第3話:追い詰められた魂
三日目の朝、ユウトは割れたスマホの画面を見つめていた。昨夜投稿された屈辱的な写真は、既に学校中に拡散されているだろう。今日学校に行けば、クラス全体から「ゴキブリ」と呼ばれることになる。
「行きたくない……」
布団の中で丸くなりながら、ユウトは呟いた。だが、学校を休めば両親に心配をかけてしまう。そして明日はもっと酷いことになるだろう。
重い足取りで学校に向かうユウト。途中で何度も引き返したい衝動に駆られたが、どうにか校門までたどり着いた。
校門をくぐった瞬間、周囲の視線が集中した。
「あ、ゴキブリだ」
一年生の女子が指を指して笑った。
「本当にゴキブリって呼ばれてるんだ」
「キモい.……」
廊下を歩くたびに、陰口とくすくす笑いが聞こえてくる。昨日の写真は既に学年全体、いや学校全体に広まっているようだった。
教室に入ると、最悪の光景が待っていた。
ユウトの机は、本物のゴキブリの死骸で覆い尽くされていた。数十匹の黒い虫が机の上に散乱し、その周りには殺虫剤の空き缶が置かれている。
「うわあああああ!」
近くにいた女子生徒が悲鳴を上げて逃げていく。他の生徒たちも「汚い」「気持ち悪い」と口々に言いながら、ユウトの机から距離を取った。
「おはよう、ゴキブリ君」
田中が満面の笑みで近づいてきた。
「プレゼント、気に入った? 一晩かけて集めたんだぜ」
佐藤と山田も、得意げな表情でユウトを見つめている。
「この……これを片付けろって言うのか……」
震え声で問いかけるユウトに、田中が頷いた。
「当たり前だろ? お前の机なんだから、お前が片付けるのが筋ってもんだ」
ユウトは手が震えた。素手で死骸を片付けるなんて考えただけで吐き気がする。
「早くしろよ。授業が始まっちゃうぞ」
山田が急かすような声をかけた。
仕方なくユウトは、震える手でゴキブリの死骸を集め始めた。一匹触るたびに全身に鳥肌が立つ。周囲からは「うわー」「マジで触ってる」という声が聞こえてくる。
「写真撮っとこう」
誰かがその様子を撮影している音が聞こえた。また新しい屈辱の記録が作られる。
一時間目の授業が始まっても、ユウトの地獄は続いた。殺虫剤の匂いが制服に染みついて、気分が悪くなってくる。
「佐藤君、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」
英語のジョンソン先生が心配そうに声をかけてきたが、理由を説明することはできない。
「大丈夫……です……」
か細い声で答えるのが精一杯だった。
二時間目の数学の時間、ユウトは突然立ち上がって教室から飛び出した。我慢の限界だった。
トイレで吐いた後、ユウトは個室に座り込んだ。もう教室に戻る気力がない。
「ここにいたか」
扉の向こうから田中の声が聞こえた。
「授業をサボるなんてよくないぞ」
佐藤の声も続く。
「早く戻れよ、ゴキブリ」
山田の嘲笑が響く。
ユウトは無言でトイレの個室に閉じこもり続けた。彼らの声が遠ざかるまで、じっと息を殺していた。
昼休みになると、ユウトは屋上に向かった。昨日は施錠されていたが、今日は運良く開いている。
屋上の隅で一人で弁当を食べていると、突然扉が開いた。田中たちではない。見知らぬ三年生の男子生徒が三人、現れた。
「おい、お前がゴキブリか?」
リーダー格らしい生徒がユウトに近づいてきた。
「噂になってるぞ。学校の恥だな」
田中たちから依頼されたのか、それとも面白半分なのか。ユウトを取り囲む三人の三年生。
「先輩たちに挨拶しろよ」
「すみません……」
ユウトが頭を下げると、リーダーが足でユウトの弁当を蹴飛ばした。おかずが屋上の床に散乱する。
「お前のせいで学校の評判が悪くなる」
別の三年生がユウトの頭を小突いた。
「消えろよ、ゴキブリ」
三番目の三年生が唾を吐きかけた。
三年生たちが去った後、ユウトは散らばった弁当を見つめていた。母親が作ってくれた玉子焼きが、コンクリートの上で無残に崩れている。
「お母さん……ごめん……」
涙がポロポロと落ちた。
午後の授業も地獄の連続だった。理科の実験では、わざと薬品をかけられて制服が変色。体育では、みんなの前でボールをぶつけられ続けた。
そして放課後。ユウトは昇降口で外靴に履き替えていた。今日こそは真っ直ぐ帰ろうと決めていた。
だが、甘かった。
昇降口を出ると、校門の前に田中たちが待ち構えていた。今度は取り巻きだけでなく、他のクラスの生徒も混じっている。総勢10名以上の大集団だった。
「よお、ゴキブリ。今日は特別な日だ」
田中の手には、小さなナイフが握られていた。
「ちょっと本格的に遊ぼうかと思ってさ」
ユウトの血の気が引いた。今までとは明らかに次元が違う。
「や、やめてくれ……」
「嫌だね。お前のおかげで俺まで先生に呼び出しくらったんだ」
田中の表情が歪んだ。
「『いじめはよくない』だってさ。笑えるよな」
どうやら、ついに教師の一人がいじめの存在に気づいたらしい。だが、それが田中をさらに怒らせる結果となった。
「だから今日は、本当にお前を黙らせてやる」
ナイフの刃が夕日に光った。
ユウトは踵を返して走り出した。必死に、必死に走った。後ろから足音と笑い声が追いかけてくる。
「逃げんなよ〜」
「どこまで逃げられるかな?」
校門を出て、商店街を抜け、住宅地へ入る。だが、田中たちは執拗に追いかけてきた。
「もう限界だ……」
息が切れて足がもつれる。角を曲がったところで、ユウトは路地に追い詰められた。行き止まりの狭い路地。逃げ場はない。
「やっと捕まえた」
田中が息を切らしながら現れた。取り巻きたちも続々と集まってくる。
「今度こそ逃がさないぞ」
ナイフを構える田中。その刃先がユウトの喉元に向けられる。
「お、お願いします……もう許してください……」
必死に懇願するユウトだったが、田中の目は完全に狂気に支配されていた。
「許すって? 今更なにを言ってるんだ」
「お前のせいで俺たちが悪者扱いされてるんだぞ」
佐藤が拳を握りしめる。
「だったら、お前が消えればいいじゃないか」
山田が残酷な提案をした。
「そうだ。お前さえいなくなれば、すべて解決する」
田中がナイフを振り上げた。
そのとき、路地の奥で小さな鳴き声が聞こえた。
「みゃあ……みゃあ……」
段ボールの陰で、小さな子猫が震えていた。生まれたばかりのような、まだ目も開いていない子猫。雨に濡れて、今にも死にそうな状態だった。
ユウトの心に、最後の優しさが芽生えた。
「待って……」
田中たちを制止して、ユウトは子猫に近づいた。
「この子を……この子だけは助けさせて……」
震える手で子猫を拾い上げる。体温がほとんどない。もう長くは持たないだろう。
「なにやってんだよ」
田中が苛立った声を上げた。
「猫なんてどうでもいいだろ」
「でも……この子はなにも悪いことしてない……」
ユウトは子猫を胸に抱いた。
「せめてこの子だけは……幸せになってほしい……」
そのとき、子猫が小さく鳴いた。まるでユウトに「ありがとう」と言っているように聞こえた。
「もういい、うざったい」
田中がナイフを振り下ろそうとした瞬間、ユウトは子猫を抱いたまま路地から飛び出した。
後ろから怒声が響く。
「待て! 逃がすな!」
ユウトは子猫を抱きしめながら走り続けた。小さな命だけは守らなければ。そんな想いが、最後の力を振り絞らせる。
大通りに出たとき、ユウトは後ろを振り返った。田中たちはまだ追いかけてくる。ナイフを持った田中が、狂気の表情で走ってくる。
「もうダメだ……」
諦めかけたそのとき、ユウトは横から猛スピードで近づいてくるトラックに気づいた。
時が止まったような感覚の中で、ユウトはいくつかのことを同時に考えた。
このまま田中たちに捕まれば、本当に殺されるかもしれない。でも、この子猫だけは助けたい。誰かに拾ってもらって、幸せに生きてほしい。
そして、何より強く思ったのは……
「次の人生では……絶対に……見返してやる……!」
激しい怒りと執念が、ユウトの心を支配した。田中たちに対する復讐への渇望。虐げられた日々への怒り。誰からも助けてもらえなかった絶望。
それらすべてが、一つの強烈な想いに収束した。
「絶対に……絶対に許さない……!」
その瞬間、トラックがユウトを直撃した。
子猫は事故の直前にユウトの手から離れ、道路脇の安全な場所に転がっていった。まるでユウトが最後の力で放り投げたかのように。
意識を失う寸前、ユウトは田中たちの驚愕の表情を見た。まさか本当に死ぬとは思っていなかった彼らの、青ざめた顔。
「今度は……今度こそ……俺が上に立つ……」
そんな想いを胸に、ユウトの意識は暗闇の中に沈んでいった。
事故現場は騒然とした。救急車のサイレンが響き、野次馬が集まってくる。田中たちは震え上がって、その場から逃げ出した。
誰も、道路脇で小さく鳴いている子猫には気づかなかった。
ユウトが最後に守ろうとした小さな命は、夜が更けるまでその場で主人を待ち続けた。
「みゃあ……みゃあ……」
その鳴き声は、まるでユウトへの感謝の言葉のように聞こえた。
翌日の朝刊には、「高校生、交通事故で死亡」という小さな記事が載った。いじめが原因だったのか、単なる不注意だったのか、真相は闇の中に葬られた。
田中たちは口を揃えて「なにも知らない」と言い張った。大人たちも、面倒な問題には関わりたがらなかった。
ユウトの両親は、息子の死の真相を知ることはなかった。ただ、「不注意な事故だった」という警察の発表を受け入れるしかなかった。
学校では一週間ほど話題になったが、すぐに忘れ去られた。ユウトという少年が存在していたことも、彼が受けていた苦痛も、すべてが無かったことになった。
だが、ユウトの魂に刻まれた想いだけは消えなかった。
激しい復讐への渇望。絶対に見返してやるという執念。力を手に入れて、虐げる者たちを見下してやるという強烈な願望。
それらの想いを抱いたまま、ユウトの魂は新たな世界へと旅立っていく。
今度こそ、絶対に負けない人生を歩むために。
今度こそ、誰からも馬鹿にされない力を手に入れるために。
そして、自分を虐げた者たちに、必ず報いを受けさせるために……。
ユウトの転生の物語は、こうして始まった。
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事故現場から数日後、一匹の子猫が動物愛護センターに保護された。職員によると、交通量の多い道路脇で、じっと誰かを待っているような様子だったという。
その子猫は、里親に引き取られて幸せに暮らしているという。
まるで、最後にユウトが願った通りに。