第一話 死地を駆ける
慶長二十年(1615年)、夏。
茶臼山北西、木津川堤防沿い。
「信繁殿が安居神社にて討死し真田勢が壊滅!! これを受け毛利勢は城内に撤退!! 天王寺口は突破されました!!」
伝令の報告を受け、明石全登は目を閉じた。
「信繁殿……」
呟き、天を仰ぐ。
いよいよ、豊臣方の命運も尽き果てた。
数で遥かに劣る豊臣軍は全登率いる僅か三百の決死隊に逆転の可能性を託した。
徳川勢を狭隘な丘陵へと引き込み、陣形が伸び切ったところで回り込んだ全登が敵本陣を突いて家康の首を取る。
それが信繁より下された任だった。
無謀な作戦であるとわかってはいた。
よしんば目論見通り事が成ったとて、家康の首一つで徳川軍が瓦解するとも思えない。
されど、もはやこの策を置いて豊臣方が勝つ術など残されていなかった。
そしてその策は今、動き出す前に失敗に終わった。
総大将は死に、防衛網は砕かれた。
ことここに至っては敵本陣に隙など生じる余地もないだろう。
視線の先に水野家の旗印が揺れる。
「"鬼日向"か。相手にとり不足は無いな」
元より捨てる覚悟のこの命。殉ずるべき勝利は露と消え、その使い所を失った。
胸に下げたロザリオを握る。
「前方の敵軍を突破し戦線を離脱する!! この身を槍の穂先と思い後に続け!!」
馬を走らせ、先頭を行く。
「……主よ」
その呟きは戦場に呑み込まれた。
群がる敵兵を突き、返す刀で薙ぎ、斬り伏せる。生温かい返り血を浴びてなお、心は冷えていた。
奇妙なほどに頭が冴えたり、身体は意のままに動いてくれる。
全登の手勢は勢いに乗り水野の軍勢を斬り裂いていく。
前方に――徳川軍一番手大将、水野勝成の姿を捉える。
冥土の土産にはこれ以上ない首級だ。
その前に立ちはだかる兵を小倉行春が斬り、全登に目配せする。
全登は馬上で目一杯体を捻ると、渾身の力でその槍を勝成に突き出した。
――が、勝成はそれをすんでのところで受け流す。
金属音が戦場の空気を揺らし、火花が散る。
全登の槍はかわしたものの勝成は体勢を崩しそのまま落馬した。
「ぐっ……!!」
落馬の衝撃で息が詰まり身動きできない勝成。
その勝成を守ろうと駆け寄る兵たち。
今ここで馬を降り、猛将水野勝成と相打つことはできるだろう。
その機があればそうするつもりだった。
それこそが誉れであると、この瞬間まで考えていた。
だが――何かに呼ばれている。
今ここで死ぬ定めにあらず、と。
逡巡は刹那のことだった。
「敵軍は崩れた!! 亀裂を穿ち突破する!!」
表情に覚悟を滲ませた勝成を他所に鬨の声を上げ、全登の部隊はさらに気炎を上げる。
全登を先頭に銃弾の如く敵陣を貫き、やがて戦場から姿を消した。
勝成はその後塵を不思議なものを見るように見送ったのだった。
鉄砲の音も、地を揺らす軍勢の足音も、歓声も悲鳴も遠くなった。
山中へ逃れ、なおも足を止めることなく前へ進む。
間も無く戦は終わり、豊臣の時代も終わる。
その先に待つのは泰平か、あるいは新たな戦乱か。
この死地を生き延びたならばその行く末を見届けよう。
「……霧が深くなってきたな。行春殿」
辺りを見回すが小倉行春の姿はない。それどころか、気づけば兵の姿も消えていた。
「行春殿?」
呼びかけるが返事はない。
奇襲のために用意された部隊であるが故に母衣も旗も付けてはおらず、この霧の中にあってはその姿は掻き消えてしまうだろう。
不意に全ての音が消えた。
風に流れていた霧はぴたりと止まり、まるで時が制止したかのようだった。
――耳鳴り。
それも今まで感じたことのないような凄まじい耳鳴りだ。
まるでこの山が悲鳴をあげているかのようだった。
馬が突然いなないたかと思うと竿立ちし、全登は地面に投げ出された。
したたかに背中を打ち呼吸が止まる。
何かに怯えるように猛烈な速度で逃げ去る愛馬の背中を呆然と見送りながら上体を起こす。
――すぐ目の前に黒い点が浮いていた。
その点を中心に霧が渦を巻き、黒点は徐々に大きさを増す。
「なんだ……これは……?」
鴉よりも濃く、一切の光を返さない黒。
そこだけ世界を塗り忘れたかのような点。
全登は逃げることもせず――できずにただその宙に空いた穴に見入っていた。
「――呼んでいたのはお前か?」
その問いに答えるかの如くさらに穴は大きくなり――全登は悲鳴も上げず呑み込まれた。
霧は晴れ、遠く徳川軍の勝鬨が響く。




