8 鉄壁の心
天頂から降り注ぐ月光が、ヴァイスブルクの石畳を銀色に染め上げていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った貴族街を、アルは昼間の記憶を頼りに進んでいく。彼の半歩後ろを、リナが音もなく続く。やがて、悪趣味な怪物の石像が睨みつける屋敷の前で、アルは足を止めた。その重厚な鉄門を見上げる。
「……ここだ。間違いない」
アルが、決意を込めて呟く。昼間、金のために魂を売り渡した自分への嫌悪と、囚われた少女への罪悪感が、彼の胸の中で黒い渦を巻いていた。だが、今は感傷に浸っている時ではない。彼の隣には、どんな時も自分を信じ、共に立ってくれる、かけがえのない仲間がいるのだから。
「そう。これが、あなたが話していた商人の館ね」
リナは静かに応じ、その紫の瞳にはアルの覚悟を支えるような、強い意志の光が宿っていた。彼女は屋敷全体に視線を巡らせ、その魔力的な防御と物理的な警備体制を瞬時に分析する。
「正面から行くのは愚策よ。門には魔法的な警報装置が幾重にもかけられているわ。それに、門の内側に見張りが二人いる。おそらく、敷地の角ごとにも監視所があるでしょうね」
「じゃあ、どうするんだい?」
アルが尋ねると、リナは悪戯っぽく口の端を上げた。その表情は、まるで難解なパズルを解く直前の子供のように、好奇心に満ちていた。
「こういう時のために、裏口というものが存在するのよ。そして、裏口というのは、大抵、警備が手薄になるものなの」
リナはそう言うと、アルの手を引いて屋敷の側面へと回り込む。高い塀が、月光を遮って濃い影を落としていた。リナが指し示したのは、屋敷の裏手、使用人用の通用口と思われる小さな木製の扉だった。そこには見張りの姿はない。
「ここから入るわ。扉の閂にかかっているのは、単純な物理錠と、初歩的な侵入者感知の魔術だけ。これなら、私一人で十分よ」
リナは詠唱の言葉を紡ぐことなく、指先だけで複雑な印を結ぶ。彼女の指先から、目には見えないほどの微細な魔力の糸が放ちれ、鍵穴の中へと滑り込んでいく。物理的な錠が、まるで意思を持ったかのように静かに内部構造を組み替え、カチリ、と小さな音を立てて開いた。続いて、扉全体を覆っていた淡い魔力の膜が、霧が晴れるように消えていく。
「……すごいな、リナは。こんな簡単に……」
アルが感嘆の声を漏らすと、リナは「当然よ」とばかりに小さく胸を張った。
「さあ、行くわよ。ここからは、物音一つ立てないこと。いいわね?」
「うん、わかってる」
アルは力強く頷き、リナに続いて音もなく屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
二人は庭を抜け、厨房に隣接する使用人用の入口から建物内部に侵入した。ひやりとした石の床が、二人の足音を吸収する。
「昼間、あの子は玄関ホールから奥へ連れて行かれた。そして、重い鉄の扉が閉まる音が、下の方から聞こえたんだ。だから地下牢は、玄関からそう遠くないはずだ」
アルが、昼間の記憶を頼りに囁く。
「なるほどね。なら、まずは玄関ホールを目指しましょう。使用人用の通路を使えば、見つかる危険も少ないわ」
リナの先導で、二人は薄暗い通路を進む。それは、厨房や物置といった裏方の部屋と、主人が使う豪華な空間とを繋ぐ、人目につかない連絡通路のようだった。やがて、前方に壮麗な玄関ホールへと続く扉が見えてきた。
扉の隙間からホールを窺うと、幸いにも人影はない。二人は音もなくホールを横切り、アルが「こっちの方だ」と指差す、ホールの隅にある目立たない扉へと向かった。その扉を開けると、ひやりとした湿った空気が下から吹き上げてくる。地下へと続く、狭く急な石の階段があった。
アルはごくりと唾を飲み込んだ。この下に、あの少女がいる。
階段を慎重に下りていくと、そこはワインセラーのようだった。壁一面に並んだ棚には、数え切れないほどのワインボトルが眠っている。その奥に、ひときわ頑丈そうな鉄格子のはまった扉があった。地下牢だ。
扉の前には、テーブルと椅子が置かれ、一人の見張りが椅子に座ったまま、こくりこくりと舟を漕いでいた。テーブルの上には、飲みかけの酒瓶と、空になった杯が転がっている。
「……好都合ね」
リナが、そっと杖を構えた。彼女の指先から、淡い紫色の光が放たれる。それは音もなく見張りの男に近づくと、ふわりと彼の全身を包み込んだ。男の体から力が抜け、完全に深い眠りへと落ちていく。
「これで、朝まで起きることはないわ」
リナは、見張りの腰にぶら下がっていた鍵束を、音もなく抜き取った。無数の鍵の中から、地下牢に合いそうな、古びた鉄の鍵を選ぶ。
鍵を差し込み、ゆっくりと回す。ぎ、と錆びた金属が軋む、耳障りな音が響いた。アルの心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
重い鉄の扉が、ゆっくりと開いた。
その先は、短い通路になっており、両脇にいくつかの牢が並んでいた。松明の頼りない光が、湿った石壁を不気味に照らし出している。
「……いたわ」
リナが、通路の最も奥にある牢を指差した。
鉄格子の向こう側。冷たい石の床に、一人の少女が膝を抱えて座っていた。その背中には、あの巨大な塔の盾が、まるで彼女と一体化した呪いのように張り付いている。銀色の髪が、頼りない松明の光を反射して、儚げに揺れていた。
あの時の少女だった。
アルは、鉄格子に駆け寄った。
「大丈夫かい!? 助けに来たよ!」
その声に、少女――セラフィナは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、昼間見た時と同じく、何の感情も映さない、静かな湖面のようだった。彼女はアルの顔を認識すると、ほんの少しだけ眉を寄せ、そして、諦めきったようにか細い声で言った。
「……あなたでしたか。なぜ、このようなことを……。無駄です。私に関わらないでください」
「無駄なんかじゃない! 君は物じゃないんだ! こんな場所にいちゃいけない!」
「無駄なことです」
セラフィナは、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返した。
「私に近づく者は、皆、不幸になる。あなたたちも、例外ではない。だから、もう行ってください。私のことは、忘れてください」
その瞳の奥に広がる、あまりにも深く、暗い絶望。それは、ただ単に囚われていることへの悲しみや、未来への不安から来るものではない。もっと根源的な、彼女の存在そのものを否定するような、救いのない闇。
アルは言葉に詰まった。何を言えば、彼女の心に届くのだろうか。勇者として、どんな言葉をかければ、彼女を救えるのだろうか。
その時、隣にいたリナが、静かに口を開いた。
「あなたの言う『不幸』とは、どういうことかしら。あなたのその力は、人を傷つけるためにあるものなの?」
リナの問いかけに、セラフィナの肩が、ぴくりと震えた。彼女は、リナの方をゆっくりと見た。その瞳に、初めて、ほんのわずかな動揺の色が浮かんだ。
「……あなたには、関係のないこと」
「いいえ、関係あるわ」リナは、鉄格子を隔てて、セラフィナの瞳をまっすぐに見つめた。「その瞳…知っているわ。自分の力が、ただ憎らしくて、呪わしいだけになってしまった者の瞳。…私と、同じだから」
リナの言葉は、断定するような響きを持っていた。それは、セラフィナの心の最も柔らかな部分に、容赦なく突き刺さる。彼女の唇が、わななと震えた。
「あなたに……あなたに、私の何がわかるっていうの……!」
絞り出すような、悲痛な声。その言葉を最後に、セラフィナは再び固く口を閉ざし、その瞳から光が消えた。まるで魂だけが、遠い過去へと旅立ってしまったかのように。アルとリナは、ただ息を飲んで彼女を見守ることしかできなかった。鉄格子の向こう側、少女の小さな背中が、あまりにも重い絶望を背負っていることだけは、痛いほど伝わってきた。
――そして、セラフィナの意識は、忘れることのできない、あの日の光景へと沈んでいく。
◇
――彼女の記憶は、陽光に満ちた、小さな村の風景から始まる。
一人の少女がいた。彼女は、祝福の子だった。
聖女の血を引くと言われる家系に生まれた彼女は、その身に奇跡の力を宿していた。彼女が触れた草花はより一層色鮮やかに咲き誇り、彼女が微笑みかければ、病に伏した者さえも心が安らいだ。その力は、本来「生命力を活性化させ、癒やす」という、純粋な祝福のはずだった。
しかし、その力は、彼女の華奢な身体にはあまりにも過剰だった。癒やしの力は、彼女自身の肉体を常人を遥かに超えるレベルで活性化させ続け、結果として、聖女の癒やしとは程遠い、「怪力」と「異常な自己治癒能力」という、歪んだ形で発現した。
村の人々は、その歪みに気づかなかった。彼らは、重い荷物を軽々と運ぶ彼女を見ては「さすが聖女様の子だ、お力も強い」と褒めそやし、転んで擦り傷を作っても次の日には跡形もなく消えているのを見ては「聖女様の血は、怪我さえもすぐに癒やしてしまうのだな」と感嘆した。
少女自身も、自分の力が少しだけ他の子と違うことに、何の疑問も抱いていなかった。むしろ、その力で誰かの役に立てることが、彼女の喜びだった。
その純粋な善意が、最初の悲劇を引き起こすまでは。
彼女には、幼馴染の少年がいた。いつも一緒に野山を駆け回り、秘密の隠れ家で将来の夢を語り合った、大切な友人。その少年が、ある日、重い病に倒れた。高熱が続き、日に日に衰弱していく。医者も匙を投げ、両親はただ神に祈ることしかできなかった。
そんな時、彼らは最後の望みを託して、少女の元へやってきた。
「セラフィナ様、どうか、どうかあの子を助けてやってください。あなたのその奇跡の力で、あの子を……!」
セラフィナ。それが、彼女の名前だった。
わらにもすがる思いで懇願する両親の姿に、セラフィナは強く頷いた。
「うん、任せて! 私が、絶対に助けてあげる!」
彼女は、病に苦しむ友の手を、両手で強く握りしめた。助けたい。元気になって、また一緒に遊びたい。その一心で、彼女は自分の内にある力のすべてを、少年のその小さな手へと注ぎ込んだ。
その瞬間、力が暴走した。
淡い癒やしの光を想像していたセラフィナの意に反して、彼女の手から放たれたのは、眩いばかりの黄金色の奔流だった。生命力の塊とでも言うべきエネルギーが、少年の体を駆け巡る。一時的に、彼の生命力は爆発的に活性化し、その顔に血の気が戻った。
「ああ……! 奇跡だ!」
両親が歓喜の声を上げた、その時だった。
か弱い少年の体は、そのあまりにも強大なエネルギーの奔流に耐えきれなかった。血管が、筋肉が、神経が、内側から破壊されていく。少年は、声にならない悲鳴を上げ、激しく痙攣した。
結果として、少年は一命を取り留めた。しかし、彼の体には、生涯癒えることのない障害が残った。手足は麻痺し、言葉を話すこともできなくなった。かつて快活だった彼の瞳からは光が消え、ただ虚空を見つめるだけの日々が始まった。
善意と期待が招いた、最悪の結果。
「あの子は聖女なんかじゃない……」
「触れた者さえ壊してしまう、呪われた子だ」
「近寄るな。何をされるかわからないぞ」
村人たちの賞賛は、一夜にして侮蔑と恐怖に変わった。昨日まで笑顔を向けてくれた人々が、今は怯えた目で彼女を遠巻きに見ている。その視線が、無数の針となってセラフィナの心を突き刺した。
これが、彼女の「最初の罪」。純粋な善意で力を使ったことが、取り返しのつかない悲劇を生んでしまった。その事実は、彼女の心に、決して消えることのない深い傷を刻み込んだ。
◇
――記憶の場面が変わる。今度は、静かで、厳かな修道院の風景。
居場所をなくしたセラフィナは、その力を危険視した親族によって、半ば厄介払いされるように、人里離れた修道院に預けられた。彼女はそこで、自分の力を完全に封印することを決意した。
誰にも触れない。誰の目にも留まらない。誰の役にも立とうとしない。
それが、自分のような呪われた人間が、これ以上誰も傷つけずに生きていくための、唯一の方法だと信じて。
彼女は、修道院の誰とも言葉を交わさず、食事の時も一番隅の席で、ただ黙々とパンを口に運んだ。掃除や洗濯といった仕事は、誰よりも熱心に、しかし誰にも気づかれないように行った。まるで、影のように生きることで、自らの存在を世界から消し去ろうとしているかのようだった。
そんな彼女を、修道院のシスターや、同じように身寄りのない孤児たちは、憐れみ、そして優しく見守ってくれた。彼女の過去を知ってもなお、彼らは彼女を化け物扱いせず、ただ静かに、そこにいることを許してくれた。その優しさが、セラフィナにとって唯一の救いだった。
穏やかで、何も起こらない日々。それが永遠に続くかと思われた、ある日のこと。
修道院の扉が、乱暴に蹴破られた。
「神の名の下に、偽りの聖女に裁きを下す!」
そう叫びながら乗り込んできたのは、異端審問官を名乗る、武装した一団だった。「歪んだ力を持つ危険な存在」として、セラフィナの身柄を確保しに来たのだ。
「おやめなさい! この子は、神に仕えるか弱き子羊です!」
年老いた院長シスターが、毅然として彼らの前に立ちはだかった。しかし、審問官たちは嘲笑うと、その非力な体を容赦なく突き飛ばした。シスターたちの悲鳴が、静かだった礼拝堂に響き渡る。
その光景を、セラフィナは柱の影から震えながら見ていた。
(だめ、だめだ。私が出ていったら、また誰かを傷つけてしまう)
恐怖が、彼女の足を縫い止める。しかし、目の前では、自分を家族のように受け入れてくれた人々が、一方的に暴力を受けている。一番年下の、まだ五歳にもならない孤児の少女が、審問官に髪を掴まれ、泣き叫んでいる。
その光景が、彼女の心の奥底にあった、封印していたはずの何かを、激しく揺わぶった。
(――守りたい)
その想いが、恐怖を上回った瞬間、彼女は動いていた。
彼女は、礼拝堂の石壁に装飾として埋め込まれるように、複数の頑丈な鉄製の留め具で固定されていた、聖騎士が使う大盾を模した巨大な装飾品――彼女の背丈ほどもある、本来は儀礼用のただの鉄の塊を、いとも簡単に壁ごと引き剥くした。そして、その盾を構え、シスターたちの前に立ちはだかった。
「……この人たちに、指一本触れさせない」
その人間離れした光景に、審問官たちは一瞬、怯んだ。しかし、彼らはすぐに気を取り直し、下卑た笑みを浮かべた。
「ほう、これが噂の怪力か。面白い。そのけ物じみた力が、我々に通用するか、試してやろう!」
審問官の一人が、剣を抜き、彼女に斬りかかってきた。
セラフィナは、盾でそれを受け止めた。しかし、実戦経験のない彼女は、力の制御が全くできなかった。相手を傷つけたくない、という無意識の躊躇が、彼女の動きを鈍らせる。
それでも、彼女は必死だった。ただ、守りたい一心で、その鉄の盾を振り回した。
そして、第二の悲劇が起こる。
彼女が、向かってくる審問官の一人を盾で突き飛ばした、その時。男は、バランスを崩し、背後にいた存在を巻き込んだ。
それは、先ほど髪を掴まれて泣いていた、一番幼い孤児の少女だった。
少女は、審問官の体と共に、石の壁に激しく叩きつけられた。
ごつり、と鈍い音が響く。
審問官は呻き声を上げて気を失ったが、少女の小さな体はその一度の衝撃に耐えきれなかった。か細い息が漏れ、その瞳から急速に光が失われていく。セラフィナは恐怖に凍りつきながらも、駆け寄り、その小さな体を抱え起こした。
脳裏に、いつも「セラお姉ちゃん」と呼んでくれた、屈託のない笑顔が浮かぶ。小さな手に手を引かれた感触、覚えたての歌を一生懸命に歌ってくれた声。その全てが、もう二度と返ってこない。嗚咽が、喉の奥から絞り出される。
「ごめんね……ごめんなさい……!」
腕の中で、少女の体から力が抜け、ずしりと重くなっていく。まだ残る温もりが、命の温かさではない、ただの熱に変わっていくその感覚が、セラフィナの絶望を決定的なものにした。礼拝堂に、自分の嗚咽だけが虚しく響き渡る。残された審問官たちは、目の前で起きた惨状と、常軌を逸した力を持つセラフィナを前にして、恐怖に顔を引きつらせ、武器を捨てて逃げ出していった。
その瞬間、彼女の世界から、音が消えた。
敵は撃退した。しかし、代償はあまりにも大きすぎた。
「守るために力を使っても、結局、誰かを傷つけ、壊してしまうんだ……」
絶望的な事実が、彼女の魂に、決定的なトラウマとして焼き付いた。
生き残ったシスターや孤児たちが、彼女を見る目が変わっていた。そこにあるのは、感謝や安堵ではない。彼女の人間離れした力を目の当たりにした、純粋な「恐怖」。
もう、この修道院に、彼女の居場所はなかった。
セラフィナは、その夜、誰にも告げず、たった一人で修道院を去った。
◇
――記憶は、終わりを迎える。
行く当てもなく、ただ人のいる方角へと歩き続けた。彼女の脳裏にあったのは、かつて修道院を訪れた行商人や、シスターたちの会話の端々で耳にした、大陸有数の商業都市の名――ヴァイスブルク。そこへ行けば、自分のような人間でも、何かしらの仕事が見つかるかもしれない。そんな、か細い希望だけが、彼女を前に進ませていた。
道中は、過酷を極めた。時には日雇いの荷物運びでその怪力を使い、わずかな銅貨を得ては、硬いパンをかじって飢えをしのいだ。夜は馬小屋の隅で、冷たい藁にくるまって眠った。誰もが彼女の華奢な見た目と、その身に宿る異様な力の歪さに、好奇か、あるいは侮蔑の視線を向けた。そのたびに、セラフィナは心を固く閉ざしていった。
そして、何か月も彷徨った末にたどり着いたのが、このヴァイスブルクの、薄汚れた路地裏だった。
修道院を去ったセラフィナは、生きるために、傭兵ギルドの門を叩いた。武器を持つことを頑なに拒む彼女に、ギルドが紹介できる仕事はほとんどなかった。そんな中、ある商人が彼女に興味を示す。「攻撃は一切しない」という異様な条件を逆手に取り、「最も安全な壁」として彼女を雇うことにしたのだ。
商人は、彼女に一つの武具を与えた。それは、人の背丈ほどもある巨大な塔の盾。本来であれば、屈強な兵士が城門を守るために使うような、ただの鉄の塊だった。
「お前にできるのは、ただ立って、これに隠れていることだけだ」
その日から、その盾は彼女の体の一部となり、そして、彼女の心を閉じ込める新たな牢獄となった。
彼女の絶対的な防御能力は、すぐに裏社会の富裕層の目に留まった。「最も安全な護衛」として、彼女の存在は「商品」となり、高値で取引されるようになった。
奴隷商人の護衛。民衆から搾取する悪徳貴族の用心棒。彼女の心優しい性格とは正反対の、心を殺すような仕事ばかり。しかし断れば、生きてはいけない。
いつしか彼女は、裏社会でこう呼ばれるようになっていた。
――『鉄壁のセラ』。
それは、彼女にとって、自分の力が商品として弄ばれている証であり、守るべき命さえ守れなかった自分への、忌わしい烙印でしかなかった。
「私は、人を壊した化け物。守るべき命さえ守れなかった、人殺し。そして今は、金持ちの退屈を紛わすための、ただの動く壁……」
自己評価は、地の底まで落ちていた。ただ無感情に、無感動に、依頼をこなすだけの日々。
◇
長い、長い沈黙が、湿った地下牢を支配していた。
やがて、虚空を見つめていたセラフィナの瞳に、か細い光が戻る。しかし、それは希望の光ではない。すべてを諦めきった、より深い絶望の色を宿して、彼女は震える声で呟いた。
「……だから、言ったでしょう。私は、呪われているんです。善意で手を伸ばせば、大切なものを壊してしまう。守ろうとすれば、守るべき命を奪ってしまう……。私に、誰かと共にいる資格なんて、ないんです」
その言葉は、アルの胸に重く突き刺さった。彼は何か言おうとしたが、どんな言葉も、彼女の絶望の前ではあまりに軽く、空虚に響いてしまう気がして、唇を噛むことしかできなかった。
一方、リナは、ただじっとセラフィナを見つめていた。
彼女の脳裏に、忘れようとしても忘れられない光景が蘇る。炎に包まれる故郷の街。黒い煙と、人々の悲鳴。そして、自分の手から放たれた、制御不能の破壊の力。
(この瞳……この絶望は……)
セラフィナが浮かべる表情は、鏡に映った自分を見ているかのようだった。自分の力を呪い、他人を遠ざけ、孤独という名の牢獄に自らを閉じ込めていた、かつての自分。いや、アルに出会うまでの、ほんの少し前の自分そのものだ。
『私に近づく者は、皆、不幸になる』
セラフィナの言葉が、リナの心の中で反響する。それは、リナ自身が、森の奥で何十年も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
(そう、私も同じだった)
守りたいと願った。その一心で振るった力が、最悪の結果を招いた。善意が、絶望に変わった。その日から、自分の力は呪い以外の何物でもなくなった。
セラフィナの瞳の奥にあるのは、単なる悲しみではない。自らの存在そのものを否定する、根源的な自己への嫌悪。そして、誰かを傷つけることを恐れるあまり、誰かに触れることさえ諦めてしまった、悲痛なまでの優しさ。
その全てを、リナは痛いほどに理解できた。
鉄格子を握るリナの手に、力がこもる。指先が白く変色するのも構わず、彼女は、目の前の少女に、そして過去の自分自身に語りかけるように、震える声で言った。
「……そう。あなたも、そうなのね」
その声は、セラフィナの過去を知ったからではない。彼女の魂が発する悲鳴を、自らの魂で感じ取ったからこその、共鳴だった。
「守りたかった。ただ、それだけだったはずなのに。そのために振るった力が、守るべきものを、街を、人々を、焼き尽くしてしまった……。自分の力が、呪い以外の何物でもなくなった、あの日から……私の時間も、止まったままだった」
リナは、自分のことを語っていた。かつて「焦土の日」と呼ばれる悲劇を引き起こし、「森の魔女」として、たった一人で罪を背負い続けてきた、自分自身のことを。
その告白に、セラフィナは、はっと息を呑んだ。虚無に満ちていた彼女の瞳が、初めてリナという存在を、一人の人間として捉えた。
「あなたも……?」
「ええ。だから、わかるのよ。痛いほどにね。自分の力が怖い。誰かを傷つけるくらいなら、いっそ、このまま消えてしまえたらいいのに。そう願うあなたの気持ちが」
リナは、鉄格子の隙間から、そっと手を伸ばした。
「でもね、あなたは一人じゃないわ。あなたのその痛みは、私にもわかる。そして、ここにいるこのお人好しの勇者様は、そんな私たちの過去も、呪いも、全部まとめて『大丈夫だ』って、笑って受け入れてくれる、とんでもない馬鹿なのよ」
リナの視線の先で、アルがこくりと頷いた。彼は、うまく言葉にできなかったが、その澄んだ瞳は、何よりも雄弁に彼女の言葉を肯定していた。
「僕には、君の苦しみの全部はわからないかもしれない。でも、君がもう、一人で泣かなくていいように、僕が隣にいる。僕たちが、君の盾になる。だから……だから、一緒に行こう!」
アルが、力強く言った。
「君の力は、呪いなんかじゃない。君が、そうやって誰かを守ろうとしてきたことが、何よりの証拠だ。今度は、僕たちが君を守る番だ。そして、いつか君が、自分の力を信じられるようになった時、僕たちの隣で、一緒に戦ってほしいんだ!」
まっすぐな言葉。一点の曇りもない、信頼の光。
それは、セラフィナが、ずっと昔に失ってしまったものだった。
彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、あの悲劇の日からずっと、固く凍りついていた彼女の心が、ほんの少しだけ溶け始めた、証だった。
「……私、は……」
その時だった。
階段の方から、複数の足音と話し声が聞こえてきた。定期巡回中の兵士だろうか。こちらに近づいてくる。
「まずいわね」リナが囁く。
足音は地下牢の前で止まり、松明の光が揺らめいた。
「おい、見張りが寝こけてるぞ!」
「それに、牢の扉が……! 貴様ら、何者だ!」
「ちっ、思ったより早かったわね!」
リナは舌打ちすると、鍵束の中から牢の鍵を探し当て、素早く解錠した。
「さあ、行くわよ! 感傷に浸るのは、ここを抜け出してから!」
リナが少女の腕を掴む。しかし、彼女は動こうとしない。恐怖が、再びその足を縫い止めていた。
「だめ……! 私が行ったら、またあなたたちを不幸にしてしまう……!」
「君のせいになんて、させるもんか!」
アルが叫んだ。彼は、少女の前に立ちはだかり、階段の向こうから現れた三人の兵士たちを睨みつけた。
「リナ! この子を頼む!」
「アル!?」
兵士の一人が、剣を抜き、アルに斬りかかってきた。絶体絶命。武器がないのも構わず、アルは体に染み付いた、故郷の父に教わった型を構えた。一瞬でも、時間を稼げれば――。
その瞬間。
ガギンッ! と、甲高い金属音が響き渡った。
アルの目の前に、巨大な鉄の壁が出現していた。セラフィナが、無意識のうちに、アルを庇うようにして、その巨大な盾を構えていたのだ。
兵士の剣は、盾に弾かれ、火花を散らす。
「なっ……!?」
兵士たちが、その信じがたい光景に怯んだ、その一瞬を、リナは見逃さなかった。
「風よ、刃となりて、彼奴等を切り裂け! ――風刃!」
リナの杖から放たれた無数の風の刃が、衝撃波を伴って兵士たちを襲う。悲鳴を上げる間もなく、その体は壁に叩きつけられ、気を失って床に崩れ落ちた。だが、そのうちの一人が意識を失う寸前、必死の力で腰の警笛を鳴らした。甲高い音が静まり返った屋敷の地下に響き渡る。一瞬の静寂。そして、遠くから最初の怒声が聞こえたのを皮切りに、床や壁を伝って、複数の慌ただしい足音が急速に近づいてくるのがわかった。
「……あ……」
セラフィナは、自分の構えた盾を見て、呆然としていた。仕事じゃない。契約でもない。ただ、目の前の少年を助けたい一心で、また、この力を使ってしまった。あの時と同じ、誰かを「守りたい」という衝動で。だが、今回は――誰も傷つけていない。それどころか、目の前の少年を、守ることができた。
「すごいじゃないか! 君のおげで助かったよ!」
アルが、満面の笑みで振り返った。その笑顔に、セラフィナの心臓が、大きく、トクン、と鳴った。
「さあ、今のうちに逃げるわよ!」
リナが再び少女の手を引く。今度は、彼女も、おずおずと、しかし確かに、その一歩を踏み出した。
警笛の音は、静かな夜の屋敷に瞬く間に広がった。遠くの廊下から、怒声や慌ただしい足音が聞こえ始め、それが徐々に数を増しながら地下へと向かってくるのがわかる。
「アル、右側をお願い! あなたは私の後ろに!」
リナが的確な指示を飛ばす。三人は階段を駆け上がり、再び屋敷のメインフロアへと戻った。そこではすでに、松明を手にした警備兵たちが数人、行く手を阻んでいた。
リナの放つ魔法が、的確に追手の足を止め、あるいは無力化していく。アルは、その間を縫うようにして、敵の注意を引きつけ、撹乱する。彼の予測不能な動きは、熟練の兵士たちを翻弄し、リナが次の魔法を準備するための、決定的な隙を生み出した。
そして、セラフィナ。彼女は、まだ攻撃に転じることはできなかったが、リナやアルが危険に晒されるたびに、反射的にその巨大な盾を構え、あらゆる攻撃から二人を守り抜いた。矢も、剣も、魔法さえも、彼女の盾の前では無力だった。
「くそっ、なんなんだ、あいつら!」
「あの魔導士を狙え! 盾女は後回しだ!」
敵の攻撃が、リナに集中する。リナは防御魔法を展開するが、多勢に無勢、じりじりと追い詰められていく。
その時、アルが叫んだ。
「こっちだ! 勇者アルは、ここだぞ!」
彼は、わざと敵の集団の真ん中へと飛び込んでいった。あまりにも無謀な行動。しかし、そのおかげで、リナへの攻撃が逸れた。
「アル!」
リナが悲鳴に近い声を上げる。だが、アルは不敵に笑っていた。
その時、奇跡が起こった。アルに斬りかかろうとした兵士が、床に転がっていた酒瓶に足を滑らせて派手に転倒し、その勢いで隣の兵士を巻き込み、ドミノ倒しのように敵が次々と体勢に崩したのだ。
「……なっ!?」
偶然が生んだ、絶好の好機。
「今よ、リナ!」
アルの叫びに、リナは即座に反応した。
「眠りの雲よ、彼らを包め! ――睡雲!」
広範囲に拡散する催眠効果のある霧が、兵士たちを包み込み、彼らは次々とその場に崩れ落ちていった。
「今のうちに!」
三人は、最後の力を振り絞って、屋敷の出口へと走った。
夜明け前の冷たい空気が、火照った体を冷やす。なんとか、屋敷からの脱出に成功したのだ。
しかし、安堵したのも束の間、背後から、あの商人の怒号が聞こえてきた。
「逃がすな! あの小娘を取り戻せ! 街中のごろつき共に伝えろ! あの三人を生け捕りにした者には、金貨五十枚をくれてやる、と!」
ヴァイスブルクの裏社会に、指令が飛んだ。もはや、この街に、三人の安息の地はない。
「……ずいぶんと、派手にやらかしてしまったようね。もう、ここにはいられないわ」
リナが、やれやれと肩をすくめながらも、その口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私のせいで、あなたたちまで……!」
息を切らし、涙声で繰り返すセラフィナに、前を走っていたアルが振り返った。
「君が謝ることじゃない! これは僕がやりたくてやったことだ!」
アルは走りながら叫んだ。その顔には焦りの色もあったが、それ以上に、不思議なほどの高揚感が浮かんでいた。
「だから、今は前だけ見て走るんだ! 僕たちと一緒に!」
その言葉と共に、アルはセラフィナの手を強く掴んだ。驚く彼女をぐいと引き寄せる。その笑顔は、ちょうど路地の切れ間から差し込んだ朝日に照らされ、きらきらと輝いて見えた。