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6 新たな仲間を求めて

 商業都市ヴァイスブルク。


 その名を、アルはまるで伝説の都を語る吟遊詩人のように、何度も口の中で転がしていた。


 三週間後にたどり着くというその響きには、新たな仲間、新たな情報、そして新たな冒険、そのすべてが詰まっているように思えた。


 旅は、驚くほど順調だった。


 アルがこれまでの旅で経験してきたような、道に迷ったり、食料が尽きかけたり、あるいは変な魔物に絡まれたりといったトラブルは、リナが隣にいてくれるだけで嘘のように消え去った。


 彼女の頭の中にある正確な地図は、どんな分かれ道でも最短のルートを示してくれたし、彼女の植物学の知識は、道端に生えている何の変哲もない草の中から、食べられるものや薬になるものを的確に見つけ出してくれた。


 夜、野営地でアルが焚き火の番をしている間に、リナが小声で何事か詠唱すれば、不可視の結界が周囲に張られ、夜行性の魔物たちは彼らの存在に気づくことすらなく通り過ぎていく。


 それは、アルにとって夢のような旅だった。


 まるで、答えがすべて書かれた参考書を片手に、試験に臨んでいるかのような、絶対的な安心感。


「すごいなあ、リナは! 君がいれば、もう何も怖くないや!」


 アルが心からの称賛を送るたびに、リナは「当たり前のことをしたまでよ。これもすべて、論理的な知識と経験則に基づいた結果に過ぎないわ」と、そっぽを向いてぶっきらぼうに答えるのが常だった。


 しかし、その横顔が、まんざらでもないというように、ほんの少しだけ綻んでいることに、アルは気づいていた。


 彼女は、変わった。


 森で出会った頃の、全身から「私に近づくな」という刺々しいオーラを放っていた彼女は、もういない。


 今のリナは、アルの突拍子もない言動に呆れたように深いため息をつきながらも、その一挙手一投足を、どこか楽しそうに見守っている。


 彼女が自らについて語ることはまだ少なかったが、アルが自分の故郷の里の話や、幼馴染のカインとのくだらない喧嘩の話をすると、静かに耳を傾け、時折、くすりと小さな笑い声を漏らすようになった。


 その声を聞くたびに、アルの心は温かいもので満たされた。


 旅を始めて一週間が過ぎた頃、二人は街道沿いにある「石工の町」と呼ばれる場所に立ち寄った。


 その名の通り、良質な石材が採れる鉱山に隣接した、活気のある町だ。屈強な石工たちがハンマーを振るう音が、町の隅々まで響き渡っている。


 町の広場では、大きな人だかりができていた。


 何事かと覗き込んでみると、一人の旅芸人らしい男が、自慢の芸を披露しているところだった。男は筋骨隆々で、その腕にはいくつもの傷跡が刻まれている。元は傭兵か冒険者だったのかもしれない。


「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! お代は見てのお帰りだ! 俺様のこの怪力芸、しかと目に焼き付けていきな!」


 男はそう言うと、広場の隅に置かれていた、子供ほどの大きさの巨大な石の塊を軽々と持ち上げてみせた。


 観衆から「おおーっ!」というどよめきと拍手が起こる。


 アルもまた、「すごい力持ちだ!」と目を輝かせていた。


 しかし、その隣で、リナだけが眉をひそめていた。


「……アル。あれは、ただの力任せじゃないわ」


「え? どういうことだい?」


「あの石を見て。不自然なほど、表面が滑らかすぎる。それに、男の筋肉の動き。あれだけの重量を持ち上げるにしては、負荷のかかり方が均等すぎるわ。おそらく、石の内部に風の魔術を応用した、重量軽減の術式が刻まれているのよ。男は魔力を流し込むことで、石の重量を一時的に操作しているに過ぎない。……イカサマね」


 リナの冷静な分析に、アルはきょとんとした。


「イカサマ? でも、みんな楽しそうだよ?」


「騙されているだけよ。無知は、時として搾取の対象になるということね」


 リナがそう呟いた、その時だった。


 芸を終えた男が、満足げな顔で観衆に一礼し、投げ銭を集め始めた。その男の前に、一人の少年が駆け寄った。歳は十歳くらいだろうか。その手には、錆びた短剣が握られている。


「僕を、弟子にしてください!」


 少年は、真剣な眼差しで男を見上げ、そう叫んだ。


「父さんの仇を討ちたいんです! 三ヶ月前、父さんはキャラバンの護衛の仕事で、東の『霧の谷』へ向かったきり、帰ってきません。きっと、谷に巣食う魔物にやられたんだ! だから、あなたのような強い人の下で修行して、僕が仇を討つんです!」


 少年の悲痛な叫びに、広場は水を打ったように静まり返った。


 旅芸人の男は、一瞬困ったような顔をしたが、すぐにニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ほう、威勢のいいガキだな。だがな、俺様は弟子なんぞ取らねえ主義でな。それに、お前みたいなひょろっこいガキに、何ができるってんだ?」


「できます! 僕は、毎日剣の稽古をしています! だから!」


「口だけなら何とでも言えるわな。……よし、いいだろう。そこまで言うなら、試してやる」


 男はそう言うと、先ほど持ち上げた巨大な石を指差した。


「お前が、この石をほんの少しでも持ち上げることができたら、考えてやらんでもない。どうだ? やってみるか?」


 それは、あまりにも無慈悲な提案だった。大人でも持ち上げられない石を、子供に持ち上げろと言うのだ。


 観衆も「そりゃ無茶だ」「可哀想に」と囁き合っている。


 しかし、少年は「やります!」と、力強く頷いた。


 彼は石の前に立つと、渾身の力を込めて、その冷たい表面に手をかけた。


「う……うおおおおおっ!」


 少年の顔はみるみるうちに真っ赤になり、その細い腕はぷるぷると震えている。だが、巨大な石は、びくともしない。


 男は、その姿を腕を組んで、嘲笑うかのように見下ろしている。


「ほら見ろ、言わんこっちゃない。無駄だ無駄だ。お前なんぞには、百年経っても無理な相談だ。諦めて、とっとと家に帰りな」


 少年の目から、悔し涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。それでも彼は、石から手を離そうとしなかった。


 その光景を、アルは黙って見ていられなかった。


 彼は人垣をかき分け、少年の隣に歩み寄った。


「君、すごいね。諦めない心、本物だ」


 アルはそう言うと、旅芸人の男に向き直った。


「おじさん、それはあんまりじゃないか。子供相手に、そんな意地の悪いことをするなんて」


「なんだぁ、てめえは。英雄気取りか? こいつが自分でやると言ったんだ。邪魔するんじゃねえよ」


「邪魔なんかしないさ。手伝うだけだ」


 アルはそう言うと、少年の隣に並び、同じように石に手をかけた。


「一人で無理なら、二人でやればいい。そうだろ?」


 アルがにっこりと笑いかけると、少年は涙を拭い、こくりと頷いた。


「いくぞ! せーのっ!」


 アルの掛け声に合わせて、二人は再び力を込める。しかし、結果は同じだった。石は、やはりびくともしない。


「はっはっhは! 馬鹿が一人増えただけじゃねえか! 無駄な努力ご苦労さん!」


 男の高笑いが広場に響き渡る。


 その時だった。


 それまで黙って様子を見ていたリナが、静かに一歩、前へ出た。彼女は、旅芸人の男を、氷のように冷たい視線で見据えた。


「……茶番はそこまでになさい」


 その凛とした声に、男の笑い声がぴたりと止まった。


「なんだ、今度は女か。今日の町は、お節介焼きが多いな」


「お節介を焼いているのは、あなたの方でしょう。その石に刻まれた重量軽減の術式……風属性の第三階梯魔法。初歩的だけど、巧妙に隠してあるわね。素人目には、ただの力自慢にしか見えないでしょうけど」


 リナの指摘に、男の顔色が変わった。図星だったのだ。


「な、何を言ってやがる…! 証拠もねえくせに、でたらめを…!」


「証拠なら、今ここで見せてあげるわ」


 リナはそう言うと、すっと杖を構え、小声で何かを詠唱した。


「――『解呪ディスペル』」


 彼女が杖の先で軽く石に触れると、石の表面に刻まれていた微かな魔法の文様が、一瞬だけ青白い光を放ち、霧のように消え去った。


 男は、自分の仕掛けが破られたことに気づき、顔面蒼白になっている。


「さあ、どうぞ。もう一度、その自慢の怪力とやらを披露してみたらどうかしら?」


 リナの挑発に、男は後ずさった。もう、彼にあの石を持ち上げることはできない。


 観衆は、何が起こったのか完全には理解できていないようだったが、男がイカサマをしていたことだけは察し、「詐欺師!」「金返せ!」という怒号が飛び交い始めた。


 追い詰められた男は、「お、覚えてやがれ!」と捨て台詞を吐くと、人垣をかき分けて逃げ出していった。


 後に残されたのは、呆然とする少年と、アル、そしてリナだった。


 少年は、リナの前に歩み寄ると、深々と頭を下げた。


「あ、ありがとうございました! お姉さんは、すごい魔法使いなんですね!」


「……別に。当然のことをしたまでよ」


 リナはぶっきらぼうに答えたが、その表情は少しだけ和らいでいた。


 アルは、少年の肩をぽんと叩いた。


「君のお父さんのこと、残念だったね。でも、君のその気持ちは、きっとお父さんも喜んでると思うよ」


「……はい」


 少年は俯いたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。


「父さんは、腕の立つ傭兵でした。僕の自慢の父さんだった。でも、あの谷に行ってから……。キャラバンで一緒だった他の人たちも、誰一人帰ってこなかったって聞きました。谷には『霧の魔獣』っていう、霧に紛れて人を襲う恐ろしい魔物がいるって……」


「霧の魔獣…」


 アルはその名を、羊皮紙のメモに書き留めた。


「仇を討ちたいっていう君の気持ち、よくわかるよ。僕も、魔王を倒すために旅をしているんだ。でもね、一人で焦っても、良いことはない。僕も、このリナっていう最高の仲間ができて、ようやく旅がまともにできるようになったんだから」


 アルはそう言って、リナの方を見た。リナは少し照れたように視線を逸らした。


「だから君も、まずは力をつけることだ。信頼できる仲間を見つけること。それが、一番の近道だと思うよ」


「……はい! ありがとうございます、勇者様!」


 少年は、アルの言葉に、何か吹っ切れたような、力強い表情で頷いた。


 その日の夕方、二人が町を出ようとすると、あの少年が息を切らして追いかけてきた。


「勇者様! リナさん! これ、持っていってください!」


 彼が差し出したのは、彼が父の道具を借りて、夜通し削って作ったという、小さな砥石だった。


「僕、決めました。もっともっと強くなって、いつか必ず、勇者様たちみたいに、誰かを助けられるようになります! だから、これを持って、僕の分まで頑張ってください!」


 アルとリナは、その砥石を受け取った。


 また一つ、旅の思い出と、未来への約束が増えた瞬間だった。


 石工の町を後にして、さらに一週間。


 二人の旅は、いよいよ山岳地帯へと差し掛かっていた。街道は険しくなり、両側には切り立った崖が続く。


 眼下には、雲海が広がり、まるで空の上を歩いているかのような錯覚に陥る。


「すごい景色だなあ! リナ、見てごらんよ! 雲が、僕たちの足の下にあるよ!」


「高山病にかからないように、呼吸は浅く、ゆっくりとね。気圧の変化で、体調を崩しやすいから」


 アルがはしゃぐ一方で、リナは常に冷静だった。彼女の知識は、こうした過酷な環境でも、二人の安全を確保するための、何よりの武器だった。


 しかし、そんな彼女の警戒心も、ある一点においては、全くの無力だった。


「わっ! 見てリナ! あんなところに、綺麗な花が咲いてる!」


 アルが指差したのは、街道から少し外れた、崖の突端だった。そこには、厳しい環境に耐え、凛として咲く一輪の青い花があった。


 それは、この辺りの高山にしか咲かないと言われる、希少な高山植物だった。


「危ないから、やめなさい、アル! 足場が悪いわ!」


 リナの制止も聞かず、アルはひょいひょいと、危なげな足取りで崖の突端へと近づいていく。


 そして、見事にその花を摘み取ると、満面の笑みでリナの元へ戻ってきた。


「はい、リナにプレゼント! いつも助けてもらってばっかりだから、僕からのお礼だよ!」


 差し出された青い花を見て、リナは言葉を失った。


 その花の学術的な価値や、それを手に入れるためのリスクを考えれば、彼の行動はあまりにも愚かで、無謀だった。


 しかし、その花に込められた、彼の純粋な感謝の気持ち。それを思うと、どうしても怒る気にはなれなかった。


「……馬鹿。本当に、あなたは……」


 リナは、深いため息と共に、その花を受け取った。そして、自分の黒髪に、そっとそれを挿した。


 黒い髪に、青い花がよく映える。


「……まあ、悪くないわね。この花の学名は『星屑草(スターダスト・グラス)』。魔力を安定させる効果があるから、持っておいて損はないわ」


 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼女の頬は、夕焼けのようにほんのりと赤く染まっていた。


 アルは、その姿を見て、心の底から嬉しそうに笑った。


 そんな穏やかな旅が、永遠に続くかのように思われた。


 しかし、彼らが例の「霧の谷」に差し掛かった時、その雰囲気は一変する。


 その谷は、その名の通り、一年中、深い霧に覆われていた。視界は数メートル先までしか効かず、湿った空気が肌にまとわりつく。


 太陽の光も届かず、昼間だというのに、まるで夕暮れ時のような薄暗さだった。


 石工の町で出会った少年が言っていた、「霧の魔獣」。その言葉が、アルの脳裏をよぎる。


「……嫌な感じね。この霧、ただの自然現象じゃないわ。濃密な魔力が、霧に溶け込んでいる」


 リナが、警戒を強めて呟いた。彼女は杖を構え、周囲に探知の魔法を張り巡らせる。


「何かが、いる。それも、かなりの数よ。気配を消すのが、かなりうまいわ」


 二人は、背中合わせになるようにして、ゆっくりと谷の道を進んでいく。


 霧の向こうから、いつ何が飛び出してきてもおかしくない。極度の緊張感が、二人を支配していた。


 アルは、腰の折れた剣の柄を、強く握りしめた。


 自分にできることは少ない。だが、リナを守る盾になる覚悟は、できていた。


 その時だった。


 霧の奥から、複数の影が、音もなく姿を現した。


 それは、狼に似た姿をした、全身が黒い体毛で覆われた魔獣だった。その数は、十数匹。


 目はなく、その代わりに、頭部には不気味な模様が浮かび上がっている。


 彼らは、一切の音を立てず、ただじっと、二人を包囲していた。


霧の魔獣(ミストハウンド)……! 霧に紛れて獲物を狩る、厄介な魔物よ。視覚ではなく、魔力や生命力を感知して襲ってくる。アル、私のそばから離れないで!」


 リナが叫ぶのと同時に、ミストハウンドの群れが一斉に襲いかかってきた。


 鋭い爪が、アルの喉元を狙う。


「させるか! 『炎の壁(ファイアウォール)』!」


 リナの詠唱で、二人の周囲に円環状の炎の壁が出現し、ミストハウンドたちの突撃を防いだ。


 炎に焼かれた数匹が、甲高い悲鳴を上げて霧の中へと後退していく。


 しかし、群れは怯まなかった。彼らは炎の壁の周囲を回り込み、隙を窺っている。


「ちっ、数が多いわね……!」


 リナは舌打ちし、次の魔法を構築しようとする。だが、ミストハウンドたちは、彼女にその隙を与えなかった。


 一匹が、天に向かって遠吠えを上げた。すると、周囲の霧が、まるで生き物のように蠢き始め、凝縮されていく。


 そして、数十本もの鋭い氷の槍となって、炎の壁めがけて降り注いだ。


 ジュウウウウッ!という音と共に、炎の壁が、霧から生み出された氷の槍によって、いとも簡単に貫かれ、その勢いを失っていく。


「霧を操るだけじゃない…! 霧から、物質を生成しているの!? なんて厄介な能力……!」


 リナの顔に、焦りの色が浮かぶ。


 炎の壁が消えかかった瞬間を狙い、ミストハウンドたちが再び殺到する。


「『風の刃(ウィンドカッター)』!」


 リナが放った不可視の刃が、数匹のミストハウンドを切り裂く。だが、倒しても倒しても、霧の奥から次々と新たな個体が現れ、キリがない。


 そして、一匹のミストハウンドが、リナの魔法の死角を突き、アルの背後から飛びかかった。


「アル、危ない!」


 リナの悲鳴が響く。アルは咄嗟に振り返り、折れた剣でそれを受け止めようとした。


 ガキン!という鈍い音と共に、アルの体は衝撃で吹き飛ばされ、地面を転がった。


「ぐっ……!」


「アル!」


 アルが倒れたことで、リナの集中が一瞬、乱れた。その隙を、敵が見逃すはずがない。


 一体の、他よりも一回り大きなミストハウンド――群れのリーダー格だろう――が、リナの懐へと深く潜り込んできた。


 近接戦闘に持ち込まれては、魔導士に勝ち目はない。


(まずい…!)


 リナが迎撃の魔法を放つよりも早く、リーダー格の爪が、彼女の肩を深く切り裂いた。


「きゃあっ!」


 鮮血が、黒いローブを赤く染める。激痛が走り、リナの膝が折れた。


 杖を取り落とし、地面に片膝をついてしまう。


 その光景が、アルの目に焼き付いた。


 リナが、傷つけられた。自分のせいで。守ると誓ったはずの、大切な仲間が。


 その瞬間、アルの中で、何かがぷつりと切れた。


 恐怖は、なかった。あったのは、ただ、燃え盛るような怒りだけだった。


「……よくも、リナを……!」


 彼は、地面に転がっていた、ただの石ころを拾い上げると、リーダー格のミストハウンドに向かって、全力で投げつけた。


 それは、勇者の力でも何でもない、ただの子供の癇癪のような、無力な抵抗だった。


 石は、ミストハウンドの硬い頭蓋に当たり、こん、と乾いた音を立てて弾かれた。もちろん、ダメージなどあろうはずもない。


 しかし、その行為は、ミストハウンドの注意を、リナからアルへと完全に引きつけた。


 リーダー格は、リナにとどめを刺すのをやめ、ゆっくりとアルの方へと向き直った。その、目のない顔が、明確な殺意を向けてくる。


「アル、逃げなさい! あなたでは相手に…!」


 リナが、痛みに耐えながら叫ぶ。


 だが、アルは逃げなかった。彼は、リーダー格と、その背後にいる群れの前に、折れた剣を構えて、立ちはだかった。


「お前たちの相手は、この僕だ」


 その声は、震えていなかった。


 ミストハウンドたちは、目の前の矮小な存在を、嘲笑うかのように、喉の奥で低い唸り声を上げた。


(時間稼ぎだ…!)


 アルは、自分にできることを、瞬時に理解していた。


 リナが、体勢を立て直し、強力な魔法を放つまでの、ほんのわずかな時間。それを、自分が作るんだ。


 たとえ、この身が引き裂かれようとも。


「さあ、来いよ! 勇者アルが、相手になってやる!」


 アルは、わざと大声を張り上げ、敵を挑発した。


 その無謀な姿が、リナの目に焼き付いていた。


 肩の傷が、焼けるように痛む。魔力も、連続した戦闘でかなり消耗している。


 そして、心の奥底で、あの日の恐怖が、黒い靄のように立ち上り始めていた。


(まただ…また、私の力が足りないせいで、大切なものが失われていく…)


(もし、ここで全力を出したら…また、あの日のように、何もかもを焼き尽くしてしまうかもしれない…)


 恐怖が、彼女の思考を縛り、術式の構築を妨げる。


 その、リナの絶望を見透かしたかのように、リーダー格のミストハウンドが、アルに向かって、ゆっくりと歩み寄る。


 絶体絶命。


 その、瞬間だった。


 アルが、リナの方を、ちらりと振り返った。


 そして、彼は、笑ったのだ。


 いつもの、太陽のような、一点の曇りもない笑顔で。


『大丈夫、君ならできるさ』


 声には出さなかった。だが、彼の瞳が、確かにそう語っていた。


 その、絶対的な信頼。


 それは、リナを縛り付けていた、最後の恐怖の鎖を、粉々に打ち砕くための、魔法の言葉だった。


(……そうだった。私は、もう一人じゃない)


 リナの瞳に、強い光が宿った。


 彼女は、落とした杖ではなく、自らの手で、地面に魔法陣を描き始めた。己の血を、魔力の触媒として。


(見ていなさい、アル。あなたが信じてくれた、この力を)


(もう、暴走させたりはしない。守るべきもののために、完璧に制御してみせる!)


 彼女が描いたのは、『焦土の日』に街を焼いた、あの殲滅魔法の術式ではなかった。


 その理論を応用し、破壊のエネルギーを、極限まで「圧縮」し、「一点」に集中させる、全く新しい概念の魔法。


 この、何十年間、彼女がたった一人で研究し続けてきた、罪を乗り越えるための、答え。


 リーダー格のミストハウンドが、アルの目の前で、その爪を振り上げた。


「――今よ!」


 リナの叫びと同時に、地面に描かれた血の魔法陣が、眩い光を放った。


「凝縮せし太陽よ、我が指先にて解放され、一点の闇を貫け――『陽子穿貫(プロトン・ランス)』!」


 放たれたのは、破壊の奔流ではなかった。


 一本の、針のように細い、純白の光の槍。


 それは、音もなく空間を駆け抜け、リーダー格のミストハウンドの眉間を、正確に貫いた。


 ミストハウンドは、悲鳴を上げる間もなく、その存在が内側から光に飲まれ、塵となって霧の中へと消滅した。


 リーダーを失った他のミストハウンドたちは、一瞬、混乱したように動きを止め、やがて、恐れをなしたように、一斉に霧の奥深くへと逃げ去っていった。


 後に残されたのは、不気味なほどの静寂だけだった。


 アルは、目の前で起こった出来事を、ただ呆然と見つめていた。


 針のように細い一本の光が、あれほど恐ろしかった魔獣を塵に変えてしまった。


 それは、リナが恐れていたような、すべてを焼き尽くす無慈悲な力ではなかった。


 ただ、守るべきものを守るためだけに研ぎ澄まされた、あまりにも美しく、そして強力な一撃――その事実が、アルの心を震わせた。


 はっと我に返った彼は、傷を負った仲間の元へと、夢中で駆け寄った。


「リナ! 大丈夫かい!? 肩の傷は…!」


「……大したことはないわ。それより、あなたこそ、無茶をして……」


 リナは、痛む肩を押さえながら、安堵のため息をついた。


 アルは、彼女の前にしゃがみ込むと、その傷ついた肩を、自分のマントの切れ端で、ぎこちない手つきで縛り始めた。


「ごめん、リナ。僕が、もっと強かったら……」


「……謝らないで」


 リナは、アルの言葉を遮った。


「あなたは、あなたのやり方で、私を守ってくれた。……ううん、身体だけじゃない。私の心も、あなたが救ってくれたのよ」


 彼女は、アルの手当てを受けながら、穏やかな声で言った。


「ありがとう、アル。私の、勇者様」


 その言葉は、心からの響きを持っていた。


 二人は、しばし、互いの存在を確かめ合うように、見つめ合った。


 霧の谷は、まだ深い霧に覆われている。しかし、二人の心の中には、確かな光が灯っていた。


 応急手当を終え、二人は再び歩き始めた。


 谷を抜ける頃には、空は茜色に染まり始めていた。


 そして、丘を一つ越えた時、彼らの目の前に、雄大な光景が広がった。


 地平線の彼方まで続く、巨大な城壁。その内側には、数え切れないほどの建物がひしめき合い、夕暮れの光を浴びて、黄金色に輝いている。


 大陸有数の交易の中心地。


 商業都市、ヴァイスブルク。



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