第2話:絶望の深淵
翌朝、ユウトは目覚まし時計の音で目を覚ました。時刻は午前六時。いつもより三十分早い時間だった。
昨夜はほとんど眠れなかった。田中たちの笑い声が頭から離れず、明日への恐怖が胸を締め付けていた。鏡を見ると、目の下にくっきりとクマができている。
「また今日も……」
重い気持ちで制服に着替えながら、ユウトは昨日のことを思い出していた。散らばった弁当、腹部への暴力、便器に投げ込まれた制服……。今日はどんな仕打ちが待っているのだろうか。
早めに家を出たのは、少しでも田中たちと出会う時間を遅らせたかったからだった。だが、結局は同じ教室で顔を合わせることになる。逃げ場はどこにもない。
学校に到着すると、予想通り机にはまた新しい落書きが増えていた。昨日の「死ね」「キモイ」に加えて、今度は「ゴキブリ」「ウジ虫」という文字が踊っている。
ユウトは無言で消しゴムを取り出した。だが、今日の落書きは昨日より深く刻まれており、消しゴムでは全く消えない。カッターで削り取ったような跡もある。
「おはよう、ゴキブリ君」
後ろから田中の声が聞こえた。振り返ると、いつものように薄ら笑いを浮かべて立っている。
「新しい名前、気に入った? 俺が考えたんだ」
田中が指差した机の「ゴキブリ」という文字を見て、ユウトの胸が締め付けられた。
「返事しろよ。友達が話しかけてるのに」
鈴木がユウトの肩を叩く。昨日よりも強い力で。
「……おはよう」
小さく答えると、田中たちは満足そうに笑った。
「素直でよろしい。やっぱり躾が大切だな」
山田が嘲笑混じりに言う。その言葉に、周囲のクラスメイトたちもくすくすと笑い声を上げた。
一時間目の体育の授業。更衣室でユウトが着替えていると、突然後ろから押し倒された。
「おっと、すまん。足が滑った」
田中の取り巻きの一人が、わざとらしく謝る。ユウトは床に倒れ、膝を強打した。
「大丈夫か?」
心配そうな声をかけてきたのは、同じクラスの伊藤だった。だが、田中の視線を感じると、すぐに離れていってしまう。
体育の授業が始まると、さらなる屈辱が待っていた。バレーボールの練習で、ユウトにボールをパスする者は誰もいない。たまにボールが回ってきても、わざと取りにくいところに投げられる。
「佐藤、もっと頑張れよ」
体育教師の田所先生が檄を飛ばすが、状況を理解している様子はない。
最悪だったのは、試合形式の練習の時だった。ユウトのチームは露骨に彼を無視し、六人制なのに実質五人で試合を進めた。相手チームからは意図的に狙い撃ちされ、ユウトめがけて強烈なスパイクが打ち込まれる。
「痛っ.……」
顔面にボールを受けたユウトが倒れ込むと、体育館に笑い声が響いた。
「佐藤、情けないぞ。もっとしっかりしろ」
田所先生は笑い声には気づかないふりをして、ユウトだけを叱責した。
授業後、更衣室で着替えているとき、ユウトは鏡に映った自分の顔を見つめた。頬が赤く腫れ、鼻の下に少し血が滲んでいる。
「みっともない……」
自分の情けない姿に、深いため息がこぼれた。
二時間目の現代文の授業で、事態はさらに悪化した。
「それでは、昨日出した作文の課題を発表してもらいましょう。佐藤君、前に出て読んでください」
田村先生に指名され、ユウトは震える足で教壇に向かった。テーマは「私の将来の夢」。ユウトは「人の役に立つ仕事がしたい」という内容で書いていた。
だが、原稿用紙を開いた瞬間、ユウトは愕然とした。自分が書いた文章が、全く違う内容に書き換えられているのだ。
「僕の夢は、みんなに嫌われることです。なぜなら僕はゴキブリだからです。ゴキブリは汚くて臭いので、みんなに嫌われて当然です。僕は生きている価値がないので、早く死にたいです……」
クラス中が静まり返った。そして次の瞬間、爆笑の渦に包まれた。
「なんですか、これは?」
田村先生が眉をひそめる。
「これが君の書いた作文ですか?」
「い、いえ……違います……」
「では、なぜこんなものを持ってきたのですか?」
ユウトには答えようがなかった。昨夜、机の引き出しから盗まれて書き換えられたに違いない。だが、それを説明してもどうせ信じてもらえない。
「不真面目な態度ですね。放課後、指導室に来なさい」
「で、でも……」
「座りなさい」
有無を言わさぬ口調で一喝され、ユウトは肩を落として席に戻った。教室中の視線が痛いほど突き刺さってくる。
休み時間になると、クラス中がその話題で持ちきりになった。
「佐藤って、本当にあんなこと考えてるのかな?」
「気持ち悪い……」
「やっぱり普通じゃないよ」
陰口が聞こえてくるたびに、ユウトの心は深く傷ついた。
昼休みになっても、ユウトには居場所がなかった。昨日のように階段の踊り場に行こうとすると、既に田中たちが待ち構えていた。
「よお、ゴキブリ。今日の作文、最高だったぜ」
田中が嘲笑を浮かべながら近づいてくる。
「『僕はゴキブリです』って、まさか本当にそう思ってたのか?」
佐藤が腹を抱えて笑う。
「いや、違くて……」
「なにが違うって?」
山田がユウトの胸ぐらを掴んだ。
「お前、まさか俺たちが書き換えたとでも言うつもりか?」
「そ、そんなこと……」
「証拠でもあるのか?」
問い詰められて、ユウトは何も答えられなかった。証拠などあるはずがない。彼らは用意周到で、絶対に尻尾を掴ませないのだ。
「やっぱりお前の本音だったんじゃん」
田中が勝ち誇ったように笑う。
「なら、その通りにしてやろうか」
そう言うと、田中はポケットから何かを取り出した。それは黒い虫のおもちゃだった。
「ゴキブリにはゴキブリがお似合いだ」
田中がユウトの制服の襟元におもちゃのゴキブリを押し付ける。ユウトは必死に取り除こうとするが、取り巻きたちに羽交い絞めにされて動けない。
「やめて……」
「やめて、じゃないだろ。『ありがとうございます』だろ?」
鈴木がユウトの頭を殴った。
「ほら、言えよ」
「あ……ありがとう……ございます……」
屈辱に震えながら、ユウトは言わされた。その瞬間を、山田がスマホで撮影していた。
「いい写真が撮れた。これ、クラスのグループLINEに送ろうかな」
「やめて! お願いします!」
初めて大きな声を出したユウトに、田中たちは驚いた表情を見せた。
「おお、やっと感情を見せたじゃないか」
「面白くなってきた」
田中の目が、残酷に輝いた。
「今度は、もっと面白いことをしてやろう」
そう言うと、田中はユウトのズボンのベルトに手をかけた。
「やめろ……やめてくれ……」
ユウトは必死に抵抗したが、四人相手では無力だった。ベルトを外され、ズボンを下ろされそうになる。
そのとき、階段の上から足音が聞こえてきた。
「だれか来る」
鈴木が警戒の声を上げる。
「チッ、タイミング悪いな」
田中が舌打ちをして、ユウトを解放した。
「続きは放課後だ。覚えてろよ」
そう言い残すと、田中たちは階段を下りていった。
現れたのは、二年生の女子生徒だった。彼女はユウトの姿を一瞥すると、何も言わずに通り過ぎていった。助けてくれるのではないかという淡い期待は、見事に裏切られた。
午後の授業も地獄の連続だった。
三時間目の化学では、実験中にわざと試薬をこぼされ、ユウトの制服に薬品臭がついてしまった。
「佐藤君、なにをやっているんですか」
山本先生に叱られ、一人で後片付けをする羽目になった。本当の犯人である田中の取り巻きは、何食わぬ顔で実験を続けている。
四時間目の日本史では、教科書のページがすべて破り取られていることが発覚した。
「またですか、佐藤君。忘れ物が多すぎます」
歴史の山本先生は完全に呆れた様子で、ユウトを見つめた。
「明日は忘れずに持ってきなさい」
だが、明日になればまた新しい嫌がらせが待っているだろう。教科書を買い直しても、同じことの繰り返しだ。
放課後、ユウトは指導室に向かった。田村先生が待っている。
「佐藤君、今朝の作文の件ですが」
「すみませんでした……」
ユウトは頭を下げた。真実を説明しても無駄だということが分かっている。
「君は最近、どうしたのですか? 忘れ物は多いし、授業態度も良くない」
田村先生の言葉は、まるで全てがユウト自身の責任であるかのような口調だった。
「家庭になにか問題でもあるのですか?」
「いえ……」
問題があるのは学校だ。だが、それを言うことはできない。
「もしなにかあるなら、遠慮なく相談してください」
表面的な優しさを示す田村先生だが、本当に助けてくれるとは思えない。今まで散々いじめの現場を見ているはずなのに、一度も助けてくれたことがないのだから。
指導を受けた後、ユウトは一人で校舎を歩いていた。既に夕方で、ほとんどの生徒は帰宅している。校舎は静寂に包まれ、自分の足音だけが響いていた。
昇降口に向かう途中、ユウトは保健室の前を通りかかった。中から、養護教諭の声が聞こえてくる。
「……佐藤君のこと、どう思います?」
自分の名前が出たことに驚いて、ユウトは足を止めた。
「あの子、最近様子がおかしいですよね」
別の先生の声が続く。
「忘れ物は多いし、怪我も増えてる。家庭環境に問題があるんじゃないでしょうか」
「でも、本人は何も言わないし……」
「思春期の男の子は難しいですからね」
彼女たちは、いじめの可能性については一言も触れなかった。全てをユウト個人の問題として片付けようとしている。
ユウトは足音を立てないよう、そっとその場を離れた。大人たちの無理解と無関心に、心の奥底から絶望が湧き上がってくる。
昇降口で外靴に履き替えていると、予想通り田中たちが現れた。今度は昼間より多い、七名の集団だった。
「待たせたな、ゴキブリ」
田中が不敵な笑みを浮かべる。
「昼間の続きをしようか」
ユウトは無言で履き替えを続けた。逃げても無駄だということが分かっている。
「おい、無視するなよ」
鈴木がユウトの肩を掴んで振り返らせた。
「今日は特別なプレゼントを用意してるんだ」
山田が手にしているのは、ビデオカメラだった。
「お前の勇姿を記録に残してやる」
ユウトの顔から血の気が引いた。
「や、やめてくれ……」
「嫌だね。これからが本番だ」
田中がユウトの腕を掴み、校舎の裏手に向かって歩き出した。人目につかない場所に連れて行くつもりだ。
校舎の裏は薄暗く、誰も通らない場所だった。夕日が建物の陰になり、不気味な雰囲気が漂っている。
「ここならだれにも邪魔されない」
田中が満足そうに周囲を見回した。
「さあ、昼間の続きだ」
再びユウトのベルトに手をかける田中。今度は止める人は誰もいない。
「お願いします……もうやめてください……」
必死に懇願するユウトを見て、田中たちは楽しそうに笑った。
「泣きそうな顔してる」
「もっと泣けよ」
鈴木がユウトの頬を平手で打った。
「痛い……」
「痛いじゃないだろ。『ありがとうございます』だろ?」
「あ……ありがとう……ございます……」
屈辱的な言葉を言わされるたびに、ユウトの心は深く傷ついていく。
そこに、突然の雨音が響いてきた。昨日と同じように、急に雨が降り始めたのだ。
「また雨かよ。ついてねえな」
田中が空を見上げて舌打ちをした。
「今日はここまでにしてやる。でも明日は覚えてろ」
雨足が強くなり、田中たちは急いでその場を離れた。一人残されたユウトは、冷たい雨に打たれながら立ち尽くしていた。
濡れた制服のまま家路に着くユウト。歩きながら、今日一日のことを振り返った。作文の書き換え、おもちゃのゴキブリ、薬品のいたずら、破られた教科書、そして最後の屈辱……。
「もう限界だ……」
小さく呟いた声は、雨音にかき消された。
家に着くと、やはり両親はいない。いつものメモが冷蔵庫に貼られているだけ。ユウトは濡れた制服を脱いで、熱いシャワーを浴びた。
シャワーの中で、ユウトは声を殺して泣いた。誰にも聞かれる心配のない場所で、ようやく感情を爆発させることができる。
「なんで俺だけ……なんで俺だけなんだ……」
涙と一緒に、これまで溜め込んでいた怒りと絶望が溢れ出した。
シャワーから上がると、スマホに通知が来ていた。クラスのグループLINEだった。恐る恐る開いてみると、今日撮影された自分の写真が投稿されている。ゴキブリのおもちゃを押し付けられ、「ありがとうございます」と言わされている屈辱的な瞬間が記録されていた。
コメント欄には、クラスメイトたちの嘲笑が並んでいる。
「佐藤、マジでキモい」
「ゴキブリって呼ぶの、定着しそう」
「明日からゴキブリ確定だね」
「こんなのと同じクラスとか最悪」
ユウトはスマホを投げ捨てた。画面が割れて、蜘蛛の巣状のひびが入る。
「もう……もうダメだ……」
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。明日の朝が来るのが怖い。また同じ地獄が始まる。いや、今日より酷い仕打ちが待っているに違いない。
「だれか……だれか助けて……」
心の中で叫んだが、誰も答えてくれない。この世界に、ユウトの味方は一人もいないのだ。
深夜になっても眠ることができず、ユウトは天井を見つめ続けた。時々、雨音が窓を叩く音が聞こえてくる。
「いっそのこと……」
そんな考えが頭をよぎったが、ユウトは必死にそれを振り払った。
「まだ……まだ大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるように呟いたが、その声は震えていた。
翌朝になれば、また地獄の一日が始まる。そして、その地獄はいつまで続くのか分からない。
ユウトの長い夜は、まだ終わらなかった。