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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

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短編集

怖い朝を、貴女が変えてくれた

作者:
掲載日:2025/12/14

 朝の満員電車は、いつものように息が詰まるほど混んでいた。

ドアが閉まった瞬間、空気が一段重くなる感じがして、胸のあたりがきゅっと縮む。


 私は吊革に掴まり、身体を小さく縮こまらせていた。

指先に冷たい輪の感触が残って、腕だけがやたらと疲れる。

足はちゃんと地面についてるのに、揺れるたびに身体の境界が曖昧になっていく。


 スーツのスカートが少し短いかな、と今朝は後悔していたけれど、もう遅い。

そんなこと、今ここで考えたって意味がないのに、勝手に浮かんできて、勝手に私を責める。

鏡を見て巻き直したストッキングの縁が、妙に頭に残っていた。


 隣のサラリーマンの肘が肩に当たるたび、ぎゅっと目を閉じて耐えるしかない。

痛いってほどじゃない。

でも、ぶつかるたびに「ここにいる」って印を押されるみたいで、気持ちが削れる。

誰も悪くない顔をして、みんな同じ方向を見てる。

スマホの画面、広告の文字、窓に映るぼんやりした影。

そこに私の居場所だけが、すこしずつ押し潰されていく。


 最初は、ただの偶然だと思った。

誰かの手が、私の腰のあたりに軽く触れた。

布の上を一瞬だけ滑ったみたいな、ありふれた接触。

満員電車じゃ、よくある。

そう、よくある。

そうやって自分に言い聞かせれば、胸のざわつきが消える気がした。


 揺れのせいだ、そう自分に言い聞かせた。

一歩ずらそうとしても、足が動かない。

背中も、肩も、前も後ろも人の気配で塞がれていて、逃げ道がない。

息を吸っても吸っても、肺が満たされないみたいで、喉が乾く。


 でも、次の瞬間、その手ははっきりと私のスカートの裾を撫でるように動いた。

偶然じゃない。

布がわずかに引かれる感覚が、はっきりと意図を持って伝わってきて、頭の中がすっと冷える。


ぞくり、と背筋が凍った。痴漢だ。


 気づいた瞬間、身体の芯がすっと冷えた。

心臓が激しく鳴り始める。鼓動が耳の内側を叩いて、周りの音が遠くなる。

電車の走る音も、誰かの咳も、アナウンスも、全部ぼやけて、代わりに自分の呼吸だけがやけにうるさい。


 声を出さなきゃいけない。

頭ではそう叫んでるのに、喉が固い。

舌が張りついて、息が細くなる。

でも、もし叫んだら。


 周りの人は見て見ぬふりをするかもしれない。

目が合っても、すぐ逸らされるかもしれない。

私が変な女だと思われるかもしれない。

混んでるから、ぶつかっただけって顔をされるかもしれない。

会社に遅刻するかもしれない。

駅員さんに説明して、名前を書いて、時間を取られて、上司に連絡して。

そういう面倒な全部が、怖さと一緒に一気に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になる。


 いろんな「かもしれない」がぐるぐる回って、どれも現実みたいに重くのしかかってくる。

結局、唇を噛んで俯いたまま動けなかった。

唇の内側が痛いのに、それでやっと自分がここにいるって確かめられる。

視線の先には、誰かの背中と、スーツの皺と、揺れる吊革。

みんな同じ顔をして、同じ方向を向いて、私だけが取り残されていく感じがした。


 手は次第に大胆になっていく。

布がわずかに引かれる感覚がして、ぞっとする。

身体のどこに力を入れたらいいのかわからない。

押し返したいのに、腕は吊革に縫い付けられたみたいに動かない。

足も、膝も、ただ硬直して、狭い床に根が生えたみたいだ。


 スカートの中に入り込まれる感覚に、胃の奥がきゅっと縮んだ。

ストッキングの上から太ももを這う気配がして、息が震える。

鳥肌が立つのに、汗が背中を伝う。

冷たいのに熱い。

吐き気が込み上げるのに、吐く場所もない。

電車の揺れに合わせて、嫌な感覚だけが増幅されていく。


 涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。

泣いたら終わりな気がした。

泣いたら、もう立っていられなくなる気がした。

まぶたの奥が熱くて、視界がにじんで、でも顔だけは動かせない。


 助けて、誰か。

口の中で何度もそう言うのに、声は外に出ない。

身体が固まって、ただ祈ることしかできない。

早く次の駅に着いて。

早くドアが開いて。

早く、この手が消えて。

願いが小さく小さく縮んで、胸の奥で震えていた。


「……っ」


 喉の奥で、息が引っかかった。

声にならないまま、肺だけが小刻みに震える。

突然、手が離れた。


 触れられていた場所が一気に空っぽになって、逆に痛いくらい意識がそこに集まった。

ストッキング越しに残る気配が消えない。

置き去りにされたみたいな寒気が、皮膚の内側を這った。

次の瞬間、私の背後にいた誰かが、はっきりと低い声で言った。


「手ェ、離せよ」


 短い言葉だったのに、空気が変わった。

満員電車のざわざわした音の中で、その声だけが真っすぐ刺さってくる。

胸の奥で張りつめていた糸が切れて、全身の力が抜けた。


 膝が折れそうになって、吊革を握る指にだけ必死に力を入れる。

息を吸ったら、やっと酸素が入ってきた気がした。

遅れて、涙が目の縁に浮かぶ。


 振り返ると、そこにいたのは背の高い女性だった。

黒のロングコートに、ショートカットの髪。

人の波の中で、その人だけがやけに輪郭がはっきりして見えた。

目が鋭い。

でも怖いんじゃなくて、迷いがない。

私についていた手を掴んでいたのは彼女だった。


 手首を押さえる指が強い。

痛いわけじゃない。

逃がさないっていう意思が、温度みたいに伝わってくる。

痴漢の男は慌てて手を引っ込め、人混みに紛れて逃げていった。


 逃げる背中を追いたい気持ちが一瞬よぎる。

でも、私の身体は追いかけるどころか、立っているだけで精一杯だった。

周りの人たちは、何もなかったみたいに視線を泳がせて、またスマホに戻っていく。

その無関心が、余計に現実味を増やして、胃の奥がきゅっと縮む。


 電車が駅に着き、ドアが開く。

開いた瞬間、外の空気が流れ込んできて、汗ばんだ肌がひやっとした。

アナウンスの声とホームの音が混ざって、耳が痛いくらいに戻ってくる。

彼女は私の手首を掴んだまま、強引に私を降ろした。

押されるように人の流れへ出ると、靴がホームの床を踏んだ。

足元が揺れていないのに、身体の中だけがまだ揺れている。

掴まれた手首だけが、現実につながる取っ手みたいだった。


 ホームに降りた瞬間、膝ががくがくと震えた。

立っているのに、崩れそうで、視界が少しだけ歪む。

息を吐くたびに、胸の奥から遅れて恐怖がこぼれてくる。

助かった、って思った瞬間に、今まで我慢してたものが一気にほどけていった。


「大丈夫?」


 その言葉が、まっすぐ私の胸に落ちてきた。

ホームのざわざわした音の中で、その声だけが近い。

彼女が初めて、まともに私を見た。

目が合った瞬間、胸の奥が熱くなった。

さっきまで、怖いしかなかったのに。

助かったって思っただけで、身体の中の何かが一気に崩れる。


 怖かったはずなのに、涙が溢れて止まらなくなった。

息を吸うたびに喉が震えて、うまく呼吸ができない。

鼻の奥がつんとして、頬が勝手に濡れていく。

泣きたくないのに、止め方がわからない。


「……ごめんなさい、私……何もできなくて……」


 言いながら、自分で自分をもっと小さくしてる気がした。

声にした瞬間、情けなさが形になってしまったみたいで。

でも、黙ってるよりはまだましで、吐き出さないと壊れそうだった。


「謝る必要なんてないよ。あんなやつが悪い」


 はっきり言い切られて、胸の奥が少しだけ軽くなる。

誰かが私の代わりに、ちゃんと怒ってくれた。

それだけで、肩に乗ってた重たいものが、少しずつずれていく。


 彼女はポケットからハンカチを出して、私に差し出した。

白いハンカチに、かすかなタバコの匂いがした。

その匂いが不思議だった。嫌じゃない。

大人の匂いっていうか、現実の匂いっていうか。

私は指先でそれを受け取って、ぎゅっと握った。

布の柔らかさが、冷えた指に染みる。


「名前、聞いてもいい?」


 聞かれた瞬間、言葉が詰まった。

名前を言うだけなのに、今の私はそれすら怖い。

でも、彼女の目は急かしてこない。

ちゃんと待ってくれる。


「……綾です」自分の声が、やけに小さく聞こえた。


「私は明里(あかり)……今日は会社、休んでもいいんじゃない?」


 休む。

その言葉が頭の中で回る。

休んだほうがいいのはわかる。

でも、休んだら、今日が全部私の中で大きくなりすぎる気がした。

家に帰って一人になったら、また身体が固まって動けなくなる気がした。


 私は首を振った。

休んだら、余計に自分が情けなくなる気がした。

明里さんに助けてもらったのに、私は何もできなかった。

その事実だけが残って、今日の自分が嫌いになる。

だから、せめて会社に行って、いつも通りのふりをしたかった。

でも、明里さんは私の手を離さなかった。

掴んでるっていうより、繋いでるみたいな力加減。

逃げなくていいって、言葉じゃなく手で言われてる気がした。

その温度に触れてる間だけ、世界が少し優しい。


「じゃあ、せめてコーヒーでも飲んで落ち着こう。私が奢るから」


 そう言って、彼女は私を駅前の喫茶店に連れて行った。

ドアを開けた瞬間、外の冷たい空気から、店の暖かい空気に包まれる。

焙煎した匂いがふわっと広がって、胸の奥が少しだけ緩んだ。

カウンターの上の照明がやわらかくて、ホームの白い光とは違う色をしてる。


 席に座ると、足の震えが遅れて戻ってきた。

椅子の背もたれに身体を預けても、震えが止まらない。

カップを持つと、手が小さく揺れて、コーヒーの表面が細かく波打った。

震える手でカップを持つ私を、明里さんは黙って見守ってくれた。

話しかけすぎない優しさ。

でも、ちゃんとそばにいてくれる安心感。

視線を外さずに見張るんじゃなくて、必要な時だけ気づいてくれる感じ。

それが、今の私にはありがたすぎた。


 コーヒーの湯気が、目の前でゆっくり揺れる。

あったかいものが喉を通るだけで、身体の中の氷が少しずつ溶けていくみたいだった。

すごく心が落ち着く感じが心の奥に広がっていた。


「……本当に、ありがとうございました」


 言った瞬間、声が自分でも情けないくらい小さかった。

落ち着いたつもりだったのに、胸の奥はまだぐらぐらしてて、言葉の端っこが震える。

ありがとうって言いたいのに、怖かったのも情けなかったのも全部混ざって、うまく形にならない。


「礼なら、もういいって」


 明里さんは苦笑いした。

軽く言ってるみたいなのに、突き放す感じはなくて、むしろ私の中の重たいものだけを外に出してくれるみたいだった。


 明里さんはポケットから煙草を一本取り出した。

指に挟まれた白い紙が、店の灯りで少しだけ光る。

火をつける前の、あの一瞬の間が妙に落ち着いて見えて、私は目を逸らせなかった。


「吸う?」


「いえ……」


 断ったのに、なぜか申し訳なくなる。

私のことで止めさせてるみたいで、喉がきゅっとなる。


「そっか」


 明里さんは煙草を戻した。

その動きが自然すぎて、気を遣わせたっていう感じがしない。

それが余計に、胸に沁みた。


 代わりに、私の髪をそっと撫でた。

指先が触れた瞬間、頭のてっぺんから背中まで、力が抜けていく。

触れられるのが怖いわけじゃない。

怖かったのはさっきで、今のこれは、ちゃんと人の手だってわかるのに。


「怖かったね」


 その一言で、また涙が溢れた。

我慢してたものが、やっと許されたみたいだった。

泣いちゃだめだ、しっかりしなきゃって押さえつけてたのに、その言葉は優しすぎて、全部ほどける。


 明里さんは何も言わず、私の隣に座り直して、背中を優しく抱きしめてくれた。

背中に手のひらが当たるだけで、呼吸が少しずつ戻ってくる。

コートの布越しに伝わる体温が、震えを少しずつ溶かしていく。

熱いのに痛くない。

ただ、安心だけがゆっくり広がっていった。


 それから、毎日。

私は毎朝、同じ車両に乗るようになった。

最初は偶然を装って。

時間を合わせたことを、自分でも認めないふりをして。

でも、改札を抜けるタイミングも、階段の上り方も、立つ位置も、気づいたら全部、同じ形になっていた。


 すぐにそれが待ち合わせだと気づいた。

明里さんが来るまでの数分が、怖くて、落ち着かなくて。

来てくれた瞬間だけ、世界がちゃんと戻る。


 明里さんはいつも、私が乗る少し前の駅から乗って、必ず私の隣に立ってくれる。

何も言わなくても、私と人の間に、自然に身体を入れてくれる。

押し合う波の中で、そこだけが小さな壁みたいになって、私はようやく息ができる。


「今日もおはよう、綾」


 その声を聞くたび、胸が少しだけ軽くなる。


「おはよう……明里さん」


 

 ある日の帰り道。

駅の外の空気が冷たくて、吐いた息が白く揺れた。

人の流れが昼よりゆっくりで、その分だけ隣を歩く明里さんの気配がはっきりわかる。

明里さんが私の手を握って言った。


「さんは要らないよ」


 手のひらの熱がじんわり伝わってきて、指先が少しだけ痺れる。

言われた瞬間、胸の奥が跳ねて、顔が勝手に熱くなった。


「……明里」


 名前を呼んだ瞬間、心臓が変な音を立てた。

口に出しただけなのに、世界が少しだけ近くなる。

呼べたことが嬉しいのに、照れくさくて目を合わせられない。


 明里さんは笑って、私の指にそっとキスをした。

一瞬だけ、柔らかい温度が触れて、すぐ離れる。

その短さが、逆にずるい。

指先から胸の奥まで、熱が走って、私はただ固まったまま息を呑んだ。


「綾は可愛いね」その日から、私たちは付き合い始めた。


 あの日の朝、電車で痴漢に遭ったことが、まるで夢のように遠く感じる。

私はただ、怖くて、身動きもできず、涙をこらえることしかできなかった。

でも、明里はそんな私を、全部抱きしめてくれた。


「綾は強いよ」その言葉が胸に響いた。


 その腕の中で、私はやっと、深く溜め込んでいた涙を流すことができた。

明里が言ってくれる通り、強くなりたいって、ずっと思った。

でも、それが本当にできるのか不安だった。

明里がそばにいてくれるから、私は少しずつ、強くなれる気がする。


 今では、毎朝、明里と一緒に電車に乗るのが楽しみで仕方ない。

あの怖かった満員電車も、明里が隣にいてくれるだけで、心が落ち着く。

満員電車の中で肩がぶつかり合うけど、私はもう何も怖くない。

だって、私の手を握ってくれているのは、世界で一番頼もしくて、優しくて、ちょっと意地悪な明里だから。

その温かい手のひらが、私の心にしっかりと響く。


私は、心の底から恋をした人だから。

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綾の長編シリーズ!
【2部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~
短編集で気に入ってくれたら、こっちの本格冒険記でどっぷり浸かってね~!
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