第5話:石床での目覚め
冷たい石の感触が頬に伝わってきた瞬間、ユウトは意識を取り戻した。
「ここは……」
薄く目を開けると、見慣れない天井が視界に入った。木造ではなく、石を組み合わせて作られた無骨な天井。そして鼻をつく悪臭と、どこからか聞こえてくる呻き声。
身体を起こそうとした瞬間、首に重いものが巻かれていることに気づいた。手で触ってみると、それは冷たい鉄の首輪だった。
「首輪……?」
混乱しながら辺りを見回すと、ユウトは自分が鉄格子に囲まれた狭い牢の中にいることを理解した。そして、同じような牢が無数に並んでいる。
「ここは……奴隷市場か……」
前世の記憶が蘇る。神との会話、転生の約束、そして「奴隷として生まれ変わる」という条件。
「本当に……本当に転生したのか……」
自分の手を見つめる。前世と同じような17歳頃の手だが、よく見ると少し違う。指が少し長く、前世より器用そうに見える。
立ち上がろうとすると、身体のバランス感覚も微妙に異なっていた。身長は前世とほぼ同じだが、筋肉のつき方が少し違う。より均整の取れた体型になっているようだった。
牢の鉄格子に手をかけて外を見ると、様々な種族の人々が同じように檻に閉じ込められているのが見えた。
隣の牢には、耳の尖ったエルフの女性が座り込んでいる。美しい顔立ちだが、疲労と絶望で生気を失っている。
向かいの牢には、犬のような耳を持つ獣人の男性が鎖に繋がれている。筋骨隆々とした体格だが、首輪の重みで肩を落としている。
さらに奥には、まだ子供のような小さな獣人たちもいた。猫の耳を持つ少女、兎の耳を持つ少年……みんな怯えた表情で隅の方に身を寄せ合っている。
「これが……この世界の現実か……」
前世の記憶では知識として知っていた奴隷制度だが、実際に目の当たりにすると想像以上に残酷だった。
そのとき、太い声が響いてきた。
「おい、新入り! 起きたか!」
声の方向を見ると、巨大な腹を突き出した中年の男が近づいてきた。薄汚れた服を着ているが、その腰には立派な剣が下がっている。明らかに奴隷商だった。
「俺はゴルド。ここの主人だ」
ゴルドと名乗った奴隷商が、ユウトの牢の前に立った。
「お前、名前は?」
「ユ……ユウトです」
前世の名前をそのまま答える。この世界では珍しい名前かもしれないが、他に思いつかなかった。
「ユウト? 変わった名前だな」
ゴルドが眉をひそめる。
「まあいい。お前は昨日、借金のカタに連れてこられた」
「借金?」
ユウトには全く身に覚えがなかった。
「お前の両親が作った借金だ。返済不能になったから、お前を奴隷として売り飛ばしたのさ」
それは転生時に神が用意した設定らしい。ユウトには前世の記憶しかなく、この身体の本来の記憶はない。
「両親は……」
「知らん。夜逃げしたんだろう。お前だけが残された」
ゴルドの説明は冷たく事務的だった。
「で、お前は明日の市場で売りに出される。買い手がつけばいいがな」
ゴルドがユウトを品定めするような目で見回した。
「見た目は悪くないが……筋肉がないな。力仕事には向かないだろう」
確かに、ユウトの体型は前世と同じく華奢で、肉体労働には不向きに見える。
「頭脳労働用か? それとも……」
ゴルドの視線が意味深になった。奴隷には様々な用途があり、中には言葉にしたくないものもある。
「とりあえず、今日は大人しくしてろ。騒ぐと痛い目に遭うぞ」
そう言い残すと、ゴルドは他の牢の点検に向かった。
一人になったユウトは、改めて自分の状況を整理した。
「異世界転生……本当にファンタジー小説みたいなことが起こった」
だが、小説とは違って、ユウトは最初から奴隷という最底辺の立場だった。
「田中たちは今頃……」
前世でユウトをいじめていた四人は、この世界でも恵まれた立場にいるはずだ。公爵家の養子、商会の幹部候補、情報商の見習い、魔法学院の特待生……。
「くそ……」
歯ぎしりしそうになったが、周囲に他の奴隷たちがいることを思い出して我慢した。
そのとき、隣の牢のエルフ女性が小さく声をかけてきた。
「あなた……大丈夫?」
振り返ると、彼女は心配そうな表情でユウトを見つめていた。
「え……ああ、大丈夫です」
「初めて? 奴隷市場に来るの」
「はい……」
ユウトの答えに、エルフ女性は同情的な表情を浮かべた。
「私はリーア。エルフの森の出身よ」
「ユウトです。人間です」
「ユウト……変わった名前ね。でも、覚えやすい」
リーアの優しい笑顔に、ユウトは少し心が軽くなった。
「リーアさん……どうしてここに?」
「森が魔物に襲われて……家族はみんな……」
リーアの表情が暗くなった。
「生き残った私たちは、難民として街に逃げたんだけど……お金がなくて……」
よくある話らしい。戦争や災害で家を失った人々が、生きるために自分を奴隷として売るケースは珍しくないのだ。
「でも、まだ希望はあるわ」
リーアが前向きな声を出した。
「よい主人に買われれば、それなりの生活はできる。奴隷でも、扱いは主人次第よ」
それはこの世界の現実だった。奴隷制度が法的に認められている以上、奴隷たちにできることは良い主人に巡り会うことを祈るだけだった。
「ユウトはなにか特技があるの?」
リーアの質問に、ユウトは考え込んだ。前世では特に取り柄のない平凡な学生だった。
だが、神から与えられた能力がある。
「《もふもふ治癒》……」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
まだ能力の詳細は分からない。軽々しく口にするべきではないだろう。
そのとき、向かいの牢から低いうなり声が聞こえてきた。犬の獣人が苦しそうに身をよじっている。
「あの人、怪我をしてるの」
リーアが心配そうに見つめる。
「でも、ここでは治療なんてしてくれない。売り物として最低限の世話をするだけ」
獣人の男性は、右足に深い傷を負っているようだった。血は止まっているが、化膿し始めているらしく、時々うめき声を上げる。
「可哀想に……」
ユウトは立ち上がった。
「なにをするつもり?」
「少し……様子を見てみます」
ユウトは牢の鉄格子に手をかけて、できるだけ向かいの牢に近づいた。
「すみません……大丈夫ですか?」
獣人の男性が、苦痛に歪んだ顔をユウトに向けた。犬の耳がぐったりと垂れている。
「だ、大丈夫だ……心配いらない……」
か細い声で答える獣人。だが、明らかに限界が近そうだった。
ユウトは神から聞いた能力の説明を思い出した。
『毛のある生物との接触により、相互に生命力や精神力を回復する能力です』
この獣人は犬の特徴を持っている。つまり「毛のある生物」に該当するはずだ。
「手を……手を伸ばしてもらえますか?」
「え?」
獣人は困惑したが、ユウトの真剣な表情に押されて手を差し出した。
鉄格子越しに、二人の手が触れ合った瞬間——
温かい光がユウトの手から発せられた。
「な、なんだこれは……!」
獣人が驚愕の声を上げる。同時に、ユウト自身も不思議な感覚に包まれた。
自分の生命力が相手に流れ込むと同時に、相手からも何かが流れ込んでくる。それは生命力だけでなく、安らぎや温もりのような精神的なエネルギーだった。
光が消えたとき、獣人の傷が明らかに良くなっていた。完全に治ったわけではないが、化膿は止まり、痛みも和らいだようだった。
「すげえ……本当に楽になった……」
獣人が感動で涙を流している。
「お前……治癒師か?」
「いえ……よくわからないんです……」
ユウト自身も困惑していた。《もふもふ治癒》は確かに発動したが、予想以上の効果だった。
「ありがとう……本当にありがとう……」
獣人が深く頭を下げる。そのとき、周囲の他の奴隷たちも注目していることに気づいた。
「今の……魔法?」
「治癒魔法を使える奴隷なんて珍しい」
「でも、魔法使いなら奴隷になんてならないはず……」
ざわめきが広がる中、ゴルドが慌てて駆けつけてきた。
「何事だ! 騒がしいぞ!」
「あの……犬の獣人の傷が治ったんです」
リーアが説明すると、ゴルドは目を丸くした。
「なに?」
ゴルドが獣人の足を確認すると、確かに傷の状態が改善している。
「お前がやったのか?」
ゴルドがユウトを見詰める。
「はい……でも、よくわからなくて……」
「治癒魔法が使えるのか?」
「魔法かどうかも……」
ユウトは曖昧に答えた。能力の詳細を知られるのは危険かもしれない。
ゴルドはしばらく考え込んだ後、にやりと笑った。
「面白い。治癒能力を持つ奴隷なら、高値で売れるかもしれんな」
ユウトの心臓が嫌な予感で高鳴った。
「明日の市場が楽しみになってきた」
ゴルドがそう呟いて立ち去ると、周囲の奴隷たちがユウトを見る目が変わった。
「すごいね……」
リーアが感心したような声を出す。
「でも……目立ちすぎるのはよくないかも」
彼女の心配そうな表情に、ユウトも不安を覚えた。
治癒能力を持つ奴隷として高値で売られるということは、それだけ過酷な労働を強いられる可能性が高いということだ。
「この力……どう使うべきなんだろう……」
《もふもふ治癒》の可能性は分かった。だが、それをどう活用して這い上がっていくかは、まだ見えていない。
夜になると、奴隷市場は静寂に包まれた。ガードたちの見回りの足音だけが、規則的に響いている。
ユウトは石の床に横になりながら、今日のことを整理していた。
「異世界転生……本当に起こった」
前世の記憶と現在の状況を照らし合わせる。
「田中たちは今頃、恵まれた生活を送ってるんだろうな……」
復讐への炎が再び燃え上がる。
「だが、俺には《もふもふ治癒》がある」
今日の体験で、この能力の可能性を実感した。単純な治癒以上の、もっと深い力があるかもしれない。
「まずは……明日の奴隷市場を乗り切らないと」
どんな主人に買われるかで、今後の人生が決まる。できれば、能力を伸ばせる環境に身を置きたい。
「そして……いつか必ず……」
復讐への決意を新たにしながら、ユウトは眠りについた。
隣の牢からは、リーアの寝息が聞こえてくる。向かいからは、傷が癒えた獣人の安らかな寝息も。
今日、初めて誰かの役に立った。前世では一度も体験したことのない感覚だった。
「これが……《もふもふ治癒》の本当の力なのか……」
神の言葉を思い出す。『新しい出会いを大切にしなさい』
まだその意味は完全には理解できないが、今日のような出会いが自分を変えていくのかもしれない。
だが、復讐への想いは変わらない。田中、鈴木、山田、高橋……必ず見返してやる。
「明日から……本当の戦いが始まる」
そう呟いて、ユウトは深い眠りに落ちていった。
奴隷として転生した少年の、新たな人生が動き始めていた。