7 鉄壁の少女
丘の上から見えたヴァイスブルクの威容は、しかし、二人の疲弊しきった足にはあまりにも遠かった。黄金色に輝いて見えたあの城壁は、近づくにつれてその圧倒的な巨大さを露わにし、歩いても歩いても、その距離が思うように縮まらない。地平線にそびえる壁は、まるで蜃気楼のように、手を伸ばせば消えてしまいそうなほど、遥か彼方にあり続けた。
結局、その日のうちに城門へたどり着くことは叶わず、二人は都市を目前にした最後の夜を、小さな焚き火を囲んで過ごすことになった。
「すごい街だったな……。あんなに大きいなんて、想像もつかなかったよ」
アルが、燃える火を見つめながら呟く。その瞳には、憧れと、そしてほんの少しの不安が入り混じっていた。
「ええ。あれほどの規模の都市国家だもの。一筋縄ではいかないでしょうね」
リナもまた、静かに応じた。彼女の肩の傷が、冷たい夜気の中で微かに痛む。
翌朝、朝日と共に再び歩き始めた二人が、ようやく巨大な城門の前に立ったのは、昼近くになってからのことだった。
城門をくぐった瞬間、アルとリナは、まるで異世界に迷い込んだかのような感覚に襲われた。
これまで旅してきた、静かで穏やかな村々とは何もかもが違っていた。石畳の道を埋め尽くす人々の波、荷を積んだ馬車が行き交う音、威勢のいい商人たちの呼び込みの声、そして、様々な言語が入り混じった喧騒。そのすべてが、巨大な生命体の脈動のように、二人の全身を揺さぶった。
「すごい……これが、都市……」
アルは、目を丸くして周囲を見渡した。彼の故郷の里の全人口を集めても、今この広場にいる人々の数には遠く及ばないだろう。天を突くようにそびえ立つ建物、ショーウィンドウに並べられた見たこともない品々、そして、道行く人々の多様な服装。その一つ一つが、アルの冒険心を強く刺激した。
しかし、その興奮も、隣でふらりとよろめいたリナの姿を見て、一瞬で現実に引き戻される。
「リナ! 大丈夫かい!?」
「……ええ。少し、人酔いしただけよ。それと……」
リナは痛む右肩をそっと押さえた。ミストハウンドに受けた傷は、彼女の治癒魔法とアルの応急手当でひとまず血は止まっている。だが、深い傷であることに変わりはなく、長旅の疲労も相まって、彼女の顔色は明らかに優れなかった。黒いローブに染み込んだ血の跡が、痛々しく彼女の消耗を物語っている。
「すぐに宿を探そう! ゆっくり休める場所を!」
アルはリナの腕を支え、人波をかき分けるようにして歩き始めた。活気に満ちた大通りから一本裏手に入ると、そこには比較的静かな、庶民向けの宿屋が軒を連ねていた。その中の一軒、年季の入った木製の看板に「風見鶏の宿」と書かれた宿に、二人は宿を取ることに決めた。
案内された部屋は、決して広くはなかったが、清潔なベッドが二つと、小さなテーブルが置かれた、落ち着ける空間だった。扉を閉めた瞬間、街の喧騒が嘘のように遠ざかり、安堵のため息が二人の口から同時に漏れた。
「やっと、着いたね……」
アルはリュックを床に下ろし、ベッドにどさりと腰を下ろした。霧の谷での死闘が、まるで昨日のことのようだ。いや、実際に昨日のことなのだ。緊張の糸が切れた途端、全身に鉛のような疲労感がのしかかってくる。
「リナ、すぐに治療院へ行こう。ちゃんとした先生に診てもらわないと」
アルが言うと、リナは静かに首を横に振った。彼女は肩にかけた小さな鞄に手を伸ばした。それは見た目以上の物が入る、空間収納の魔法が付与された魔道具だ。中から手際よく薬草の包みと軟膏の壺を取り出し、テーブルの上に広げ始めた。
「いいえ、その必要はないわ。私の治癒魔法と、この薬があれば十分。都市の治療院は、法外な治療費を請求されるのが常よ。私たちの所持金では、おそらく一回の治療で底をついてしまう」
「でも……!」
「大丈夫。自分の体のことは、自分が一番よくわかっているわ」
リナはそう言って、慣れた手つきでローブの肩口を破り、傷口を露わにした。生々しい傷跡を見て、アルは息を呑む。それは、自分のせいだ、と胸が締め付けられるような痛みだった。
自分がもっと強ければ。あの時、もっとうまく立ち回れていれば。リナがこんな傷を負うことはなかった。そして、なけなしの金貨の心配をさせることもなかったはずだ。
「……ごめん。僕が、不甲斐ないばかりに……」
俯くアルに、リナは一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、何かを言いかけたが、その言葉を飲み込み、代わりに少しだけ困ったように微笑んだ。
「何を言っているの。あなたは、あなたのやり方で、私を守ってくれたじゃない。忘れたの?」
彼女はそう言うと、手早く傷口に薬を塗り、清潔な布で覆っていく。その横顔は、いつも通りの冷静さを装っていたが、アルには彼女が自分に気を遣っていることが痛いほど伝わってきた。彼女は、アルの無力さを責めているのではない。これ以上、彼に負い目を感じさせたくないのだ。その優しさが、かえってアルの心を苦しめた。
「……僕、少し街の様子を見てくるよ。何か、僕にでもできる仕事があるかもしれないし、情報も集めないといけないからね」
このまま部屋にいても、自分の無力さを噛みしめるだけだ。何か行動しなければ。アルは、逃げるようにそう言って立ち上がった。
「アル……」
「リナはここでゆっくり休んでいて。傷に障るから、絶対安静だよ!」
リナの制止を振り切るように、アルは部屋を飛び出した。扉が閉まる直前、彼女が何かを言いたそうに、寂しげな瞳でこちらを見ていたことに、彼は気づかないふりをした。
◇
ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉まる。一人残された部屋に、街の喧騒が遠くに聞こえた。リナは、治療を終えた自分の肩にそっと触れ、深いため息をついた。
(……また、あの子に気を遣わせてしまった)
アルのあの顔。自分の無力さを責め、悔しさに唇を噛む、子供のような、あまりにも純粋な顔。彼はきっと、今も自分のせいだと、一人で責任を背負い込んでいるに違いない。
違うのに。あなたは、何も悪くないのに。
じくり、と傷が痛む。それは物理的な痛みだけでなく、心の奥底を苛む、過去の罪の痛みにも似ていた。霧の谷で、アルが自分を守るために魔獣の前に立ちはだかった光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの時、自分は恐怖に縛られていた。また力を暴走させ、守るべきものまで焼き尽くしてしまうのではないか、と。そんな自分を、彼の曇りない信頼が救ってくれた。
(私は、彼に救われてばかりだ……)
自分の過去が、彼の旅路の重荷になっている。その事実は、否定しようもなかった。「焦土の魔女」――その忌わしい名が知られれば、勇者である彼の名声に、どれほどの泥を塗ることになるだろう。
彼にふさわしい仲間でありたい。彼の隣に、胸を張って立ちたい。
その想いが、リナの中で、静かに、しかし確かな決意へと変わっていく。彼女は、ただ守られるだけの存在ではない。彼と共に戦い、彼を支える、唯一無二のパートナーなのだ。
(まずは、この傷を治すこと。そして、彼が一人で抱え込んでいる重荷を、半分、私が受け持つのだ)
リナは鞄から、古びた革張りの魔導書を数冊取り出した。そして、羊皮紙の地図をテーブルいっぱいに広げる。このヴァイスブルクで、自分にできることは何か。情報収集、資金調達、そして、新たな仲間の探索。ただ待つのではなく、自分もまた、動かなければならない。
彼女の瞳に、新たな光が宿った。それは、アルがくれた光を、今度は自分が彼に返すための、決意の光だった。
◇
アルが向かった先は、冒険者ギルドだった。活気と、汗と、酒と、そして微かな血の匂いが入り混じった、独特の熱気が彼を迎えた。屈強な戦士たちが豪快に笑い合い、軽装の斥候たちが地図を広げて何事か話し込んでいる。その誰もが、自分にはない「強さ」を持っているように見え、アルは思わず気圧されそうになった。
彼は意を決して、クエストボードに張り出された依頼書の前に立った。その時、近くで酒を飲んでいた傭兵たちの会話が、彼の耳に飛び込んできた。
「おい聞いたか? また『鉄壁のセラ』がどこぞの金持ちに買われたらしいぜ」
「ああ、あの化け物じみた盾女だろ? なんでも、どんな攻撃も防ぐくせに、絶対に攻撃してこないらしい。そりゃあ、依頼主からすりゃ安全かもしれねえが、気味が悪いぜ。人間ってより、ただの道具だ」
「違いない。だが、あの防御力だけは本物だからな。なんでも、流れ着いた当初は日雇いの荷物運びで、信じられないような荷物を一人で運んでたって話だ。その怪力と、絶対に攻撃しないっていう奇妙な条件で仕事を受けるうちに、金持ちどもの目に留まったのさ。今じゃ、あいつを雇うのが一種のステータスらしいぜ。気味の悪い見世物としてな」
鉄壁のセラ。魔王軍。断片的な言葉が、アルの心に引っかかった。だが、今の彼に、その意味を深く考える余裕はなかった。
「ゴブリンの巣穴掃討、報酬銀貨三十枚……」「商隊の護衛、日当銀貨五枚……」「ワイバーンの目撃情報求む、報奨金貨一枚……」
そこに並ぶ依頼の数々は、今のアルが一人で受けられるようなものでは到底なかった。錆びた剣は黒竜との戦いで砕け、ミストハウンドとの戦いで完全に鉄屑と化した。今の彼の武器は、故郷の父に教わった一つの「型」と、根拠のない自信だけだ。
途方に暮れて立ち尽くしていると、カウンターの向こうから、人の良さそうな、しかしどこか商売人然とした目つきのギルド職員が声をかけてきた。
「よう、坊主。仕事探しにしちゃあ、ずいぶんと軽装だな。冒険者登録は済んでるのかい?」
「い、いえ、まだです。僕は勇者アル! 魔王を倒すために旅をしています!」
アルが胸を張ってそう言うと、ギルド職員は一瞬きょとんとし、それから腹を抱えて笑い出した。周囲の冒険者たちからも、くすくすと笑い声が漏れる。
「勇者様、ねえ! こりゃ傑作だ! 坊主、ここはそういうおとぎ話が通用する場所じゃねえんだぜ。まあいい、仕事を探してるってんなら、薬草採取の依頼くらいなら、未登録のお前さんでも斡旋してやれるが……報酬は雀の涙だぞ?」
「もっと……もっと、稼げる仕事はありませんか? どうしても、お金が必要なんです!」
アルが必死に食い下がると、職員はやれやれと肩をすくめた。
「そんな都合のいい話があるかよ。金が欲しけりゃ、それ相応の危険を冒すか、腕を磨くか、どっちかだ。お前さんには、そのどっちも無さそうだがな」
手厳しいが、正論だった。アルはぐうの音も出ず、唇を噛みしめる。その時だった。ギルドの隅の薄暗い席で、一杯の麦酒を静かに飲んでいた一人の少女が、アルの方をじっと見つめていることに、彼は気づかなかった。
その少女は、華奢な身体を簡素な旅装に包んでいたが、その背には、彼女の背丈ほどもある巨大な塔の盾が、その存在を押し潰すかのように鎮座していた。無数の傷が刻まれたその盾は、彼女が潜り抜けてきたであろう戦いの過酷さを物語っている。しかし、彼女の銀色の髪と、聖女のように整った顔立ちは、その物々しい雰囲気とはあまりにも不釣り合いだった。彼女の瞳には、どんな光も映ず、ただ深い湖の底のような、静かな絶望だけが広がっていた。
◇
ギルドで粘り続けたアルの元に、思いがけない話が舞い込んできたのは、日が傾き始めた頃だった。先ほどのギルド職員が、何やら儲け話がある、と手招きをしたのだ。
「おい、勇者様。運がいいな、お前。ちょうど今、お得意様からちっと訳ありの仕事が入ったぜ」職員は声を潜め、アルにだけ聞こえるように続けた。「今夜、とある『高価な品』を運ぶんだが、その追加の護衛だ。こいつは普通の依頼じゃねえ。傭兵を雇うんじゃなくて、そいつの『能力』を時間で借りる特殊な契約でな。だから受け渡しは人目につかない倉庫で行う。本人も、自分の意思じゃ動かねえ……いや、動けねえタチなんでな。表沙汰にできねえ品だから、お前さんみたいな、身元の割れてない新入りが逆に都合いいのさ。どうだ? やるか?」
「自分の意思じゃ動けない……? それに、『品』だなんて……まるで人のことみたいじゃないですか」
アルが抱いた当然の、しかし核心を突く疑問に、職員は途端に面倒くさそうな顔つきになり、苛立たしげにカウンターを指で叩いた。
「ごちゃごちゃ詮索するな、新入り。だから訳ありだっつったろ。お前はただ、言われた通りに荷物を運べば金がもらえる。それだけだ。やるのか、やらねえのか、はっきりしな!」
職員の威圧的な態度と、「訳あり」という言葉の不穏な響きに、アルの胸はざわめいた。まともな仕事ではない。それは明らかだった。断るべきだ。正義を志す勇者として、こんな怪しげな話に乗るべきではない。
だが、脳裏にリナの苦しそうな顔と、懐にある心許ない数枚の硬貨が浮かぶ。銀貨二十枚。それがあれば、リナにちゃんとした治療を受けさせてやれる。温かい食事も、ふかふかのベッドも用意できる。
アルは、唇を強く噛み締めた。自分の正義感と、仲間を救いたいという想いが、天秤の上で激しく揺れる。そして――。
「……やります!」
彼は、リナのために、その怪しげな仕事を引き受けることを決意した。
紹介されたのは、人の良さそうな笑みを浮かべた初老の商人だった。
「これはこれは、勇者様でしたか。いやあ、頼もしい。実は、今夜、大事な『荷』を私の屋敷まで運ぶことになりましてな。なにぶん、大変に壊れやすい『道具』でして、慎重を期したいのです」
商人はそう言うと、念を押すように人差し指を立てた。
「つきましては、その『荷』には決して触れない、話しかけない。ただ、そこに『在る』ものとして扱っていただきたい。よろしいですかな?」
「……荷物なのに、話しかけない、ですか?」
アルが戸惑いの声を上げると、商人は人の良い笑みを崩さずに、ポンとアルの肩を叩いた。
「いかにも。なにせ、魔術的な仕掛けが施された、大変に繊細な『自動人形』のようなものとお考えくだされば。下手に触れたり話しかけたりすると、誤作動を起こしかねんのです。ゆえに、ですな」
もっともらしい説明だったが、アルの胸のざわめきは消えない。しかし、リナの治療費と、彼女に温かい食事をさせてやりたいという一心で、彼はこくりと頷いた。
指定された倉庫へ向かうと、そこにはアルの他に、三人の屈強な傭兵たちがすでに集まっていた。潮の香りと、錆びた鉄の匂いが混じり合う、薄暗い倉庫。その中央に、「荷物」はあった。
それは、巨大な塔の盾を背負った、銀髪の少女だった。
ギルドの隅にいた、あの少女だ。
彼女は、まるで感情を失った人形のように、ただ虚空を見つめてそこに立っていた。
「こいつが、今夜の『荷』だ。『鉄壁のセラ』って呼ばれてる、ちょっとした有名人さ。どんな攻撃も防ぐ、最高の『盾』だぜ」
傭兵の一人が、嘲るように言った。その言葉で、アルの中でバラバラだった点と点が、一本の残酷な線で結ばれた。ギルド職員の怪しげな口ぶり、商人の言う『道具』という奇妙な言葉、そして傭兵たちの侮蔑に満ちた眼差し。その全てが、目の前の少女に向けられていた。彼女は、人間としてではなく、ただの『物』として、金で取引される『商品』として、そこにいるのだ。
胃の腑が、氷水で満たされたかのように冷たくなる。これが、魔王を倒し、人々を救うと誓った勇者の冒険の現実なのか。違う。これは、ただの醜い取引だ。そして自分は、リナを助けたい一心で、その片棒を担いでしまった。金のために、一人の少女の心が踏みにじられるのを、黙って見ているだけなのか。
道中、商人や傭兵たちは、セラフィナを人間扱いしなかった。「おい、壁、もっと速く歩け」「邪魔だ、荷物」と、容赦ない罵声を浴びせる。
アルは、我慢ならずに口を開いた。
「やめてください! 彼女は物じゃない、人間だ!」
その言葉に、傭兵の一人がアルの胸ぐらを掴んだ。
「うるせえな、新入りが。これが仕事だ。余計な感傷は持ち込むんじゃねえ。お前も、金が欲しくてここにいるんだろうが」
アルは反論できなかった。その通りだったからだ。
セラフィナは、そんなアルの行動に、ほんの少しだけ驚いたように視線を向けた。だが、その瞳はすぐに元の虚無へと戻り、諦めたように呟いた。
「……無駄なことです。気になさらないでください」
その声は、あまりにもか細く、そして絶望に満ちていた。
◇
商人の屋敷は、貴族街の一角に、周囲を威圧するように建っていた。けばけばしい金色の装飾が施された門、悪趣味な怪物の石像、そして、怯えたような目で道行く人々を監視する、不釣り合いなほど厳重な警備。その全てが、持ち主の歪んだ自己顕示欲と、他者への不信感を物語っていた。
屋敷に到着すると、重厚な鉄門が開き、一行は屋敷の玄関前まで通された。商人は他の傭兵たちにはすぐに報酬を渡して追い払ったが、アルだけはその場に残るよう、ねっとりとした視線を向けて命じた。
「勇者様はここでしばしお待ちを。なに、あなたにはこの取引の最後まで、しっかりと見届けていただく義務がありますのでな。大事な『商品』を然るべき場所へ保管し終えたら、お支払いいたしますよ」
その言葉には、アルの青臭い正義感を嘲笑うかのような、悪意が滲んでいた。商人は満足げに頷くと、屋敷の警備兵たちに顎をしゃくった。
「ご苦労だった。さあ、地下へ。傷一つつけずに、厳重に保管しろ。なにせ、金貨百枚の値がつく逸品だからな。それに、万が一この化け物の力が暴走でもしたら、屋敷がどうなるか分からんからな」
その言葉は、セラフィナを「価値ある道具」としてしか見ていないこと、そして同時に、その未知の力を心の底では恐れていることを、如実に示していた。警備兵たちは、まるで壊れ物を扱うかのように、しかし有無を言わせぬ力でセラフィナを掴み、屋敷の奥へと連れて行く。彼女は一切抵抗せず、ただ引かれていった。アルは玄関前の冷たい石畳の上で、ただその背中を見送ることしかできない。やがて、屋敷の中から、重い鉄格子が閉まる鈍い音が、遅れて響いてきた。
屋敷の中から響いてきた重い鉄格子の音を、商人は満足げに聞き届けた。まるで取引完了の合図のように。それから、用済みとなったアルを値踏みするように、彼はゆっくりと振り返った。その目に侮蔑の色を浮かべ、懐から銀貨の入った袋を取り出し、アルの足元に投げ捨てた。
「ほら、約束の報酬だ。ご苦労だったな、勇者様よ。さあ、とっとと失せろ」
ずしりと重い銀貨の袋。しかし、その重さは、彼の心を鉛のように沈ませた。鉄格子の音と、商人の嘲るような声が頭の中で反響する。罪悪感と、自分の無力さに、吐き気がするほどだった。
ふらふらとした足取りで宿屋に戻ると、部屋ではリナが心配そうに待っていた。
「アル、あなた……どうしたの? 顔色が、ひどいわ」
アルは、リナの顔を見た途端、堪えていたものが一気に決壊した。彼は、事の次第を、途切れ途切れに、しかしすべてを打ち明けた。
「僕は……勇者失格だ。お金のために、あの子を見捨ててしまった……。僕は、何もできなかった……」
膝から崩れ落ち、嗚咽するアルを、リナはただ黙って見つめていた。そして、彼がすべてを話し終えるのを待ってから、静かに彼の前にしゃがみ込んだ。
彼女は、アルの震える両肩に、そっと手を置いた。その手は、驚くほど温かかった。
「あなたは、間違っていないわ」
凛とした、しかしどこまでも優しい声だった。
「見て見ぬふりをする方が、ずっと簡単だったはずよ。他の傭兵たちのように、心を殺して『仕事』だと割り切ることもできた。でも、あなたはそうしなかった。その少女のために心を痛め、今、こうして涙を流している。……それこそが、あなたが勇者である、何よりの証拠よ」
リナの言葉が、アルの心に染み渡っていく。
「それに」と、彼女は続けた。その瞳には、いつかの霧の谷で見たような、強く、美しい光が宿っていた。「まだ、何も終わってはいないでしょう?」
リナはゆっくりと立ち上がった。彼女の右肩の傷は、まだ完全には癒えていない。だが、その立ち姿には、微塵の揺らぎもなかった。
「行きましょう、アル」
彼女は、アルに手を差し伸べた。
「あなたのやりたいように、やりなさい。今度は、私があなたの剣になる。あなたの盾になる。……今度は、私があなたを守る番よ」
その言葉に、アルは顔を上げた。差し出されたリナの手は、少し小さくて、華奢だった。だが、今の彼には、世界で最も力強いものに思えた。
彼は、その手を、強く、強く握り返した。心に、再び勇気の炎が灯るのを感じながら。
その夜。アルとリナは、宿屋を静かに抜け出した。
一人は、もはやただの心優しい少年ではない。自らの無力さを知り、それでもなお、誰かのために立ち上がろうとする覚悟を決めた、本物の「勇者」。
もう一人は、過去の罪と向き合い、大切な仲間を守るために、その絶大な力を振るうことを決意した、最強の魔導士。