルの綺麗な灰皿に、橋元オーナーが灰を落とした。僕も灰を落とそうか迷ったけれど、彼女は立ち去らずに僕と橋元オーナーの傍に立ったままだったので、もう少し灰を作ってから落とそうと僕は煙草に口をつける。

「いえ、そういう意味ではなく」僕はウエイトレスの持つ灰皿に灰を落としながら言った。「どうして僕のような部外者にそんな詳しい話をするのか、という意味です」

「部外者?」

 僕のその言葉を聞いて、橋元オーナーは今度こそはっきりとした笑い声を上げた。

「部外者じゃないだろう? この場所を知って、ここに来ている時点で君は完全に当事者だし、私から言わせればお客であり、司法から見れば共犯者だ」

 確かに、その認識は正しい。もし仮にこの場で警察が捜索に来たら、僕は間違いなく捕まるだろう。

「そういうことだ。私は君に当事者として知っていて欲しいことを話しているだけだよ」

 つまり、僕自身がこの違法賭博場の共犯者であり、口外しないようにという意味の口止めらしい。

「まあ、広告だとか、サービスだと思って聞いてくれ」橋元オーナーが煙を吐く。「それに、君には個人的に興味があった」

 その言葉を聞いて、僕の頭の中で彼に対する警戒レベルが飛躍的に上がった。

「ああ、深い意味はない。誤解しないでくれ。ただ、ミサキからの紹介というのは、初めてでね。彼女が紹介してきた客がどんな人間なのか興味があっただけだ」

 橋元オーナーが言うには、ここの常連客から紹介されてくる客というのは月に二、三人はいるらしい。それでも、そのほとんどが数回の利用でいなくなってしまうようだ。

「金持ちからの紹介でも、彼らが金を持っているわけではないからね。そんなに繰り返しここで金を使える人種ではない、ということだろう」

「でも、そんなふうに紹介でここの場所を知って、すぐにいなくなる人がいるというのは危ないのでは?」

 紹介でこの場所を知ってから、ここに出入りしなくなるということは、それだけ共犯としての意識が薄くなる。

つまり、出入りが多いだけ警察へ通報されるリスクが大きいのではないだろうか?

「ああ、その点なら問題ない。安心してくれ。ここは絶対に警察に捜査されることは無い」

「……何故ですか?」

 自信というよりは、むしろ確信に近いその言い方に、僕は思わず聞き返した。

「警視庁や政府の要人に、ここのVIPがいるんだ。彼らは私たちのお得意様だ」

 橋元オーナーは微笑みながらそう言って、持っていた煙草の火を灰皿で消した。それに倣って僕も煙草を灰皿に押し付けると、ウエイトレスは僕と橋元オーナーに一礼してから奥の方へと行ってしまった。

「警察や政府の人間がここを利用しているのですか?」

 僕の疑問に、橋元オーナーは頷いて肯定した。

「何故だかはわからないけどね。私がここのオーナーになる前から繋がりはあったようだ」

 あまりにもべらべらとよく話すオーナーだと思った。口が軽い、とっても良いくらいである。かなり不自然だったけれど、そういう人だと思えば違和感はないので、今のところは深く考えないことにする。

「警察や国の人間がここを利用するメリットがあまりよくわからないのですが」

「さあ? そんなことは私にもよくわからない。まあ、あえて言うなれば、抑圧された願望、とでも言うのかな。これはここにいる客全員に言えることだ。金が欲しいだけの客もいる。でも、ほとんどは金なんか捨てるほど持っている人種だから、一種のスリルを求めているとは思う。だが、むしろメインの理由はそれよりも――」

「ここでしか手に入らない、普段は金では買えない物を求めて、ここに来る」

「そういうことだ」

 それ以上のことを、橋元オーナーが語ることは無かった。

 言われなくてもだいたいは想像がつく。今の世の中、少なくとも日本国内で、金で買えないものなんて、それこそ日本国内にある世界遺産の数よりも少ない。たとえば国内での使用が禁止されている医療薬だったり、輸入が禁止されている動物だったり、純度の高い麻薬だったり、健康な人間の臓器だったり、あるいは人そのものだったり。

 そういった内容の会話が、立っているだけでカードやチップを配る音よりも鮮明に聞こえてくる。

「暇つぶし以外の理由で、ここに来る客の目的は一つ。欲しいものを求めてくる。それだけだ」

 橋元オーナーはウエイトレスからグラスを受け取り、グラスを揺らしながらその香りを楽しむ。

「そして手段は二つ。元々ある大金で買うか、少ない金をここで増やして買うか」

 そう言って彼は、受け取ったばかりのグラスの中の琥珀色の液体を一気に飲み干して、僕に微笑みながら言った。

「さて、君は何が欲しいのかな?」


  ***


 結局、ゲームはルールが分かりやすいブラックジャックにした。絵札は全て10としてカウントし、エースは手札次第で1か11という数になるだけで、あとは手札の合計が二十一ブラックジャックを超えずにそれに近い方が勝ち、という表向きは単純なカードゲームだ。

 良い事さんから受け取ったプラチナ色のカードを使って、一番高い黒のチップを数十枚受け取り、それを持ったまま僕はブラックジャックの行われているらしい領域へ行った。

 いくつかあるブラックジャック専用のテーブルで、僕がついたところには僕以外には若い女性が一人、ディーラーと話しているだけだった。

 良い事さんの言葉を思い出しながら、僕はそのテーブルの椅子に腰かけた。

「このテーブルのゲームは、ブラックジャックで良いんですよね?」

「ええ、そうです」男性ディーラーが答える。「ここでプレイしますか?」

 僕が頷くのを見て、ディーラーはルールの説明を始めた。ディーラーと話していた女性は僕から少し離れた席に座っただけで、ゲームには参加しないらしい。

 絵柄(ジャック、クイーン、キング)の値は全て10扱いで、エースは手札の合計値が二十一を超えなければ11、超えるなら1と扱う。

また、バースト(手札の合計値が二十一を超えること)の場合はその時点で負けとなる。

 始めにプレイヤーはベット(掛け金を指定)する。その後、ディーラーは自身とプレイヤーにカードを二枚配る。この時点で手札の二枚のカードの合計が二十一の場合は、ディーラーがこの時点で同じく二十一でない限り、ナチュラル・ブラックジャックとして勝ちになる。このとき、プレイヤーは賭け金の二・五倍の払い戻しを得る。

 ディーラーとプレイヤーの手持ちのカードが二十一以下の場合、プレイヤーは何度でもヒット(カードを一枚引く)ができる。行わない場合はスタンド(持ち札を変えずにそのままディーラーにターンを回す)を選ぶ。

プレイヤーがバーストせずにスタンドした場合、ディーラーは手持ちのカードを全てオープンし、その合計値が十七未満なら強制的にヒットし、十七以上ならそれ以上はカードを引くことができない。

 そしてディーラーの手札が決定した時に、プレイヤーの手札がオープンになり、その値が二十一に近い方が勝ちになる。同数の場合はプッシュ(引き分け)となり、賭け金が全額返ってくる。

 これが基本的なブラックジャックのルールらしい。

 そして、ここからがカジノ毎で異なる、特別ルールの扱いの説明になった。

 使用するデッキの数は七つで、使ったカードはディスカードトレーに置かれる。つまり、デッキのシャッフルの頻度は少ないということだ。

 他にも色々な説明を受けた。説明中に僕がいくつか質問したので、ディーラーは僕が初心者だと認識したらしく、始めの数プレイは練習として賭け金なしでやらせてくれた。その間、同じテーブルについていた女性はグラスを揺らしながら僕のプレイを見ているだけだった。

「どうですか? 始めますか?」

 練習を終え、ディーラーが言ったその言葉に、僕は頷いた。

 練習で使ったカードを回収し、ディーラーは素早く慣れた手つきでいくつかに分けたデッキをシャッフルする。とても三百六十四枚のカードを扱っているとは思えない早さだ。

「では、始めます」

 ディーラーがそう言ったのを聞いて、僕は黒いチップを三枚、テーブルの所定の枠に置いてベットした。

『覚えておいて。君に勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』

 という、彼女の言葉を思い出しながら。


  ***


 結果、最初のワンゲームでは、元々あった黒いチップは七十枚から九十九枚まで増えた。一枚五万円らしいので、概算で百四十五万円のプラスということだ。

 一枚五万円のチップを十枚単位で賭けることが、最初はとても恐ろしかった。バーストしたり、ディーラーがカードをめくるたびに心臓が止まりそうになったけれど、トータルではプラスだという事が、今では抗生物質のように効いている。良い事さんから受け取ったプラチナ色のカードの上限は四千万円らしい。つまり、黒いチップは八百枚まで発行できる。その事実も、少しは僕の心の支えになっている。

 しかし、その金額の分のチップを使い捨てられるわけではない。これは僕のお金ではないのだ。

 続けますか、というディーラーの言葉に、僕は頷いた。

 二ゲーム目。

『覚えておいて。君に勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』という良い事さんの言葉を思い出す。

『勝利をもたらす数字は三』という解釈で、ひたすらゲームを進行させる。

 まず、チップの枚数は三枚。これは絶対だ。

 それだけで様子見をする。

 結果、二ゲーム目は三十四枚の勝ち、三ゲーム目は二十二枚の勝ちになった。『三』ゲーム目のわりには価値が少なかったような気がしたけれど、きっとこの『三』は違うのだろう。

 それでも総額四百二十五万円のプラス。

 その途方も無い金額に、僕は手が震えそうになる。

 いつの間にか、僕の周りには人が増えていた。僕の大勝ちでギャラリーが増えたようだ。

 人が集まっているからか、同じテーブルの女性はいなくなっていたけれど、その代わりなのか橋元オーナーが僕のテーブルまで様子を見に来た。

「おや、景気が良いね」

 店側としては負けているはずなのに、どこか嬉しそうに彼は言った。

「ただのまぐれですよ。ビギナーズラックです」

「いやいや。まぐれでもここまでくれば立派な実力だ」

 この店のオーナーからそう言われて、僕は微笑んだ。乗せられている感じはするけれど、少なくとも悪い気分ではない。

「どうだい? そろそろディーラーを代えてみないかい?」

「そうですね。良いですよ」

 橋元オーナーの提案に、僕は乗っかった。

「そういうことだ。君はもう休みなさい」

 疲れたような表情で微笑むディーラーを見て、僕は一瞬、映画であるような嫌な事を想像した。

「ああ、安心してくれ。裏で彼を袋叩きにするようなことはしないよ」

 僕のそんな考えを表情から読み取ったのか、それともこの場でのジョークなのか、橋元オーナーはそんなことを言った。

 僕に大負けすることになったディーラーに代わってきたのは、驚いたことに女性のディーラーだった。彼女を見ても驚かないようにしたつもりだったけれど、それを表情に出さなかったとは断言できないくらいに驚いた。

「別に女性のディーラーは珍しい存在じゃない」

 橋元オーナーがいやらしく笑いながら、僕の肩に手を乗せて言った。

「でも、ナンバーワン・ディーラーが女性、それも美人だというのは珍しい」

 確かに、彼女は美人だった。髪を後頭部の高い位置で一つだけ結び、整った顔には薄いながらも魅力的なメークが施されている。ぱりっとした服装が彼女の静謐な雰囲気を演出していて、モデルのような雰囲気が漂っていた。

 彼女も慣れた手つきでデッキをシャッフルしている。ときどき見せる魅力的なシャッフルのテクニックは、パフォーマンスとしては完璧な部類だった。

「どうだい? 美人だろう?」

「そうですね。でも女性はメークで随分と印象が変わりますからね」

「よろしいでしょうか?」

 僕の言葉にかぶせるように、女性ディーラーが開始を促した。

 橋元オーナーと一緒に苦笑しながら、僕は十数人のギャラリーに囲まれながらゲームを再開した。

 チップにかなりの余裕があるので僕は良い事さんの言葉についていろいろと検証してみることにした。

 まず、手札に3があるときは積極的にヒットしてみた。

 一ゲーム終わって、結果はチップ六枚分の勝ち。

 もう一度やってみると、二ゲーム目は三チップ分の負けだった。

 限りなくイーブンに近いから、このやり方は正解ではないらしい。

 その次の三ゲーム目。『三』ゲーム目ということもあって、僕は積極的な試みをした。

 それは手札の値が十八のときにヒットするというものだ。

 つまり、ヒットされたカードが3で、僕の手札が21になる、という考えだった。

 結果はチップ三十三枚分、総額百六十五万円の負け。手札の合計が十八になった回数は八回。そのうち手札の値が21になった回数は一回だけだった。

 つまり、七回がバースト。

 まわりのギャラリーの反応通り、このやりかたは見当違いだったようだ。

 原点に戻り、捨て札の値に従った一定の法則下である値をカウントする、トゥルーカウントという方法で、今度はその値が三に関係のある数になった時に積極的に勝負してみた。

 結果、五十六枚の負け。

 ギャラリーがざわつく。

 手持ちのチップは七十九枚。トータルで初めてのマイナスだった。

 このカウントは良い事さんの言葉とは関係がないらしい。

 一度、原点に戻り、またカウントのみで勝負する。

 ゲームが終わる。

 最初のゲームで二十九枚勝ち越したその手法で、僕は十二枚分のチップを負け越した。

 もう一度、トゥルーカウントのみで勝負。

 今度は六十枚の負けだった。途中、僕のバーストを含めて七連敗したとき、ギャラリーからは女性ディーラーへの歓声が上がった。

 この負けで、僕はウエイトレスに頼んでプラチナ色のカードを渡し、新しいチップを受け取るはめになった。

 再度カウンティングを用いたけれど、勝ち越すことはできなかった。

 どうやら、この方法では僕は勝てないらしい。

 そんなふうに途方にくれながらゲームをしていると、途中、3のカードがツインで出てきた。それをスプリットすると、また3のカードを引いた。

 ディーラーのアップカードは7。つまり、ナチュラル・ブラックジャックはありえない。

 これだ、と僕は思った。

 さらにスプリットし、僕は手札を三組作った。

 出来上がったそれらの値は、二十、二十、十八。

 またギャラリーから歓声が上がる。今度は僕の手札に対してだ。確かに、一度に三つそろってしまうにはどれも勿体ない値だった。

 スタンドして、女性ディーラーにターンを回す。

 彼女が開けたホールドカードは7。つまり合計で十四。

 ディーラーは手札が十六以下の時、強制的にヒットしなくてはならない。

 彼女はヒットした。

 それを見て橋元オーナーはまたいやらしく笑っただろう。

 ギャラリーから歓声が上がる。

 でも今度は僕にではなく、女性ディーラーに対してだった。

 僕は額に嫌な汗をかいていた。

 彼女がヒットした三枚目のカードは7。

 スリーセブン。

 つまり、その値は21だ。

 思わず僕が彼女の手元から見上げると、そこには薄っすらと、どこか悲しそうに、憐れむように微笑む彼女の顔があった。

 僕はいつもの掛け金の三倍のチップを没収され、結局このゲームでは九十枚分のチップを取られた。

 また、負け越した。

 彼女の言葉にある『3』のカードに拘って勝負したのに、負け越した。

 胃がきりきりと痛む。

 一瞬、口の中に酸っぱいものがこみあげてくる。

「いったいどうしたんだい? 調子が悪いようだけれど」

 隣で表向き僕を心配するような口調の橋元オーナーが言った。

 でも、必死で負けた理由を考えていた僕にはそんな声は聞こえなかった。

 どういうことだろう?

 いや、既に勝利をもたらしているという可能性は?

 たとえば一回ごとのゲームで、3のカードを用いたゲームの勝率は? 否、これは期待できない。体感では限りなくイーブンに近いし、3のカードがあるときは積極的に勝負している。

 どういうことだろう?

 勝利をもたらす数字は三ではないのだろうか?

 混乱したまま、ゲームは進行する。

 混乱した頭で、僕はいろいろな事を考えた。

 イカサマ? 好きな時に好きなカードを自由に配れるテクニック? あり得ない。こんな七つもデッキを使ったカードの山を、そんな簡単に操れるのだろうか?

 後ろのギャラリーや隣に座る橋元オーナーが僕の手札を教えている? そんなことは無駄だ。ディーラーは僕の手札に関係なく、自分の手札の値によってカードをヒットするかどうか決める。僕の手札は関係ない。関係ないのだから、教えても意味は無いだろう。

 じゃあ、そもそも、良い事さんの言った言葉が本当は『良い事』ではない? それはありえないだろう。彼女の言葉が本当ならば、『良い事』というのは絶対に起きるはずだ。今までがそうだったのだから。

 ディーラーはがナチュラル・ブラックジャックを出した。ギャラリーからの歓声の中、僕のチップが没収されるけれど、僕はもうそれを見ていない。視界は既に赤に染まりかけていた。

 別の可能性を考える。

 彼女に予言の力が無くなった可能性は? それはあり得るかもしれないけれど、良い事さんが僕に『良い事』を伝えた後、彼女はいくつか別の人に『良い事』を教えているし、現にそれは教えてもらって人にとって『良い事』として実証されている。

 つまり、彼女の予言の能力はあの時点では失われていない。

 そこまで考えて、僕は今まで考えたくなかった可能性を考えた。

 考えたくなかった可能性。

 それは、彼女が、良い事さんが僕をはめようとした可能性。

 あり得ない、と思いたい。彼女が僕をはめる理由が無いし、それにプラチナ色のカードを預けているし、このクレジットカードは実際にこうしてチップという形で機能しているじゃないか。

 ゲームが終わる。今回はなんとかプラスだったらしいけれど、全体の負けから考えたら微々たる勝ち分だった。

 良い事さんが僕をはめる理由は思いつかなかったけれど、このクレジットカードが実際に機能していない。可能性は、限りなくゼロに近いけれど、考える限りはゼロではなかった。たとえば、まだ僕の隣に座っている橋元オーナーやウエイトレスから「実はお金が引き降ろせない」と言われたら、僕には何も言えないだろう。

 次のゲームで、女性ディーラーはナチュラル・ブラックジャックを三回出した。

 僕の中で三というのは、すでに勝利の数ではなくなっていた。

 だって、これだけ『3』のカードに拘っているのに、結果は負け越しているのだ。

 その次のゲームも、その次も、僕は負け続けた。

 額の汗をぬぐう。

 まわりのギャラリーからは、もう僕をあざけるような笑い声しか聞こえない。

 気持ち悪い汗を手で拭い、視界が赤く点滅し始めた。

 もう、僕には何も分からなくなっていた。

 カウントしていた値も、もう思い出せないし、既に途中からカウントしてなかった。

「降りるのかい?」

 僕の隣に座っている橋元オーナーがそう言うのを聞きながら、僕は手元に残った十六枚のチップを見た。

「おめでとう。君はこのカジノにおいて、勝率ナンバーワンの彼女を指名した、敗率ナンバーワンの負債者だ」

 僕が手元に目線を移したのを、彼は僕が頷いたと判断したらしい。

 ナンバーワンの負債者。発行したチップの枚数は三百二十枚。

 手元にあるのは十六枚。

 つまり、三百四枚分の負債。

 総額千五百二十万円の借金。

 途方も無い桁だった。

 あきらめる、という選択肢が頭をよぎる。

 ここで終わっても、負債が僕にかかるわけじゃない。

 全てはこのカードの持ち主、おそらくは良い事さんか、その知り合いに請求されるわけであって、僕は関係ない。

 いや、本当に関係ないのか?

 負債額から考えて、カードの持ち主が「これは自分のだから、使っただけの君は関係ないよ」なんて言って見逃してくれるだろうか?

 そんな都合のいい話があるわけない。

 その気になれば、僕に責任を負わせるなんてのはどうにでもなる。

 そもそも、負わせる、なんていうことにすらならない。

 責任は完全に僕にあるのだ。

 このカードの持ち主にも、良い事さんもその責任はない。

 勝っていた二ゲーム目、あるいは流れの悪くなった三ゲーム目で辞めればよかったんだ。

 無理だった。

 僕にはできなかった。

 ごめん。

 僕には無理だった。

 良い事さんにそう言う覚悟を決めて、諦めて帰っていれば、こんなことにはならなかった。

 だけど僕は調子に乗って、

 ゲームを進め、

 自分自身の手で、

 負債を増やした。

 初めてのカジノで大勝ちして調子に乗り、

 使えないカウンティング手法を用いて調子に乗り、

 勝率ナンバーワンのディーラーに勝負を挑み、

 そして、負けた。

 良い事さんの言葉を信じてチップを乗せ、カードを引いた。

 それでも負けたのだ。

 つまり、僕には勝てないゲームだったのだ。

「さて、君のような一般人がここで大敗するのは三人目だ」

 橋元オーナーが愉快そうな口調で、僕の肩を叩きながら言った。

 三人目。

「まあ、安心しろ。君は見たところ健康そうだから、今までの二人と同じように、身体のどこかを売れば直ぐに元は取り返せる」

 愉快そうに、また儲けたと言わんばかりに、橋元オーナーが僕に言った。

 今までの二人。

 僕で三人目。

 三人目。

 三人。

 三。

 良い事さんから言われたその数字が、今では死の宣告のように思えた。

 きっと彼女が僕を陥れるために言った、悪魔の予言。

『覚えておいて。君に勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』

 三人目。

 いや、三人目はナンバースリーとは言わないな、と僕は自虐的に思った。

 彼女は悪魔の予言なんてしていない。

 だってナンバースリーは三番目だ。

 三じゃあ、ただのスリー。

 だから、彼女の言葉を理解しきれなかった僕が悪いんだ。

 だってナンバースリーは三番目。

 三は、ただのスリー。

 スリーは三?

 一瞬、僕の頭に別の考えが浮上する。

「ナンバースリーは、三番目」

「ん? なんだって?」

 僕が呟いたその言葉を聞き取れなかったらしく、橋元オーナーは聞き返した。

 ちょっと待て。

 じゃあ、

 彼女のあの言葉は。

 思い出す。

 ナンバースリーを、置き換える。

「おいおい。借金の額が大きすぎて、とうとうおかしくなったか?」

 橋元オーナーのその声に、まわりのギャラリーがどっと笑った。

 でも、彼の一番近くにいた僕にはその声は聞こえなかった。

 良い事さんの言葉。

 勝利をもたらす数字は『三番目』

 三番目?

 三、ではなく、三番目。

 つまりそれは数値ではなく順番だということ。

 順番だって?

 一体何の順番だろう?

 思い出せ。

 彼女は何と言ったか。

 もう一度、彼女の言葉を正確に思い出す。

 彼女の言葉は、本当に死の宣告、悪魔の予言だったのか。

『覚えておいて。君に勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』

 その瞬間、

 良い事さんが言った、

 その言葉の本当の意味が、

 僕の頭の中に浮上した。

 確証は無い。

 ただの疑問だ。

 確証が欲しい。

 僕はすがる思いで顔を上げた。

 目の前にはたった十六枚のチップ。

 カードの残金はチップ四百五十枚分。

 片づけられたカード。

 勝率ナンバーワンの女性ディーラー。

 その彼女の口元が、何気なく動いた。

 声はしない。

 音も無い。

 かろうじてわかるその動きで、

 僕の疑問は確信に変わった。

 僕の答えを、後押ししていた。

「ベット」

 僕がそう言うと、隣に座っていた橋元オーナーが驚いた表情で僕を見た。

 でも、デッキを片づけていた女性ディーラーは僕を見ながら微笑んだ。

 僕は微笑んでいる女性ディーラーを見ながら、

 彼女が言っていた『良い事』の言葉を思い出しながら、

「ここにある十六枚のチップとこのカードの上限を合わせた、四百九十六枚をベット」

 確信を持って、そう宣言した。


  ***


「本当は、一回、諦めたんだ」

 僕は上限を目一杯使いきったプラチナ色のクレジットカードを、彼女に渡しながら言う。

「君が、僕をはめたんじゃないかって。自分の言うとおりに動いて、地獄を見る僕を眺めて嗤っているんじゃないかって。そう疑ったんだ」

 国際空港の出国手続き前にあるロビー。平日の今日は、この場にはスーツ姿の日本人しかいないようだった。

 手ぶらの僕と、大きなスーツケースを脇に置いた彼女を除いて。

「でも、あの場で君が、僕に言ってくれたから、僕は確信を持ってあのときゲームを続けられた」

 彼女が僕に言った音の無い言葉。

 『あきらめないで』

 彼女は僕にそう伝えた。

 あの場で僕にそう助言することで、僕と彼女がグルだということがばれる危険があったのに、それを顧みずに、彼女は確かに言った。

「私の、あの予言じみた助言は、私以外の他人にしか通用しない」

 つまりそれは、何をすれば彼女自身にとって『良い事』になるか、彼女は分からないということだ。

 だからあの時、自分を取り巻いていた状況から彼女が自分自身を救う事は不可能だった。

 助言の通用する他人が、彼女を救うまで。

「だから、昔通っていた大学に通いなおして、私のことを信頼してくれる人を待ってた」

「でも、君の言葉を信じている連中は沢山いたでしょう?」

 僕のその言葉に、彼女は悲しい表情をしながら首を振った。

「私の言葉を信じているだけではだめなの。私自身を助けてくれることがその人にとって本当に『良い事』にならないと、私はそれを伝えられない」

 そう言って彼女は、今まで見たことが無いくらい悲しげに、泣きそうな表情で言った。

「だから、ごめんなさい。貴方の好意を利用して、本当に、ごめんなさい」

 彼女が泣きそうな表情でそう言う。

それを見ているのが、僕にはとても辛かった。

「大丈夫。利用されていても、君のことを僕の手で助けられたのは本当に良かったって思ってるから。だから、気にしないで」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 やがて泣きだしてしまった彼女の手を引いて、僕はターミナルの中にある小さな喫茶店に入った。そこでココアを二つ頼んで、彼女が落ち着くまでじっと待った。

 幸い、出立の便までまだ時間はある。

「子供の頃、手品師になるのが夢だった」

 そして、頼んだホットココアが覚める頃になって、落ち着いた彼女は口を開いた。

「その頃の私はとても内向的で、学校にも近所にも友達はいなかったの」

 登下校はいつも一人。学校に行っても休み時間はずっと図書室で本を読んでいるような女の子だったらしい。土日などの学校の無い日すら、家にこもって本ばかり読んでいたと彼女は言う。

「ある日、両親と外出した帰りに、駅前で見た手品が、凄く面白かったの」

 きっかけは、当時彼女が住んでいた街にある駅前の大道芸を見たことだったようだ。

「それからは、ずっと手品の本ばかり読んでいた。少ないお小遣いで高いトランプも買って、練習して、父や母に見せたりした」

 本ばかり読んで、おとなしかった娘が急に手品にのめりこんだことに少し戸惑いながらも、彼女の両親はその手品を褒めてくれたらしい。

「でも、小学校を卒業する前くらいに、自分で作ったオリジナルの手品を父に見せたの。そしたら」

 いつもならよろこんで褒めてくれるはずの父親は、そのとき彼女のカードマジックをみて、そのトランプを破いてしまったらしい。

 あとでわかったことだけれど、その頃の彼女の両親には億単位の負債があった。元々ベンチャー企業として成功していた彼の父親は、急激な円高とアジア諸国の急激な経済成長によってその仕事を奪われ、成功までかかった年数の十分の一の期間で破産、倒産して巨額の負債を抱え込むことになった。倒産するよりももっと早い段階で会社の経営を諦めていたらこんなことにはならなかったと嘆く母親を殴る父親を見ることになる。

 崩壊した家庭をまざまざと見せつけられながら、彼女は小学校を卒業する頃、自分自身に備わったその力を自覚した。

「最初の『予言』は、中学校に入ってからすぐだった」

 最初は、クラスメイトの恋愛相談だったらしい。そのクラスメイトから、自分の意中の相手とどうやったら付き合えるかを相談された時、彼女の頭の中にある言葉が浮かんだ。

「それが、私が初めて他人に教えた『良い事』だった」

 その『良い事』の内容を彼女は教えてくれなかったけれど、そのクラスメイトは彼女の言葉通りの事を行い、結果としてその意中の相手と恋人同士になった。

 それからもちょくちょく他人に『良い事』を教えることがあり、その、事情を知らない他人からの評価では、彼女の『予言』は『的確なアドバイス』として、以来、地元で彼女はちょっとした有名人になったらしい。

「それは高校に入ってからも続いて、わざわざ隣の県から私に相談に来るくらい、私の『予言』は有名になってたの」

 それを、聞きつけ、一番先に利用しようと考えたのが、彼女の父親だった。

「父は言ったわ。『俺に最適な助言をしろ』って。でも、私、言えなかった。父に、いえ、父だけではなく母にも、その言葉は言えなかった」

 彼女の頭の中に、両親について浮んだ『予言』は『自ら命を断て』という、つまりは死刑宣告だったのだ。

「渋る私に父は暴力をふるい、母はすがる様に私に懇願した。でも、私は言えなかった」

 彼女は両手で顔を覆った。あの、観客を魅了するシャッフルのテクニックを持った両手で。

「そうしたら、ある日、知らない男の人が私の高校に来た」

 それが、あの裏カジノを経営する組織の人間だった。

 予言じみたアドバイスをすると有名になっていた彼女の、その力を測るために。

「彼は言ったわ。その力が本物なら、私の身柄と引き換えに父の負債を肩代わりするって」

 当時、高校二年生だった彼女は、男のその言葉に従って通信制の高校に転校し、日中はほぼ軟禁状態で『予言』させられたらしい。

「私は別に良かった。父と母が幸せに暮らせればそれで。でも」

 彼女の父親の借金が無くなっても、彼女の両親について彼女の頭に浮かぶ『予言』は『自ら命を断て』だった。

「自分たちの生活と引き換えに軟禁されている私のことを想ったのか、良心の呵責と罪悪感に耐えきれなくなったのかはわからないけれど、結局、二人は自殺したわ」

 最初に両親の自殺を組織の人間から聞いたとき、彼女はそれを信じなかったらしい。

 それでも、実際に両親の亡骸と対面させられた時、自分の中で何かがおかしくなったと言う。

 以来、組織の人間に言われるがままに、彼女は予言し、組織の利益に貢献してきた。

 日中は組織の上層部の人間と会い、夜はいろいろな場所を連れまわされた。

 気がつけば、カジノでディーラーとして働くようになっていたと言う。

「元々、手先が器用だったし、才能もあったみたいなの」

 そのせいか、初めてのはずのディーラーもひどく板についていたとか。

「どうしてだろうね。カードを触っているときだけは落ち着けたの。だから、自分から進んでディーラーの仕事はこなしたわ。たとえ相手がどんな負債を抱えても、私はカードに触れることだけに、執着した」

 彼女は冷めてしまったココアを見ながら言った。

「本当に。あなたに会うまでの四年間はずっと、何も考えずにまわりの人たちの言う事に従ったの。だから、カードに触っていることだけが、それだけが、心の支えだった」

 手品師を夢見た幼い頃の彼女は、自らのある才能に目覚め、両親の死に直面し、自分の周りの変化に耐えきれず、思考を放棄して、カードに執着した。

 手品はできないけれど、カードに触れていることで、彼女は子供の頃の思い出に触れることができていたのかもしれない。


  ***


「ねえ、結局、私の言葉はどういう意味だったの?」

 出発ロビーの入口の前で、彼女は僕に聞いた。

 言葉、というのは彼女が僕に言った『良い事』のことだ。

「ああ、そのことね」

 僕は思い出したよう頷く。

 彼女の話を聞いていて分かったことがある。それは彼女の言う『良い事』には、彼女自身に対する制約というか、決まりのようなものがあるということだ。

 一つは、彼女自身に関する『良い事』というのは、彼女自身は分からないと言う事。つまり自分自身に対する『良い事』の『予言』はできない、ということだ。

 そしてもう一つ、は彼女が言った『良い事』は、必ずしも彼女自身が理解できているわけではない、ということだ。

 だからあの場での彼女は、最後まで彼女の言った『良い事』を僕自身が理解して、実行するのに頼るしかなかった。

「私とのプレイであなたが三に執着しているのは分かった。ベットするチップの枚数もそうだし、十八からのヒットもそう」

 確かに、あのときの僕は三というものにひどく執着していた。

「でもそれは違ったんでしょう?」

 それはその時のチップの減り具合を思い出せば一目瞭然である。

 彼女の問いかけに僕は頷いた。

「じゃあ、私の言葉は一体何だったの?」

 僕はあのときの自分の考えを思い出す。

「君が言った、『勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』っていう言葉は『三という数字が僕に完全な勝利をもたらす』っていう意味じゃないんだ」

 何故なら、ナンバースリーというのは三番目であって、三という数字そのものではない。もし彼女の言葉の意味が三という数字を示すのなら、『数字はスリー』か『ナンバーはスリー』であるはずである。

 でも、『数字はナンバースリー』だった。

 つまり、僕に勝利をもたらす完全なる数字は三番目のそれであるということだ。

「完全なる数字っていうのは、単なる数字のことじゃない」

 そこまで言うと、意外にも彼女は分かったらしい。

 彼女の納得したような表情を見て、僕は少しだけ驚きながら頷いた。

「うん。完全なる数字っていうのは、そのままの意味。完全数のこと」

 一口に数字と行っても、その分類は沢山ある。有名なものでは素数、奇数、偶数などといった分類があるし、数学でいえば自然数や整数、実数などもそれに当たる。

 そういった分類の中に、完全数というものがある。これはその数字の約数を考えたとき、その数字自身以外の約数を足すとその数字自身の値になるというものだ。

 たとえば六の場合。約数は一、二、三、六である。六自身を抜いた一、二、三、を足せば六になる。つまり六は完全数ということになる。

 この完全数と呼ばれる数字は、数自体はあまり多くない。ちなみに、六の次に小さい完全数は二十八である。約数は一、二、四、七、十四、二十八で、足してみると一+二+四+七+十四は二十八となる。

「『勝利をもたらす完全なる数字はナンバースリー』というのは、『完全数の三番目』ということだったんだ。つまり、四百六十九だね」

 何かの本で読んだのを覚えていた。おそらく、数学の教科書か参考書かの章末にあるコラムにでも載っていたのだろう。そこで四番目の完全数まで紹介されていたのを覚えていた。四番目の完全数は流石に桁が大きいので覚えられなかったけれど、三番目までなら覚えていたのだ。

 たまたまだけれど、覚えていた。覚えていなかった時のことを考えると、ぞっとする。でも、良い事さんに『良い事』として教えられたという事は、きっと僕がそれを理解できるということだったのだろう。

 とにかく、結果として僕は彼女の言葉の意味が三番目の完全数だという事に気がついた。

 あとは簡単だった。ブラックジャックというゲームに置いて、四百六十九なんていう大きい数字はゲーム内には出てこない。

 ただ一つの要素を除いて。

僕は、チップを四百六十九枚賭けた。

 偶然か必然か、彼女の言葉の本当の意味に気がついたとき、僕が持っていたチップの合計は四百六十九枚だった。

 だからその全額を賭けてゲームを始めた。

 あとは簡単である。

 常に四百九十六枚を賭け続ければ良いだけだ。

 結果は、言うまでも無い。

 複数回のナチュラル・ブラックジャックを含む連勝で、僕は莫大な金を手に入れた。

 そしてその金を使い、僕は一人の女性ディーラーをあのカジノを経営する組織から買ったのだ。

 余ったお金は、彼女の口座に振り込まれている。

 旅の資金として。

 そして、夢を叶える糧として。

「まずは、イギリスのどこへ?」

「うん。ロンドンで落ち合うことになってるの」

 彼女がディーラーをやり始めた頃。まだディーラーとして半人前だった彼女は、あのカジノでパフォーマンスとしてカードマジックを披露することがあったらしい。

 それを、たまたま海外から来ていた有名な奇術師が見る機会があったのだ。

「いつでもいいから。その気になったら連絡が欲しいって言われたの」

 きっとスカウトされたその時から、彼女はその奇術師についていきたかったはずだ。

 手品師を夢見た記憶を忘れられず、あんな環境に置いても、結果的に彼女は変わらずカードを扱っていたのだから。

「あなたたが私の申し出を受けてくれたとき、まっさきに彼に連絡したの。そうしたら、エアメールでこのカードが送られてきて、『君の自由のために使ってくれ』って」

 そう言って彼女は、僕が返したプラチナ色のカードを見せた。やっぱり、それは彼女のものではなかったようだ。

「じゃあ、その奇術師さんによろしく。あと、上限の目一杯まで使ってごめんって、謝っておいて」

「うん」

 彼女が頷いたのを見て、僕は思わず笑みがこぼれた。きっとロンドンの奇術師は来月のカードの請求で、それこそ自分の作るどの奇術よりも驚くはずだ。プラチナカードの上限を使い切るなんていう話は、それこそ本当の魔法並みに貴重なものだ。

 でも、彼女の口座にはその請求額を補って余りあるだけの額が振り込まれている。

 そしてそれには、彼女の夢を支えられるだけのものでもある。

 そして彼女には、夢を叶えられるだけの実力も才能もある。

 きっと、彼女は夢を叶えるだろう。

 だから将来、彼女が有名になった時のために、その名前を聞いておこう。

 僕がそう思った時、場内に彼女が載る飛行機便の入場アナウンスが響いた。

「……じゃあ」

「……うん」

 アナウンスが鳴りやむ前に、僕から彼女に別れの挨拶をした。

 彼女はスーツケースを引きながら、搭乗口へと歩いて行った。

 その背中がどことなく寂しげで、僕は三回、彼女に声をかけるか迷った。

 でも、

 僕の口が動くことは無かった。

 今更ながら、彼女の名前を知らないことに気がついた。

 その事実に僕は思わず苦笑する。

 そういえば、彼女の名前に訊ねる機会はなかった。

 でも、なんとなく、

 これで良いんだと、

 そう思った。

 彼女の名前を知らないままでも、

 いつか、

 必ず、

 僕は彼女を知ることになるだろう。

 そのときは、

 不思議な噂を持つ、

 どこにでもいそうな女子大生でもなく、

 素晴らしいカードテクニックを持つ、

 魅力的な女性ディーラーとしてでもなく、

 ヨーロッパで活躍する、

 最高の女性マジシャンとして。

 今までに見たことの無いくらい素敵な笑顔で、

 きっと僕の前に現れるはずだ。

 そう確信しながら、

 僕は帰ろうと出口の方へ向いたとき、

 急に、

 右手に、

 誰かに握られたような圧力を感じる。

 振りかえるとそこには、

 頬を濡らした彼女がいて、

「最後に、良い事を教えてあげる」

 そう小さな、弱々しい声で言いながら、

 彼女の顔が僕に接近する。

「私は、いつまでもあなたのことを想っています」

 頬を濡らしたままの、

 目が少しだけ赤くなった、

けれど眩しいくらいの、

太陽みたいな満面の笑みでそう言って、

彼女は僕に、キスをした。



『良い事さん』はくじ引きによってテーマが『ギャンブル』という決定を受けて、葱田が執筆したものです。

そのため、ちょっと物語の前後半でギャップがあります。

ギャンブルというのがよくわからなかったので、いろいろな要素を詰め込んだ結果が、この作品となりました。

小説としては拙い部類に入ると思います。

なので、よろしければ評価や感想の方をいただけると幸いです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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[一言] はじめまして。 感想を書かせていただきます。 前半部を読んで「きっと良い事さんの見返りを主人公が断って親しくなるんだろうな……」と予想はしたのですが、まさか後半にあんな緊張感あふれるカジ…
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