「婚約者をちょうだい」と、おねだり上手な妹に言われたので譲ることにしました。
「バーナードをちょうだい」
その一言を、アリアナ・プリュスは最初、聞き間違いかと思った。
プリュス伯爵家の応接間、午後の柔らかな光が差し込む中で、妹のエレーナはいつものように無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。
まるで新しいドレスか、宝石か、そんなものをねだるのと同じ口調で。
「……エレーナ、今なんて」
「だから、バーナードよ。お姉様の婚約者の。私にちょうだい」
アリアナは手にしていた紅茶のカップを、静かにソーサーへ戻した。
手が震えないように、細心の注意を払いながら。
エレーナは昔からそうだった。アリアナの持ち物を欲しがる。
「お姉様のお人形、ちょうだい」
「このリボンはお姉様より私に似合うから、ちょうだい」
「お姉様のネックレスすごく綺麗ね!ちょうだい」
そのたびに母のシェリーは「譲ってあげて」とアリアナに言い、アリアナは素直にそれに従ってきた。
エレーナの欲しがるものは大抵、見た目が華やかな物ばかり。ほとんどの物はすぐに飽きてしまって放り出され、侍女の手によって密かに回収されて戻ってきた。
それにエレーナに譲った物以上の物をあとから母が与えてくれた。
「今度はエレーナに見つからないようにね」
というひと言を添えて。
持ち物だけではない。
「お姉様の家庭教師、ちょうだい」
ということもたびたびあった。
「私の家庭教師は、お姉様の家庭教師より厳しいの」
という理由のこともあれば、成績が伸びないことで
「私の家庭教師より、お姉様の家庭教師の方が優秀なの」
という理由のこともあった。
同じ家庭教師を付けるようになって
「あの家庭教師はお姉様にばかり優しくするから変えて」
と母に言い、別の家庭教師が付いたが、エレーナを甘やかしてくれる教師だったようでそれからは「家庭教師ちょうだい」と言われなくなった。
こんなにわがままだと先行きが不安だとアリアナが両親に訴えたことはあるが、エレーナが「ちょうだい」とねだるのはアリアナに対してだけ。
「アリアナに甘えているのよ」
「大目に見てやってくれ」
と言われて引き下がった。
けれど今度ばかりは違う。
「エレーナ、婚約者を譲るなんてこと、できるわけがないでしょう」
アリアナが静かにそう窘めると、エレーナは唇を尖らせ、それから――勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「でも、バーナードも私がいいって言ってるもの。それに」
エレーナは自分の下腹に手を当てた。
「私、バーナードとの赤ちゃんがいるの」
アリアナは、その瞬間、世界が一瞬だけ静止したような感覚を覚えた。
後になって知ったことだが、エレーナとバーナードは、アリアナの知らないところで幾度となく会っていたのだという。
私の婚約者として紹介された時から、エレーナはバーナードのことを「欲しい」と思ったのだと。
バーナードが家に来るたびエレーナはお茶の席に同席したがったし、仕方なく三回に一度くらいは同席させていた。
「ねぇ、私もバーナードさんって呼んでもいいかしら」
「エレーナ、失礼よ」
「いや、いいですよ。将来の妹になるわけだし、エレーナ嬢とも仲良くしたい」
そんな会話をした覚えがあるが、別の意味で仲良くなったようだ。
今思えば、「予定が入って会えなくなった」と言われたうちの何度かはエレーナと会う日だったのかもしれない。
「あら、お姉様。バーナードさんとお出かけじゃなかったの?」
「ええ。急用が入ったとかで。エレーナはどこかに行くの?」
「人気の歌劇のチケットが手に入ったの」
それはアリアナが見に行きたいとバーナードに言っていた歌劇だった。
あとから予定を合わせてバーナードと見に行った時に、あまり感動していないように見えたのは二回目だったからではないか。アリアナは以前の出来事を振り返ってそう思った。
そうして何度か二人で会ううちに、エレーナの誘いを断れず、一線を越えてしまったようだ。
優しい反面、優柔不断なところもあるバーナードらしい結末だった。
そしてエレーナは妊娠。
アリアナは、それを聞かされてもなお、取り乱すことはなかった。
ただ静かに目を伏せ、しばらくの沈黙の後、こう告げた。
「わかりました。バーナードさんはエレーナの方に婿入りするということね」
それだけだった。涙も、怒声も、何もなかった。
◆
数日後、プリュス伯爵家の大広間で、両家による話し合いの席が設けられた。
ランディス侯爵は、深く刻まれた眉間の皺を隠そうともせず、終始厳しい表情を崩さなかった。
その隣に座るバーナードは、顔を蒼白にして俯いている。
対照的に、プリュス伯爵ドルマンとその夫人シェリーは、驚くほど涼しい顔をしていた。まるで、この程度のことは想定の範囲内だとでも言うように。
アリアナは無表情のまま、まっすぐに前を見据えている。
そしてエレーナだけが、満面の笑みを浮かべていた。
まず口を開いたのは、ランディス侯爵だった。
「此度のこと、誠に申し訳ない。息子には、責任を取ってエレーナ嬢と結婚させる」
侯爵が深々と頭を下げる。
「エレーナにも非がないとは言えませんが、そのお申し出、ありがたく受けさせていただきます」
ドルマンもまた、それに応じて頭を下げた。
二人の当主が頭を下げ合う様子を、アリアナは静かに見つめていた。
「父上、待ってください」
バーナードが慌てたように顔を上げた。
「あれは……あれは一夜の過ちだったんです。僕が愛しているのは、アリアナだけです」
その言葉に、エレーナの表情が一変した。
「なにそれ!私のことが好きって言ったじゃない!お姉様よりかわいいって!」
金切り声を上げて立ち上がろうとするエレーナを、アリアナが静かに手で制した。
「エレーナ、落ち着いて。お腹の赤ちゃんに障るわ」
その声はどこまでも冷静で、まるで妹の体調を気遣う姉そのものだった。
エレーナは唇を噛み、悔しそうに座り直す。
「バーナードさん、どうなのかしら」
アリアナがそう問うとバーナードはポツリポツリと言い訳を始めた。
「エレーナはいつも『お姉様が冷たい』と。いや、僕にとってはそうは思えなかったのだけど、彼女がそう……。あとは『お母様はお姉様ばかり褒める』とも……。なので少しかわいそうに思って何度か二人で出掛けて……。『私のこと好き?』って聞かれたら『そうだね』とは言いました。でもアリアナより好きだとかそういうことは……」
「言ったわ!言ったわよ!」
「エレーナ、落ち着いて。今はバーナードさんから話を聞かないと」
アリアナはそう言ってバーナードに向き直り「それで?」と先を促す。
「エレーナに『一度でいいから』『誰にも言わないから』と言われて、そういった関係に……。でも一度だけ!一度だけなんです!本当です!」
しばらくの沈黙の後、ドルマンが娘に向かって静かに問うた。
「アリアナ、お前の気持ちを聞かせてくれるか」
アリアナは背筋を伸ばし、ゆっくりと口を開いた。
「夫婦というのは、信頼関係の上に成り立つものだと思っております。特に貴族同士の結婚においては、愛情以上に信頼が重要だと、そう教えられて育ちました」
一同が静かに耳を傾ける中、アリアナは淡々と続けた。
「バーナードさんとは、これまで信頼し合える良い関係を築けていたと思っておりました。それが、このような形で裏切られてしまっては……今後、信頼関係を再構築するのは難しいでしょう」
バーナードが息を呑む。
「一度だけ。その言葉を信じたとして、エレーナとは二度はなくても他の人は?もしかしたら別の誰かと『一度だけ』が起きる可能性だってあるじゃないですか」
「そんなことは!そんなことは絶対にない!」
「その言葉を、信じられなくなったということなのです」
アリアナは俯き、唇を噛む。
バーナードも何も言えなくなっていた。
「ですが、結婚する前にわかって、むしろ良かったと思っております。私はもう、バーナードさんを信頼することはできません。ですが」
アリアナは視線をバーナードへと向けた。
「エレーナはあなたを信頼しています。どうか、その信頼に応えて差し上げてください」
静かで、しかしどこまでも揺るぎない声だった。バーナードは反論の言葉を失い、ただ俯くしかなかった。
その静けさを破るように、エレーナが「いいこと考えたわ!」と声を弾ませた。
「ねえ、聞いて。私は将来、男爵家を継ぐ予定だったでしょう?でも侯爵家のご子息が婿入りするのに、男爵じゃ失礼にあたるじゃない」
エレーナは得意げに続けた。
「だったら、私が伯爵家を継いでバーナードを婿に迎えて、お姉様が男爵位を継げばいいのよ!そうすれば全部丸く収まるわ。ねえ、いいでしょう? お父様、お姉様」
いつものように、おねだりをすれば通ると思っているのだろう。エレーナは無邪気な笑顔で両親とアリアナの顔を見比べた。
「いいわよね?お姉様はいつだって譲ってくれたもの。今回だって私に譲ってくれるわよね?」
エレーナの言葉に、これまで一言も発していなかった伯爵夫人シェリーが、凍りつくような声で告げた。
「そんなこと、許しません」
いつも優しい母の、聞いたこともないほど冷たい声色に、エレーナは思わず身をすくめた。
「お母様……?」
ドルマンは深く息を吐き、静かに語り始めた。
「エレーナ。お前が成人した時に話すつもりだったんだが……こうなっては仕方あるまい」
伯爵家の当主の口から語られたのは、エレーナが知らなかった真実だった。
エレーナは、ドルマンの実の娘ではない。彼の従兄弟にあたる、とある男爵の娘だった。
エレーナがまだ赤ん坊だった頃、その男爵家は凄惨な事件に見舞われ、エレーナ以外の家族全員が命を落とした。
あまりに惨たらしい事件だったため、当時の社交界でも話題になっていた。
男爵位と領地は、本家であるプリュス伯爵家が一時的に預かることとなり、エレーナはドルマンとシェリーの養女として迎え入れられた。
そして、エレーナが成人した暁には、男爵家の正当な後継者である彼女に、爵位も領地もすべてを返すという取り決めがなされていたのだった。
事件があまりに凄惨だったため、真実を告げるのはエレーナが大人になり、それを受け止められるようになってからにしようと、ドルマンとシェリーで話し合っていた。
「だから、エレーナが伯爵家を継ぐことも、アリアナが男爵家を継ぐことも……あり得ない話なんだよ」
エレーナは呆然と、言葉を失っていた。
アリアナもまた、この話は知っていた。
エレーナがこの家に初めてやってきたのはアリアナが三歳の時。朧げながら突然家族が増えた記憶が残っている。
それに幼い頃、母から「あの子はかわいそうな子なの」と、詳しい事情は伏せられたまま、エレーナの家族が亡くなってしまい、この家の養女となったことを聞いていた。
エレーナが何かを欲しがるたびに素直に譲っていたのは、姉妹としての情というより、施しに近い気持ちからだったのかもしれない、と今になって気づく。
そして思えば、エレーナが欲しがるのはいつも、見た目が華やかなだけで実際の価値はさほど高くないものばかりで、地味だが本当に価値のあるものには決して手を伸ばさなかった。
アリアナはそれを、妹なりの分別だと思っていた。
だが、それはただ単に価値を知らずに派手で目を引くものばかりに目が行っていただけなのかもしれない。
母シェリーがアリアナを厳しく育てたのも、すべては愛情ゆえだった。
実の娘であるアリアナを、どこに出しても恥ずかしくない令嬢に育て上げるため、シェリーは心を鬼にして接してきた。
一方でエレーナは、シェリーにとっては血の繋がらない子供だった。ドルマンとは血縁があっても、シェリーとは他人。
教育の機会は平等に与えたが、エレーナがそれを怠けようと、サボろうと、「エレーナがそうしたいのなら」と、シェリーは強く咎めることをしてこなかった。
それは優しさではなく、家族とは明確に一線を引いた態度でもあったのだ。
シェリーはエレーナを叱ることはなかったけれど、確かにエレーナがバーナードに言った通り、エレーナを褒めたことは一度もなかった。
男爵家で起きた事件は大きなものだったため、ランディス侯爵もある程度の事情は把握していた。
しかしバーナードは何も聞かされていなかった。
今回の一件が起きて、この話し合いの場に来る直前になって初めて、父から聞かされたのだという。
「エレーナ嬢が男爵家の後継者であるならば……」
ランディス侯爵は苦い顔で頷いた。
「男爵家への婿入りということで、承知した」
「嫌だ、助けてくれ、アリアナ!」
バーナードが縋るような目でアリアナを見た。だが、アリアナはその視線を一瞥しただけで、静かに顔を背けた。
「もう遅いですわ」
その一言が、バーナードのすべての望みを断ち切った。
プリュス伯爵夫妻もまた、複雑な胸中を隠せずにいた。
事情を知らなかったとはいえ、実の娘のように大切に育ててきたエレーナが、本当の娘であるアリアナを陥れるような真似をしたのだ。
その裏切りに対する失望は、決して小さなものではなかった。
エレーナが正式に男爵位を継げるのは成人してからだが、ドルマンは一足早く、エレーナとバーナードを男爵領へ送り、そこで領主となるための教育を施すと言い渡した。
「嫌よ、私、ここにいたい……!」
エレーナは涙ながらに訴えたが、もう誰もその声に耳を貸すことはなかった。
優しかった両親も、いつも譲ってくれた姉も、エレーナの言葉を無視して淡々と話を進めていく。
その光景は、これまでのエレーナが経験したことのないものだった。おねだりをすれば、いつだって誰かが折れてくれた。それが当たり前だった世界が、静かに、しかし確実に崩れ去っていく。
話し合いが終わり、自室に戻ったアリアナはひとり、涙をこぼした。
妹のようにかわいがってきたエレーナの裏切りと、これから将来を共にするはずだったバーナードとの決別と。
みんなの前では冷静さを保っていたが、ひとりになると感情が抑えられなかった。
◆
後日、エレーナはバーナードを伴い、男爵領へと旅立っていった。
男爵領は王都からも伯爵領からも遠く離れた辺鄙な地方にある。
エレーナが憧れていた華やかな夜会も、美しいドレスも、歌劇のような娯楽からも遠く離れた地味な暮らしになってしまう。
それがわかっているのかエレーナは泣いてすがり、時には暴れてこの地に残ろうとしたが、母が断固として許さなかった。
もちろん父も速やかに手続きを済ませて、男爵領を治める代官に将来の領主夫妻の教育を依頼していた。
エレーナのあの様子を見ると、バーナードはこれから我の強い妻を抑えつつ、豊かとは言えない男爵領の経営に勤しまなくてはならないようだ。
見送りに出た家族の顔に、寂しさよりも、どこか安堵にも似た空気が漂っていたのは、誰の目にも明らかだった。
その夜、プリュス伯爵家の食卓には、久しぶりに本当の家族――ドルマン、シェリー、アリアナの三人だけが顔を揃えていた。
「さて、新しい婿探しをしなければな」
ドルマンが穏やかに笑いながら言うと、シェリーがくすりと笑った。
「物語であれば、颯爽と他国の王子様でも現れてくれるのでしょうけれど」
「そう上手くはいきませんわ、お母様」
アリアナもまた、久しぶりに心の底から笑った。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
失ったものもあったけれど、取り戻した穏やかな時間の中で、アリアナはこれからの自分の人生を、もう一度、自分の手で選び直せるのだという確かな予感を抱いていた。




