5 新たな旅立ちと最初の道標
夜が明け、新しい一日が村を淡い光で満たし始めた。小鳥のさえずりが、嵐の後の静寂を優しく破っていく。まるで、世界が昨夜までの激闘を洗い流し、新たな始まりを祝福しているかのようだった。
酒場の宿舎の一室で、アルはとっくに目を覚ましていた。体のあちこちが痛むのも忘れ、部屋の隅で静かに眠るリナの姿を、ただじっと見守っていた。
昨夜、彼女が堰を切ったように流した涙と、その後に見せた、はにかむような、それでいて心の底からの安堵が滲む笑顔が、彼の胸に温かい光を灯し続けていた。
守るべきものができた。その確かな実感が、彼を勇者として、ほんの少しだけ成長させてくれたような気がした。彼女の背負ってきた永い孤独と罪の意識。その全てを理解することはできなくても、その隣で、重荷を半分持つことはできるはずだ。そう、固く心に誓っていた。
やがて、リナが小さく身じろぎし、ゆっくりと瞼を開ける。差し込む朝日に目を細め、ぼんやりとアルの姿を認めると、彼女ははっとしたように小さく息をのんだ。そして、慌てて自分の寝乱れた服を直し、こほん、と一つ咳払いをする。
その一連の仕草には、昨日までの刺々しさはなく、どこか少女のような初々しさが感じられた。
「……おはよう、アル」
その声は、まだ少し掠れていたが、アルの耳には心地よく響いた。
「おはよう、リナ! よく眠れたみたいだね」
アルがいつものように屈託なく笑いかけると、リナはふいと顔をそむけた。しかし、その耳がほんのりと赤く染まっているのを、アルは見逃さなかった。
彼女を覆っていた、人を拒絶するための氷の壁は、すっかり溶けてなくなっている。その代わりに現れたのは、長い間、人とどう接していいか忘れてしまったかのような、不器用で、愛らしい素顔だった。
「別に……。それより、いつまでここにいるつもり? あなたの旅は、魔王を倒すことでしょう。こんな辺境の村で、道草を食っている暇はないはずよ」
言葉は少しきついが、その響きには、アルを気遣う色が確かにあった。
「うん、その通りだ! だから、今日はもう出発しようと思うんだ。リナさえよければ、だけど」
アルがそう言うと、リナは一瞬、驚いたように目を見開いた。まるで、自分が旅に同行することが、当たり前のこととして語られたのが意外だったかのように。そして、数秒の沈黙の後、彼女は静かに頷いた。
「……わかったわ。準備をするから、少し待ちなさい」
その日の朝食は、二人が初めて、本当の意味で食卓を囲んだ時間だった。
主人の妻が腕によりをかけて作った、温かいオートミールと、香ばしい焼き立てのパン、そして新鮮なミルク。リナはまだ、人と食事をすることに慣れないのか、少し緊張した面持ちで、しかし以前よりずっと落ち着いた様子でスプーンを口に運んでいた。その姿は、まるで初めて人間の食事作法を学ぶ、森の小動物のようにも見えた。
「リナは、これからどうしたいとか、行きたい場所とかあるのかい?」
アルの何気ない問いに、リナはスプーンを止め、少し考える素振りを見せた後、静かに首を横に振った。
「特にはないわ。私の目的は、もう何十年も前に見失ってしまったから。この身が滅びるまで、あの森で静かに罪を償い続けることだけが、私に残された道だと思っていた」
彼女の声には、諦念が滲んでいた。しかし、その瞳は、もう絶望の色を宿してはいなかった。彼女は、アルの目をまっすぐに見つめ返した。
「……でも、あなたの旅が、私の新しい目的になるのなら、それも悪くないと思ってる。あなたが魔王を倒すというのなら、私のこの力も、少しは役に立つかもしれない。……いいえ、役に立ててみたい、と、そう思うようになったの」
その言葉には、昨日までの彼女からは考えられないほどの、素直で、前向きな響きがあった。
アルは「そっか!」と、心の底から嬉しそうに、太陽のように笑った。その笑顔が眩しくて、リナはまた少し俯いてしまった。
二人が旅立ちの準備を終えて宿の外へ出ると、村の入り口には、いつの間にか人だかりができていた。彼らの旅立ちを見送るために集まった村人たちだった。
その輪の中心には、腕を組んだ酒場の主人の妻が、仁王立ちで待っていた。
「あら、やっと旅支度ができたのかい。ぐずぐずしてると、日が暮れちまうよ」
憎まれ口を叩きながらも、彼女は大きな布包みを二人に差し出した。中には、旅の保存食となる干し肉や堅パン、そして大きなチーズの塊がぎっしりと詰まっている。ずしりと重い、心のこもった餞別だった。
「アルだけじゃないよ。リナ、あんたの分も入ってるからね。森の化け物を一人で追い払っちまうなんて、大したもんだよ。腹が減っては戦はできぬ、ってね。しっかり食べな」
「……ありがとうございます」
リナが小さな声で礼を言うと、主人の妻は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その口元は確かに笑っていた。その笑顔は、アルが初めてこの村に来た時に見た、不器用だけど温かい笑顔と同じだった。
そこへ、昨日リナに花を渡した子供たちが、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「リナお姉ちゃん、行っちゃうの?」
一番年下の少女が、不安そうな顔でリナの服の裾を掴んだ。
「……ええ」
リナは戸惑いながらも、そっと頷いた。
「これ、あげる!」
少年が差し出したのは、彼らが森で集めてきたという、綺麗に磨かれた石や、色鮮やかな鳥の羽根で作った、素朴なお守りだった。不格好だが、子供たちの精一杯の気持ちが込められているのが伝わってくる。
「森が、いつもの怖い森じゃなくなったんだ! お父さんも、これで安心して森で仕事ができるって喜んでた! 全部、お姉ちゃんのおかげだよ!」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「魔女じゃなくて、森の守り神様だったんだね!」
「ありがとう」と口々に叫ぶ子供たちの純粋な感謝の言葉に、リナはただ立ち尽くしていた。
ありがとう、と言われること。誰かの役に立ったと、真っ直ぐな瞳で告げられること。その一つ一つが、彼女の凍てついていた心に、温かい光を灯していく。
かつて自分を「魔女」と呼び、恐怖と敵意の目で見ていた村人たちが、今、自分たちの旅の門出を心から祝福してくれている。アルが、その無邪気なまでの信頼と行動力で、村人たちと自分の間に、温かい橋を架けてくれたのだ。
そのあまりの温かさに、リナは俯き、必死に涙をこらえた。唇をきゅっと結び、震える肩を隠そうとする。
「さあ、行こうか、リナ」
アルが、そんな彼女の気持ちを察したように、優しく声をかけた。リナはこくりと、小さく、しかし力強く頷いた。
「みんな、本当にありがとう! 僕たち、必ず魔王を倒して、平和な世界を取り戻して帰ってくるから! そしたらまた、ここの美味しいシチューを、お腹いっぱい食べさせてね!」
アルが大きく手を振ると、村人たちから「がんばれー!」「気をつけてな!」「いつでも帰ってこいよ!」という、割れんばかりの声援が飛んだ。
リナも、少しだけ躊躇いがちに、しかし確かに、小さく手を振り返した。その手には、子供たちからもらったお守りが、大切に握りしめられていた。
二人は、温かい声援を背に受けながら、東へと続く新たな街道へと足を踏み出した。
リナの心には、何十年ぶりかに感じる、未来への確かな希望と、誰かと共に歩むことの温もりが、確かに芽生えていた。
◇
村の姿が丘の向こうに完全に見えなくなると、二人の旅は本当の意味で始まった。
どこまでも続く街道、どこまでも広がる青い空、そして頬を撫でる心地よい風。すべてが、アルにとっては、信頼できる仲間と共に歩む、新しい世界の始まりだった。
「ねえ、リナ! 魔導士って、どうやったらなれるんだい? やっぱり、生まれた時から特別な力がないとダメなのかな? 僕も、リナみたいにビュンって魔法が使えたらなあ!」
アルは、まるで遠足に来た子供のように、目を輝かせながら尋ねた。
「そんなことはないわ。才能は、あくまできっかけに過ぎない。大切なのは、世界の理を知りたいと願う探究心と、それを自らの力とするための、途方もない努力よ。魔法とは、現象を観測し、法則を理解し、術式という名のプログラムで世界に命令する技術体系。血筋や才能だけで極められるほど、甘い世界じゃないわ」
「へえー! じゃあ、リナが使ってた、時間を止める魔法も、努力すれば誰でも使えるようになるのかい?」
「……あれは、さすがに無理ね」
リナは少しだけ悲しそうな顔をしたが、すぐにいつもの冷静な口調に戻った。
「時空間に干渉する魔法は、四大元素を操る基本魔法とは次元が違う。膨大な魔力と、世界の因果律そのものを正確に理解する知識がなければ、術式を構築することすらできないわ。下手に手を出せば、術者は時間と空間の狭間に置き去りにされるか、最悪の場合、世界そのものを崩壊させかねない禁術の領域よ。二度と、使うべきではない力だわ……」
アルの素朴な質問に、リナは呆れたような、しかしどこか楽しそうな声で答える。
扉越しではない、直接交わされる会話。アルが自分の知らなかった世界の知識を興奮気味に尋ね、リナがそれを専門的で、しかし分かりやすい言葉で解説する。そのやり取りは、まるで年の離れた好奇心旺盛な兄と、物知りな妹のようでもあった。
アルは、これまでの旅で村々を回り、聞き集めた「情報」が殴り書きされた羊皮紙のメモを取り出しては、得意げにリナに見せた。
「この先には、『鳴き声岩』っていう大きな岩があって、夜になると赤ん坊みたいな声で鳴いて、旅人を惑わすらしいんだ。里の長老が言ってたから、間違いない!」
「……アル。それはただの風鳴りのことよ。特定の形状の岩の隙間を風が通り抜ける時に、共鳴現象が起きて、人の泣き声に似た音が出るだけ。魔物でも何でもないわ。音響物理学の初歩よ」
「そ、そうなのか……。じゃあ、こっちの『涙の沼』は? 悲しい恋に破れたお姫様の涙でできたっていう、ロマンチックな伝説があるんだ!」
「……それは、沼の周辺に自生している催涙効果のある胞子を持つ特殊な蘚苔類の影響ね。沼から立ち上る水分に胞子が混じって、それを吸い込むと涙が止まらなくなるだけ。地質学的な話をすれば、あの辺りは太古の地殻変動で……」
アルが信じていたおとぎ話のような伝説は、リナの冷静で科学的な知識によって、次々とその正体を暴かれていく。
その度にアルは「そっかー! リナは物知りだなあ!」と素直に感心し、リナは「あなた、今までどうやって旅をしてきたの……。運が良かったとしか思えないわ」と、こめかみを押さえて深いため息をつくのだった。
彼の持つ、絶望的なまでの戦闘センスのなさと、世界の認識のズレ。しかし、それらを補って余りある、人の心を開く力と、決して挫けない精神力。
リナは、この不思議な勇者の隣を歩くことに、奇妙な心地よさと、放っておけないという庇護欲のようなものを感じ始めていた。
旅を始めて数日が経った。街道を歩き、夜は野営をする。そんな単調な毎日にも、二人にとっては新しい発見と、ささやかな楽しみがあった。
最初の野営の夜、アルは焚き火の準備を終えると、リュックサックからおもむろに革の袋を取り出した。
「リナ、どうだい? この前は断られちゃったけど、今日こそ一緒にやろうよ!」
彼がにやりと笑いながら広げたのは、色とりどりの精霊が描かれた『四大精霊のカード合わせ』だった。
リナは、その単純明快な遊戯を一瞥し、眉をひそめた。
「…くだらないわ。運と単純な規則だけで構成された、非論理的な時間の浪費ね。そんなことをするくらいなら、星の運行を読んで明日の天候を予測する方が、よほど有意義だわ」
「まあまあ、そう言わずにさ! 楽しいのが一番だよ!」
アルは半ば強引にリナの手にカードを握らせた。リナは深いため息をつき、仕方なく付き合うことにした。
しかし、一度ゲームが始まると、彼女の学者の血が騒ぎ始めた。
(このゲームにおける最適戦略は…? 相手の手札を確率論的に予測し、特殊カードを最も効果的なタイミングで使用するには…)
彼女は、子供向けのカードゲーム相手に、恐ろしく真剣な顔で思考を巡らせ始めた。一方のアルは、ただただ楽しそうにカードを出し、一喜一憂している。
結果、リナはアルの純粋な「楽しむ力」の前にあっけなく敗北した。
「なんで…!? 私の計算では、あなたが最後に『逆転』のカードを持っている確率は12.7%だったはず…!」
「えへへ、僕、こういうの得意なんだ!」
本気で悔しがるリナを見て、アルは腹を抱えて笑った。その屈託のない笑い声につられて、リナの口元にも、自分でも気づかないほど小さな笑みが浮かんでいた。
次の日の昼下がり、街道沿いの木陰で休憩していると、アルがまたリュックをごそごそと漁り始めた。
「そうだ、リナ! これ、食べよう!」
彼が取り出したのは、色とりどりの飴玉や、蜂蜜で固められた木の実の菓子だった。リュックの半分を占めていた、お菓子の山の一部だ。
「これは、旅の仲間ができたら、一緒に食べようって思って、ずっと大事にしてたんだ!」
アルはそう言って、一番大きな蜂蜜菓子をリナに差し出した。リナは一瞬、戸惑ったようにそれを見つめた。甘いものなど、口にするのはいつぶりだろうか。記憶の彼方、まだ自分が「天才少女」と呼ばれていた頃、師が褒美にくれた砂糖菓子の淡い記憶が、脳裏を掠める。
「…別に、いらないわ。糖分の過剰摂取は、思考能力の低下を招く」
「いいからいいから! 疲れた時は、甘いものが一番なんだって、僕のお母さんが言ってた!」
アルに押し付けられる形で、リナは小さな欠片を、おそるおそる口に運んだ。途端に、優しい蜂蜜の甘さが、口いっぱいに広がる。何十年も忘れていた、純粋な「美味しい」という感覚。その温かい甘さが、心の奥の凍てついた部分を、また少しだけ溶かしていくのを感じた。
「…まあ、悪くないわね。効率的なエネルギー補給源としては、評価できるわ」
リナはそっぽを向きながら、ぶっきらぼうにそう言った。しかし、その手は、もう一つの小さな飴玉を、そっと自分の鞄にしまっていた。
そんな風に、二人の距離は少しずつ、しかし確実に縮まっていった。
そして、旅を始めて五日目のことだった。二人は大きな川に行手を阻まれた。数日前の嵐で橋が流されてしまったのか、対岸へ渡る手段がどこにも見当たらない。川幅は広く、流れも速い。泳いで渡るのは無謀だろう。
「どうしようか、リナ。地図によると、次の橋まではかなり遠いみたいだ。回り道を探すしかないかな?」
アルが困ったように言うと、リナは冷静に周囲を観察した。
「待って。この川幅だと、少なくとも二十キロは迂回しないと次の橋はないわ。それでは日が暮れてしまう」
「よし、わかった! 僕に任せて!」
アルはそう言うと、おもむろに近くにあった倒木に駆け寄った。数人がかりでなければ動かせないような、巨大な丸太だ。
「これを、うんとこしょって川に倒せば、立派な橋になるんじゃないかな! 名付けて、勇者の一本橋作戦だ!」
「……やめなさい、アル。あなたの力でどうにかなる重さじゃないわ。腰を痛めるだけよ。それに、そんな不安定な橋、渡る方が危険だわ」
「いや、勇者の力を見せてやる! うおおおおお!」
アルはリナの制止も聞かず、渾身の力を込めて丸太を押し始める。彼の顔はみるみるうちに真っ赤になり、額には大粒の汗が滲み、腕の血管が浮き上がっている。しかし、巨大な丸太は、彼の努力をあざ笑うかのように、びくともしない。
そのあまりにも無謀で、滑稽で、しかし真剣そのものな姿に、リナはこめかみを押さえ、今度こそ本気で深いため息をついた。
「……もういいわ。いい加減にしなさい。少し離れていて」
リナはそう言うと、すっと杖を構え、川に向かって静かに詠唱を始めた。彼女の周りの空気が、ひんやりと澄んでいくのが分かった。
「氷精よ、我が声に応え、堅牢なる道を築け――氷結の架け橋」
リナが杖を振るうと、川の水面が足元からみるみるうちに白く凍りつき、対岸まで続く、美しく頑丈な氷の橋が瞬く間に架けられた。表面には滑り止めのための細かな凹凸まで丁寧に施されており、彼女の魔法技術の精緻さを物語っていた。陽の光を浴びて、橋はダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いている。
「わあああっ! すごい! これが氷の魔法かい! 綺麗だなあ!」
アルは、さっきまでの奮闘が嘘のように、目をキラキラさせて氷の橋を渡り、その感触を確かめている。
「すごいよリナ! これなら馬車だって通れそうだ! ありがとう!」
「……あなたといると、本当に魔力の消耗が激しいわ……」
リナは疲れきった声で呟いたが、その横顔には、どうしようもない弟の世話を焼く姉のような、柔らかな表情が浮かんでいた。
自分の力が、誰かの役に立ち、そして、こんなにも素直に喜んでもらえる。その事実が、彼女の心を満たしていくのを感じていた。
◇
その日の夜、野営の準備をしながら、アルは自作の世界地図を地面に広げた。
大陸の形は歪み、川はあらぬ方向へ流れ、街や森の位置もめちゃくちゃだ。彼がこれまで立ち寄った村や町で、親切な人々から聞き集めた断片的な情報と、彼の豊かな想像力だけで描かれた、愛すべきガラクタだった。
「さて、と。次の仲間を探しに行かなくちゃな!」
アルは焚き火の炎を見つめながら、決意を新たにするように言った。
「リナがいてくれるからすごく心強いけど、この前の戦いで思い知らされたよ。僕が、勇者としてみんなの前に立って戦うには、まだまだ力が足りないんだ。だから、もっと仲間が必要なんだ」
アルはリナに向き直り、真剣な眼差しで尋ねた。
「次はどんな仲間がいてくれたら助かるか、リナはどう思う?」
リナは、アルの言葉に静かに頷くと、彼の広げた地図を一瞥し、呆れたように眉をひそめた。
「まず、あなたのその地図は、正直言って何の役にも立たないわ。むしろ、持っているだけで遭難のリスクを高める代物よ。仲間を探す前に、まず私たちがどこにいるのかを正確に把握する必要があるわね」
そう言うと、リナは焚き火の燃えさしから炭を一本取り、新しい羊皮紙に、驚くほど正確な地図を描き始めた。彼女の記憶の中には、この世界の詳細な地理情報が、まるで王立図書館の書庫の蔵書のように、完璧に収められているのだ。
「…それに、アル。仲間を探すのは賛成よ。でも、その前に考えておかなければならないことがあるわ」
リナは地図を描く手を止め、その表情をいつもの冷静な学者のそれへと戻した。
「先日、あの森に現れた黒竜…あれほどの力を持つ存在が、何の理由もなく辺境の森に巣食っていたとは思えない。何かが、世界のバランスを崩し始めている証拠よ」
リナの瞳が、鋭い光を帯びる。
「私の隠れ家は、強力な結界で隠されていたはず。並の魔物なら、その存在にすら気づけない。それなのに、あの竜はまるで初めから場所を知っていたかのように、正確に襲ってきた。…結界を破るのではなく、すり抜けるような、不可解な侵入。あれは、ただの偶然とは思えないわ」
彼女はそこで一度言葉を切り、アルの目をじっと見つめた。
「何十年も昔、私の故郷を襲った魔王軍の幹部…あの時もそうだった。街の防衛結界は完璧なはずだったのに、いとも簡単に破られた。魔王軍は、私たちが思っている以上に、強力で、狡猾な手段を持っているのかもしれない。あの竜の出現も、その一端である可能性が高いわ」
リナの言葉は、ただの推測ではなかった。彼女の持つ膨大な知識と、壮絶な過去の経験が、点と点を結びつけ、一つの可能性を導き出していた。
「このまま、何も知らずに旅を続けるのは危険すぎる。魔王を倒すというのなら、まず敵を知らなければ。彼らが何を目論み、どう動いているのか。情報を集め、こちらも力を蓄える必要があるわ」
リナはそう言うと、描き上げた地図の上で、ある一点を指差した。
「商業都市『ヴァイスブルク』。東へ三週間ほど歩けば着くわ。大陸でも有数の交易の中心地で、城壁に囲まれた大きな街よ。多くの冒険者や傭兵ギルドが集まるから、腕の立つ戦士を見つけるにも、今後の情勢を探るにも、ここが一番適している」
「商業都市ヴァイスブルク…!」
アルは、リナの論理的な説明に、ただただ感心していた。そして、彼女が自分たちの未来を真剣に考えてくれていることが、何よりも嬉しかった。
「わかった! そこに決めた! リナの言う通りにしよう!」
アルの素直な返事に、リナは少しだけ驚いたように目を見開いたが、やがて、ふっと口元を緩めた。
「決まりね。私たちの最初の道標は、あの街よ」
アルは、リナが描いてくれた正確な地図を、宝物のように大事に眺めた。
「すごいなあ、この地図! これならもう迷わないね! ありがとう、リナ!」
「礼を言うのは、ヴァイスブルクに着いてからにしてちょうだい。まだ気は抜けないわ」
リナはそう言いながらも、その声には確かな手応えと、未来への期待が滲んでいた。
焚き火の炎が、希望に満ちた二人の横顔を明るく照らし出す。
一人は、自分の無力さを知りながらも、決して折れない心を持つ勇者。
もう一人は、最強の力を持ちながら、その正しい使い方をようやく見つけた魔導士。
商業都市ヴァイスブルクを目指す、ちぐはぐな二人の長い旅路は、まだ始まったばかりだった。