4 新たな絆と『焦土の魔女』
(もし、彼が私の過去を全て知ったら…その時も、こんな風に笑ってくれるのだろうか)
その問いが、氷の棘のようにリナの胸に突き刺さる。アルの屈託のない笑顔が眩しいほどに、彼女の心の闇は深くなるようだった。
安堵と恐怖という、相反する感情の嵐に、リナの精神は限界まで擦り減っていた。その重圧に耐えきれなくなったかのように、彼女の体からふっと力が抜ける。
「リナ!」
ぐらりと傾いだ体を、アルが慌てて支えた。彼の腕に触れた瞬間、リナは自分が立っていることすらままならないほどの疲労に襲われていることに気づく。魔力の枯渇だけではない。魂そのものが、悲鳴を上げていた。
「…大丈夫…少し、ふらついただけ…」
「大丈夫なもんか。顔が真っ青だよ。今は休まないと。小屋は壊れちゃったけど、壁があるだけマシだ。さあ、肩を貸すよ」
アルはリナの腕をそっと自分の肩に回し、ゆっくりと立ち上がらせた。リナは抵抗する気力もなく、彼の体温に導かれるように、半壊した我が家へと足を踏み入れる。
吹き込んだ風雨で床は濡れ、めちゃくちゃに散乱した本や道具が足の踏み場もないほどだった。竜のブレスで燃え上がった本棚の一部は、幸か不幸か、その後の暴風雨によって鎮火し、黒い煤と焦げた匂いをあたりに撒き散らしている。
アルは比較的被害の少ない暖炉のそばまでリナを連れて行くと、まだ燻っていた残り火に、乾いた木切れを数本くべた。ぱちぱち、と小さな音がして、頼りないが温かい光が二人の疲れた顔を照らし出す。
アルはリナを近くの木椅子に座らせた。リナはそこに座ると、もう指一本動かせないかのように、深くうなだれた。アルもまた、隣の床にどさりと腰を下ろす。竜に吹き飛ばされた体のあちこちが、今になって悲鳴を上げていた。
言葉はなかった。あまりにも多くのことが起こりすぎた夜だった。ただ、暖炉の火が揺れるのを見つめながら、二人は互いの存在だけを確かめるように、静かな時間を過ごす。
リナは、時折アルの横顔を盗み見た。彼は疲れているはずなのに、その表情には不思議なほどの満足感が浮かんでいる。最初の仲間ができたことが、よほど嬉しいのだろう。その純粋さが、リナの胸を締め付けた。
(この温かさを、私は受け入れてもいいのだろうか。いつか、この手を振り払われる日が来るかもしれないのに…)
そんな考えが頭をよぎるたびに、罪悪感が彼女を苛む。しかし、隣にいるアルの穏やかな気配が、不思議と彼女のささくれだった心を鎮めていくのもまた事実だった。
やがて、極度の緊張と疲労に抗えず、彼らの意識はゆっくりと闇の中へと沈んでいった。リナは椅子に座ったまま、アルは壁に寄りかかったまま、嵐の後の静寂の中で、つかの間の眠りに落ちたのだった。
夜明け前の静寂が、その眠りを優しく包んでいた。黒竜の咆哮も、荒れ狂う風雨の音も、今はもうない。ただ、無数の虫の音が、まるで世界の再生を祝うかのように響いている。
暖炉の火はほとんど消えかかり、疲弊しきって眠る二つの影を、かろうじて闇から浮かび上がらせていた。
アルは、リナよりも先に目を覚ました。体の節々が、昨夜の衝撃を思い出して軋むように痛む。それでも、彼はゆっくりと身を起こすと、隣で眠るリナの寝顔をそっと覗き込んだ。
彼女は、小さな木椅子に座ったまま、膝に顔を埋めるようにして眠っていた。長い黒髪が、月明かりを浴びて銀色に光る頬を隠している。時折、悪夢でも見ているのか、その眉根が苦しげに寄せられた。
昨日、彼女がたった一人で背負ってきたものの巨大さと、その心の脆さの片鱗に触れたアルは、胸が締め付けられるような思いがした。自分が知っているリナは、ぶっきらぼうで、人見知りで、でも本当は優しくて、とてつもない魔法を使うすごい魔導士だ。それだけで十分だった。彼女が何をそんなに怯えているのか、アルにはまだ分からなかったが、ただ守ってあげたいと、心の底から思った。
やがて、リナが身じろぎし、静かに瞼を上げた。まだ夢と現の境界をさまようような、ぼんやりとした紫色の瞳が、アルの姿を捉える。
「…アル…」
「おはよう、リナ。よく眠れたかい?」
アルがいつも通りの屈託のない笑顔を向けると、リナははっと我に返ったように、慌てて背筋を伸ばした。そして、昨夜の出来事と、自分が彼の前で見せた姿を思い出し、気まずそうに顔をそむける。
「…別に。慣れない場所では、あまり眠れない質なのよ」
そう言いながら、彼女は立ち上がり、小屋の中を見渡した。その惨状に、彼女の表情が再び曇る。倒れた本棚、散乱した書物、砕け散った薬瓶、そして熱で黒く変質し、もはや意味をなさなくなった床の術式。彼女が何十年もかけて築き上げてきた、孤独な城の残骸だった。
「…ひどい有様ね」
「本当だね。でも、リナが無事でよかったよ。本や道具は、また集めればいいさ!」
「簡単に言わないで。ここの蔵書のほとんどは、もう二度と手に入らない稀書ばかりだったのよ」
リナはため息をつき、諦めたように言った。しかし、その声には以前のような棘はなく、むしろ寂しさが滲んでいた。
「仕方ないわ。あなたとの約束だもの。旅の準備をするわよ。少しだけ待ってて」
リナは残った荷物の中から、使えそうなものを手際よく選別し始めた。旅に最低限必要な薬草や、いくつかの魔導書、そして小さな革袋に入った研究ノート。彼女が瓦礫の中から、卵のように丸い白い石と、ねじくれた木の実を拾い上げ、そっと鞄にしまうのを、アルは黙って見ていた。
「よし、行こうか!」
アルが真新しい(しかし少し汚れてしまった)リュックを背負うと、リナも小さな鞄を肩にかけた。二人は、住み慣れた、そしてもう帰ることのない小屋に背を向け、朝の光が差し込む森へと、新たな一歩を踏み出した。
森の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。人を惑わすような不気味な魔気は完全に消え失せ、代わりに、澄み切った清浄な空気が満ちている。ねじくれていた木々は、心なしか真っ直ぐに伸びているように見え、木々の間から差し込む陽光は、暖かく二人を包み込んだ。
「あれ?なんだか森の雰囲気が変わったね」
「…あの竜が、この森の異常な魔気の元凶だったみたいね。あいつがいなくなったことで、森が本来の姿を取り戻したんだわ」
リナが冷静に分析する。二人が村へ続く道を下っていくと、昨日まであれほど迷ったのが嘘のように、真っ直ぐな道が目の前に開けていた。
村の入り口が見えてきた時、アルは少しだけ緊張しているリナに気づいた。彼女は無意識にアルの少し後ろを歩き、その表情は硬く、視線は地面に落ちている。
「大丈夫だよ、リナ。みんな、君がすごい魔導士だってこと、すぐにわかってくれるさ」
「…別に、わかってもらおうなんて思ってないわ」
軽口とは裏腹に、彼女の指先が不安げに鞄の紐を握りしめていた。
村は、まだ朝の静けさの中にあった。しかし、二人の姿を最初に見つけた子供が、「あ!勇者のアルが帰ってきた!…女の人も一緒だ!」と声を上げたのを皮切りに、家々から村人たちが恐る恐る顔を覗かせ始めた。
彼らの視線は、最初、アルの隣にいる見慣れない少女――リナに集中した。黒いローブに身を包み、その顔には近寄りがたい雰囲気が漂っている。村人たちの脳裏に、長年語り継がれてきた『森の魔女』の恐怖が蘇り、囁き声と警戒の色がさざ波のように広がった。
「おい、あれが…」
「森の魔女じゃないのか…?」
「アルの奴、とうとう誑かされて連れてきやがった…」
その敵意に満ちた空気に、リナの体がこわばる。俯いた彼女の脳裏に、かつて投げつけられた呪詛の言葉が蘇り、血の気が引いていくのがわかった。
その時、アルがリナの前に一歩出ると、集まってきた村人たちに向かって、朗らかに、しかしはっきりと聞こえる声で言った。
「みんな、おはよう!紹介するよ、僕の最初の仲間、リナだ!すごい魔導士なんだよ!」
彼のあまりにもあっけらかんとした紹介に、村人たちは一瞬、言葉を失った。そこへ、酒場の扉が開き、主人が心配そうな顔で出てきた。
「アル!無事だったか!昨日のあの嵐は一体…それに、そちらの方は…」
主人の視線が、恐れと好奇の入り混じった色でリナに向けられる。アルは、村人たちが理解できるように、少しだけ話を単純化して説明した。
「昨日の嵐は、悪い竜の仕業だったんだ。村に近づいてきてたんだけど、リナがすごい魔法でやっつけてくれたんだよ!だからもう、この森は安全だ!リナは、この村の恩人なんだ!」
アルの言葉に、村人たちは半信半疑の表情でざわめいた。竜?魔女がやっつけた?あまりにも現実離れした話に、すぐには信じられない。
しかし、その時、酒場の主人の妻が、腕を組んで前に進み出た。彼女はリナの姿を、頭のてっぺんからつま先まで、じろりと品定めするように見つめた。リナは、その強い視線に射竦められたように身を固くする。
「…あんたが、アルの言ってたリナかい」
「……」
リナは何も答えられない。しかし、主人の妻は、リナの怯えたような瞳の奥に、自分たちが噂していたような邪悪さとは違う、何か別のものを見て取ったようだった。彼女はふん、と鼻を鳴らすと、アルに向かって言った。
「とにかく、二人とも、ひどい格好じゃないか。昨日のあの嵐の中、森で何があったか知らないけど、まずは休みな。うちの宿で温かいもんでも用意してやるよ」
その予想外の言葉に、アルだけでなく、他の村人たちも驚いた。主人の妻は、呆気に取られているリナの手を、有無を言わさずぐいと掴んだ。
「さあ、こっちだよ!突っ立ってないで!」
その手の温かさに、リナはびくりと肩を震わせたが、なぜか振り払うことはできなかった。
酒場の宿舎の一室に通された二人は、主人の妻が出してくれた温かいシチューとパンで、ようやく人心地つくことができた。アルは「やっぱりここのシチューは世界一だ!」と上機嫌だったが、リナは終始無言で、緊張した面持ちのまま、ただ黙々とスプーンを口に運んでいた。
しばらくして、ようやく器が空になる頃、アルが切り出した。
「リナ、少しここで休んでいこう。君も疲れているだろうし、僕も少し準備を整えたいんだ」
「…好きにすればいいわ」
リナは短くそう答えると、空の食器をテーブルの端に寄せ、逃げるように部屋の隅の椅子に座った。そして、膝の上で固く手を組んだまま、窓の外を眺め始めた。人と関わることを、極端に避けているのがわかった。
アルはそんなリナの様子を気にしながらも、持ち前の社交性を発揮し始めた。彼は酒場に集まってきた村人たちに、昨夜の出来事を(もちろん、彼の主観と少しの勘違いを交えながら)英雄譚のように語って聞かせた。
「竜のブレスが火の柱みたいに迫ってきたんだけど、リナが『ロックフォートレス!』って叫んだら、地面から巨大な壁がせり上がってきて、それを防いだんだ!すごかったんだよ!」
「それでね、リナが『サウザンドエッジ!』って唱えたら、見えない風の刃がたくさん飛んで行って、周りの小竜を一瞬でやっつけちゃったんだ!」
アルの生き生きとした語りに、最初は疑っていた村人たちも、次第に引き込まれていった。何よりの証拠は、あの不気味だった森が静けさを取り戻し、昨夜の尋常ではない嵐が、朝日と共に嘘のように消え去ったという事実だった。
彼らが長年抱いてきた「森の魔女」への恐怖は、アルというフィルターを通して、「村を救ってくれたすごい魔導士」への畏敬と好奇心へと、ゆっくりと姿を変えていった。
その日の昼下がり、リナが部屋で一人、研究ノートを読み返していると、扉が控えめにノックされた。リナが警戒しながら扉を開けると、そこには数人の子供たちが、もじもじと立っていた。先頭にいたのは、以前アルに「魔女と友達なの?」と尋ねた少年だった。
「…あの、お姉ちゃん」
「…何?」
リナの冷たい声に、子供たちはびくりと肩を震わせた。しかし、少年は勇気を振り絞って、手に持っていたものを差し出した。それは、村のはずれに咲いていた、一輪の小さな野の花だった。
「…これ、あげる。アルから聞いたよ。僕たちの村を、守ってくれてありがとう」
その言葉と、差し出された小さな花。リナは、息をのんだ。ありがとう、と。誰かに感謝されるなんて、いつぶりだろうか。いや、『焦土の日』以来、一度もなかった。彼女の世界では、感謝はいつも、憎悪と呪詛の裏返しだった。
リナは差し出された花を受け取ることができず、ただ立ち尽くしていた。そんな彼女の様子を、少年は怒っているのだと勘違いしたのかもしれない。
「ご、ごめんなさい!」
少年はぺこりと頭を下げると、仲間たちと一緒にぱっと走り去ってしまった。残されたリナの手の中には、いつの間にか、その小さな花が握らされていた。
彼女は部屋に戻ると、その一輪の花を、水を入れたコップにそっと挿した。殺風景な部屋の中で、その小さな黄色い花だけが、鮮やかな生命の色を放っている。リナは、その花から目が離せなかった。胸の奥が、ちくりと、甘く痛んだ。
夕方、アルが子供たちと村の広場で遊んでいるのを、リナは宿の窓からぼんやりと眺めていた。アルは子供たちにせがまれ、錆びて折れてしまった剣で、父親に教わったという剣の型を披露している。そのぎこちない動きに、子供たちは大笑いしていたが、アル本人は至って真剣だった。その光景は、どこまでも平和で、穏やかだった。
(こんな時間が、私にも許されるのだろうか…)
リナの心に、安らぎと共に、深い罪悪感が影を落とす。この温かい光の中にいればいるほど、自分の過去という闇の深さが際立って感じられた。
その夜。
夕食を終えた後、アルとリナは、村を見下ろせる静かな丘の上にいた。満月が、銀色の光で世界を照らしている。村からは、人々の楽しげな笑い声や、温かい光が漏れてきていた。
「いい村だね。みんな、本当はすごく優しい人たちなんだ」
アルが言うと、リナは黙って頷いた。
しばらくの沈黙の後、リナは、意を決したように口を開いた。その声は、月の光のように静かで、少しだけ震えていた。
「…アル。あなたに、話しておかなければならないことがあるわ」
アルは、リナのただならぬ雰囲気を察し、黙って彼女の言葉を待った。
「私が、村の人たちをあれほど避けていた理由…。私が、自分の力をあれほど恐れていた理由…。あなたは、私のことを『すごい魔導士』だと言ってくれるけれど、それは本当の私じゃない」
リナは、遠い過去を見つめるように、夜空に視線を向けた。
「…私はね、アル。もう何十年も、この姿のままなのよ」
アルは驚きに目を丸くした。
「えっ、そうなの!?すごい…!」
彼はやがて何かを納得したようにこくりと頷くと、続けた。
「やっぱり、リナは本物の魔導士なんだな。里の長老が言ってたよ、本当にすごい魔法使いは、見た目じゃ歳はわからないんだって」
アルのあまりにも純粋な反応に、リナは力なく微笑んだ。その笑みは、ひどく悲しげに見えた。
「ええ…でも、これは祝福なんかじゃない。私が私に課した、呪いなの。死ぬことも許されず、この姿のまま、罪を背負い続けるための…果てしない罰よ」
リナの告白が始まった。
「今から、そうね…数十年以上も昔のこと。私は、とある王国の魔術都市で暮らしていた、ただの魔導士の卵だった。歳は、今のあなたと同じくらいだったかしら。でも、私は少しだけ、他の人より魔法の才能に恵まれていただけ。周りからは『天才』なんて呼ばれて、将来を期待されていたわ。私自身、魔法の力で、いつか世界を、人々を、より良くできると信じて疑っていなかった。魔法は、希望そのものだったの」
彼女の声は、淡々としていた。しかし、その奥には、抑えきれないほどの激情が渦巻いているのがアルにもわかった。
「でもある日、街が『魔王軍の幹部』に襲われたの。あまりにも突然で、あまりにも圧倒的な力だった。街の防衛結界は紙のように破られ、私を指導してくれた師や、共に学んだ仲間たちが、私の目の前で…次々と…」
リナの言葉が詰まる。彼女は唇を強く噛みしめ、溢れそうになる感情を必死に堪えていた。
「追い詰められた私は、決断した。この絶望的な状況を覆すには、もうこれしかない、と。理論の上でしか存在しなかった、誰も完成させたことのなかった、全く新しい概念の殲滅魔法を、その場で構築して、放つことにしたの。自分の命を触媒にしてね」
「リナ…」
「魔法は、成功したわ。魔王軍の幹部も、その軍勢も、私の作り出した魔法の前に、完全に消滅した」
彼女は、そこで一度言葉を切った。そして、アルの方に向き直る。その紫色の瞳は、深い絶望の色に染まっていた。
「でもね、代償はあまりにも大きすぎた。私の魔法は、あまりにも不完全で、無慈悲だった。解放された力は、敵だけじゃなく…私が守りたかったはずの市街地の一部も、そこにいた、何の罪もない住民たちも…区別なく、全てを飲み込んで、焼き尽くしてしまったの」
風が、リナの髪を悲しげに揺らす。
「後で聞いたわ。その日は『焦土の日』と呼ばれるようになったって。街の一画が、文字通り、更地になった日。私が守ろうとして、守れなかった人たちの、命日よ」
「生き残った人たちにとって、私は救世主じゃなかった。家族を、友人を、一瞬で消し炭に変えた、魔王軍よりも恐ろしい『破壊の化身』。彼らの目は、恐怖と…そして、決して消えることのない憎悪で燃えていたわ」
リナは、虚ろな声で、かつて浴びせられた言葉を繰り返した。
「『人殺し』…『悪魔め…!』って」
「守りたかった人たちから投げつけられる言葉と、自分の才能が生み出した惨状を前に、私の心は、完全に壊れてしまった」
彼女は、両腕で自分自身を抱きしめるように、小さく震えていた。アルは、かけるべき言葉が見つからず、ただ、その痛々しい姿を見つめることしかできなかった。
「私は森へ逃げ込んだ。そして、自分に最も重い罰を課すことに決めたの。死んで楽になるなんて、許されない。この罪を、この愚かな自分を、決して忘れず、永遠に苦しみ続けなければならないって」
「それで、使ったのよ。かつて、歴史的な遺物を未来へ遺すために役立てたいと研究していた、希望の魔法をね。物体の劣化を極限まで遅らせる、保存の魔法。それを、自分自身の肉体に使った。死という安らぎさえも拒絶して、若く愚かな過ちを犯した自分を、永遠にこの世に縛り付けるために」
「こうして、物を守るための希望の魔法は、私の時を止める呪いになったのよ。私が『森の魔女』と呼ばれるようになったのは、それからずっと後のこと。最初は『焦土の魔女』と呼ばれていたわ。全ては、私が犯した罪の物語」
全てを語り終えたリナは、俯いて、アルの反応を待っていた。彼女の心は、氷のような恐怖に支配されていた。彼は、私の過去を知った。人殺しの、化け物の過去を。きっと、軽蔑するだろう。村人たちと同じように、恐怖と憎悪の目で、私を見るだろう。仲間だなんて、もう二度と言ってくれないだろう。
長い、重苦しい沈黙が、二人を包んだ。
やがて、アルが静かに口を開いた。
「…そうか。そんなことが、あったんだね」
その声は、驚くほど穏やかだった。リナが恐る恐る顔を上げると、アルは、悲しそうな、でも、どこまでも優しい目で、彼女をまっすぐに見つめていた。その瞳には、リナが恐れていた軽蔑や恐怖の色は、一欠片も浮かんでいなかった。
「辛かったよね、リナ。ずっと一人で、そんな重いものを背負って…」
アルは、そっとリナの隣に座ると、彼女がコップに挿していたのと同じ、黄色い野の花を差し出した。いつの間に摘んできたのだろうか。
「僕は、君が経験した苦しみの、ほんの少ししかわからないかもしれない。でも、一つだけ言えることがあるよ」
アルは、真剣な眼差しで続けた。
「君は、悪くない」
その言葉に、リナの瞳が大きく見開かれた。
「君は、街を、みんなを守りたかっただけなんだろ?そのために、自分の命さえ懸けて、必死に戦ったんだ。結果として、悲しいことが起きてしまったのかもしれない。でも、君のその気持ちは、誰にも汚させちゃいけない、本物だよ」
「でも、私は…!」
「君の力が、人を傷つけたのかもしれない。でも、昨日の戦いで、その力は僕を、そしてこの村を、竜から守ってくれた。力っていうのは、それ自体に良いも悪いもないんだと思う。ナイフが、料理にも使えれば、人を傷つけることもできるみたいにね。大事なのは、誰が、何のために、それを使うかだ。そして、今の君は、その力を人を守るために使っている。僕は、それを知ってるよ」
アルの言葉は、単純で、素朴だった。しかし、その言葉には、理屈を超えた、魂を揺さぶる力があった。何十年もの間、リナを縛り付けてきた罪悪感という名の分厚い氷を、彼の温かい言葉が、ゆっくりと溶かしていく。
アルは、そんな彼女の様子を見て、さらに言葉を続けた。
「君が一人で過ごした時間は、罰なんかじゃない。君がそのすごい魔法を使えるのは、何十年もずっと、たった一人で頑張ってきたからなんだ。そっか…だからリナは、あんなに強かったんだな。僕の仲間探しは、やっぱり間違ってなかった!」
その、あまりにもアルらしい言葉に、リナの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、悲しみの涙ではなかった。何十年という長い時間、凍てついていた心が、ようやく溶け出した、温かい涙だった。
「…馬鹿。ほんと、馬鹿よ、あなたは…」
しゃくり上げながら、彼女はそう言うのが精一杯だった。
アルは、何も言わずに、彼女が泣き止むのを待っていた。夜空には、満月が静かに輝いている。それは、アルとリナという、二人の仲間が、本当の意味で絆を結んだ夜だった。
リナはまだ、自分の罪が完全に消えたとは思っていない。しかし、これからはもう、一人でその罪を背負う必要はないのだと、彼女は初めて思うことができた。
「ありがとう、アル」
涙の跡が残る顔で、彼女は心の底から、そう微笑んだ。それは、アルが初めて見る、彼女の本当の笑顔だった。